君さえいれば-4

SHIRO HONJYO

 十分の休憩と聞いて、キリエが「ノハラの所に行きましょうよ」と僕の腕を引っ張った。シオが後に続く。セットの奥の『彼女』の席で、ノハラはうなだれていた。
「残念だったわね、ペアリング」
「そんな物要らないっ!!」
 顔を上げたノハラはシオに抱きついて「もう帰りたーい…」と情けない声を出した。シオがノハラの肩に手を置いた。
「がっかりしないで、ノハラ」
「絶妙のタイミングね、そのセリフ」
 キリエが一人で納得してうんうんと頷いた。
「シュウヘイは?」
「半径5メートル以内に近づくなと言ってある」
 シュウヘイは5メートル先の床に膝を抱えて座り、こちらをじとーっと見ていた。
「でも帰らないんでしょう?ノハラが帰っちゃったら、シュウヘイ大恥よ」
「知らない、恥でも4コマ漫画でもかけばいいんだ」
 でも、ノハラはここにいる。キリエはくすっと笑った。
「向こうのカップルは仲いいわねえ。彼はハンサムだし、彼女も可愛いし。ほら見て?」
 キリエの指差す方を見ると、彼女を抱き寄せようとした彼が、始めに紹介された推理作家にハリセンで殴られるところだった。シオが「あれはギャグ」と言って、ウフフと笑った。ノハラは「うん」と頷いて、
「することなくて暇だから、彼女と話をしてたんだけど、いい子だよ。素直で可愛い」
「ノハラもそろそろ素直になったら?放っておいたら愛想尽かされちゃうわよ」
「いいんだよ。それで」と俯くノハラの瞳が暗い。
「可愛くないわね」
「可愛くなくて結構」
 ノハラが椅子を蹴って立ち上がった。シュウヘイも立ち上がる。ノハラが歩き出すと、5メートルの距離を保って彼も歩き出した。
「どこ行くの」
「…トイレだよ。とにかく今日は…仕方ないからここにいるけど。シュウヘイ、トイレにまでついてこないでよ」
 そう言ってノハラはくるりと背を向け、シュウヘイはその場に立ち尽くした。スタジオを出ようとするノハラを追いかけて、僕は彼女を呼び止めた。
「ノハラ。シュウヘイはいつも、ノハラは可愛い可愛いってそればかり言ってるよ」
「………」
 耳まで赤くなったノハラは「バカな奴」と呟いてスタジオを出て行った。




MARIA ARIMA

 次の対決はわんこそば。制限時間内にたくさん食べた方が勝ち。
 私と由加さんは、そばをお椀にぱかぱか入れるというアシスタント役だ。
「諒介さんが出場したら、ぶっちぎりで優勝ですよね、きっと」
「対戦相手の分まで食べちゃったりして」
 由加さんはくすっと笑った。その視線の先にいるのは3番カメラの諒介さんで、スタッフの人と何やら真顔で話し合っていた。
 その微笑みが    アリスのようだと思った。
 由加さんも諒介さんを大事に思っている。とても深く。
     諒介さん。無理していませんか。
 先刻澤田さんが由加さんの頬に触れた時にも、そう思った。澤田さんという人は由加さんを好きなんだろう。一目で判る。
 さり気なく触れる手が、とても自然だったから。
 澤田さんと同じしぐさなのに、アリスに触れる火村先生は、「片時も離したくない」と言う通り、ほんの数センチの距離にも怯えているように見える。手を離したら、失ってしまうとでもいうように。
 諒介さんもきっと怖いのだ。由加さんを失うこと。だから指一本触れずにいる。
 二人とも、大切な人はとても近くにいるのに。    いるから。
 失うのが、怖い。
 どうしてそれ程まで二人が淋しいのか私には判らないけれど。二人を見ていると私も淋しくなる。
 火村先生と桜木さんがテーブルに着いた。私は先生の、由加さんは桜木さんの横に立つ。傍らにわんこそばを載せたワゴンが運ばれた。「本番いきます」と調整室の声。
「いやあ、おいしそうだねえ。スタッフの一人が羨ましそうに見てますよ〜?つー訳で第三ラウンド、男のわんこ対決!」
 何の対決か、もはや判らない。
「アリスさんはモデルみたいにスタイルいいけど、食べるのは好き?」
「は、そんな……。甘い物とか、大好きです」
 赤くなって俯くアリス。
「フフ、女の子は甘い物好きだねえ。先生とよく食べに行ったりする?」
「はい!この前もケーキバイキングに連れてっていただきました!」
 アリス、力一杯嬉しそうに答える。「うんうん」と火村先生の独り言が聞こえた。
「ケーキバイキング。先生も食べるの?」
「はい!全種類制覇です!」客席がどっと沸いた。「うんうん」と火村先生。
「私、人が食べてるところ見るの好きなんです。おいしそうに食べてる人を見てると、幸せな気持ちになるやないですか」
「…幸せな気持ちになるのか…」と火村先生、ぽつり。
「食べっぷりのいい人、好きですよ」
「……好き、なのか……」と火村先生。
 私は力が抜けてゆくのを感じた。
「ノハラさんは」
「甘い物嫌いだし」
 インタビューが終わった。
 火村先生が「見てろよ……」と箸を手にした。
「見たくないです」
「何か言ったか?有馬君」
「いいえ」
 私はおかわりのそばのお椀を持った。
「さあ胃拡張になるまで食べてください。れでぃー、ごお!」
 カーン。
 番組の雰囲気に慣れてきた観客が声援を送る。まさか盛り上がるとは。
 ずるずるぱか。ずるずるぱか。ずるぱかずるぱかずるぱか。
 結構忙しない。先生のお椀が空になるタイミングを計りながら、右向いて左向いて。
 ずるぱかずるぱかずるぱか………
 ぱか。ぱか。ぱか。
 隣の桜木さんの方の音はちょっと違う。
「あのー………」
「はいっ!」
 ぱか。
 わんこマシーンと化した由加さんが桜木さんの前にそばの山を作っていた。
「ああっ!すみませんっ!」
 真っ赤になった顔を隠そうとした由加さんの手に、お椀が握られていた。
 こーん。
 いい音がした。
 観客がどっと笑った。
「フフ、やるねえ泉ちゃん」
 古田さんが由加さんの顔についたそばをヒョイと取ってやった。泣きそうな顔になっている由加さんを背中の後ろに回して、「この勝負、火村さんの勝ちね」と、第三ラウンドを強制的に終わらせてしまった。カンカンカーンと効果音が鳴る。
「ええっ!何で!」
「だって火村さんより食べるの遅かったからおかわりについていけなかったんでしょ?ちゃんとやってても負けてると思うよ?」
 桜木さんは、古田さんの後ろの由加さんをちらりと見て、フッと笑って「はい」と頷いた。
 ……結構いい人かもしれない。
 ずっと不機嫌だったノハラさんも、力の抜けた顔で桜木さんを見ていた。
 火村先生もこのくらい女性の気持ちが判る人だったらね。
「おめでとうございます火村さん。運が良かったね」
「私にはアリスがついてますから。アリスの幸せのためだったらまだ食えます」
 気温が一気に下がった。
「はいOKでーす」
 調整室からの声と同時に客席からアリス先生が駆け寄ってくる。
 ……ものすごい勢いで。
 どどどどどどどどどど…………すぱーんっ!!
「彼女だけやなくて全国の皆さんまで不幸の底に突き落とすかあッ!!」
「……やだ、ちょっとアリス!?」
 アリス先生が火村先生をハリセンで殴り倒し、私は赤面した笑顔のまま硬直したアリスがふーっと横に倒れるのを慌てて支えた。




YUKA IZUMI

「あーあ。お椀の縁の形のアザになってますよ」
 モチさんが私の額をしげしげと眺めて言った。
「うそっ」
「ほんまです」
 モチさんの後ろで、江神さんが椅子に突っ伏して背中を震わせていた。前髪を額に集めてモチさんが指差す辺りを隠していると、信長さんがいつのまにハンカチを濡らして来て「冷やしとった方がええですよ」と差し出してくれた。「ありがとう」と受け取って額に当てる。それなのに、後ろから「…ふっ、腹筋イタッ……」と聞こえた。
「もう、そんなに笑うことないでしょう!」
 振り返りながら、ハンカチを握った拳を突き出す。しゃがみ込んで俯き、声を殺して笑っていた諒介のつむじにゴンと当たった。
 セットを入れ替える間の休憩。わんこそば対決のテーブルが片付けられ、中央の扉の横に、天井から大きなモニタが下ろされた。
「…だって緊張して何が何だかわかんなくなっちゃったんだもの」
「うん。うん。相変わらず」
 諒介は俯いたまま笑い続けていた。
 ………良かった。ちゃんと普通に話せる。
 諒介がずっと厳しい顔をしていたから、いつものように笑う彼にほっとした。彼はようやく顔を上げて私を見ると、ぷっと噴き出してまた俯いてしまった。
 ハンカチで濡れた前髪が上に持ち上がって、額が丸見えになっていた。私はがくりと俯いて前髪を直した。諒介が再び顔を上げて皆の方を向き「火村さんも相変わらずで」と苦笑した。
「もう、どうにかなんないの?あの暴走超特急!」
 ついに『超』に格上げされた。(……格下げ?)
 マリアさんが怒っている。これが(仮にも)全国ネットで放映されるテレビ番組の収録であることを考えれば無理もない。
「さっきの古田さんだって、さり気なく由加さんかばって。紳士だなって思いましたもの。どうして火村先生はあんなふうに出来ないの?人前であんなこと言われて、恥かくのはアリスなんですよ?」
「でも悪く言ってる訳じゃない」と諒介が立ち上がる。
「火村さんにしてみれば、アリスさんは本当に幸運の女神で、可愛くて自慢したくて仕方ないんだろう」
「孫ですか」と、モチさんが脱力する。そこへ澤田さんがふらふらとやって来て、諒介の肩に手を置くと額を載せてうなだれた。
「和泉ぃぃぃぃぃ。……俺もう嫌や音声。代わってくれ」
「やだ」きっぱり。
「二人とも子供っぽい」
と私が言うと、澤田さんは「由加に言われたないッ」と泣き真似した。
 可愛くて自慢したくて仕方ない、か。
 確かに、アリスさんは可愛い。彼女の笑顔を見ていると、とても心が和む。
 そういう、やわらかな空気を纏っているのだ。
 だから火村先生も、その空気に触れて、素直に心をさらけ出してしまうのだと思う。
 そう言うと、澤田さんは「せやけどなあ」と顎を掻いた。
「あの人、俺らと歳同じくらいか?普通はよう言わんわ、あれ」
「うん。普通はね」と頷く諒介。
「だから彼は普通じゃないんだよ」
 がたがたがたがたっ。
 EMCの皆が倒れた。
「やっぱり……」と江神さんが苦笑する。
「あ、そういう意味じゃなくて」
 諒介が何か言いかけた時、「セット完了。出演者の方スタンバイお願いします」と、声がスタジオに響いた。諒介は「後でね」とカメラの方を向き、澤田さんが背を丸めて私に「さっきんとこ、大丈夫か」と自分の額を指差した。私が「大丈夫」と答えると、澤田さんは軽く頷いて持ち場へ走って行った。
 ステージでは、ようやく顔色が戻ったアリスさんと、もう一人の『彼女』ノハラさんが所定の位置であるソファに座って何か話していた。倒れてしまったアリスさんのために気を利かせたスタッフがジュースを置いて行ったけれど、手をつけていないようだ。
 緊張しているんだな、と思う。
 私も上がり性だから判る。まさか自分がテレビに出るなんて、思ってみたこともなかった。そうでなくても、大勢の目に晒されるのは、怖い。
 ……火村先生と一緒だから大丈夫なのかもしれない。
 火村さんに初めて会った時にはまだ二人はつきあっていなかったけれど、とても情熱的で激しくてあからさまな(マリアさんに言わせればはた迷惑な)愛情表現は、アリスさんだけでなくEMCの皆やたまたまそこにいた私や諒介まで戸惑う程だった。…とても正直な人なのだと思う。
 だから、相変わらず。
 先刻二人がつきあっていると聞いて驚いたけれど、火村さんの偽らない人柄に惹かれたのなら、アリスさんはきっと彼を信頼しているのだろう。
 ……見ていて恥ずかしいのも相変わらずだけど。
 可愛くて可愛くて    愛しくて。
 そんなふうに思いが溢れ出してしまう程、心を溶かす彼女の笑顔。
 だけど、その笑顔の裏側には不安がひそんでいる。
 今だって、明るすぎる照明の下で、大勢の視線を浴びて    彼女のことだから、きっととても怖いに違いない。
 それでも、彼女は笑っている。
 不安と緊張を隠して笑顔でいられるのは、信頼できる人が側にいるからなんだろう。
 だから少し、嬉しい。
 どうしようもない不安を溶かして、心の底から笑顔になれるような、そんな人が。
     その人がいてくれるなら。