時間を止めて




 霖霖洞。
 僕は足を止めて、扉の前に置かれた背の低い立て看板を見た。それはちょうど衣紋掛けを小さくしたような形の木枠に帆布を張った衝立で、そこに誰が書いた物か、筆先の割れた太い線の黒々とした墨で『霖霖洞』と大きく書かれている。焼酎のラベルみたいだ、と僕は小さく笑った。
 りんりんどう。
 りんりん。りんどう。
 口の中で音を転がしながらウインドウを覗き込む。腕時計を十本ずつ収めた標本箱が三つ並んでいる。右側の箱の下、右から二番目、スケルトンの腕時計には『SOLD』と書かれた札が付いている。まだお金を払ってはいないけれど、僕が取り置きを頼んだ時計だ。給料日の今日、やっと迎えに来る事が出来た。
 有名なハイブランド品ではないから、僕の小遣いで買えるとはいえ、アンティークである。それなりに思い切った買い物だった。文字盤の飾り穴から覗く歯車やゼンマイ。
 僕は常々、時計は生き物のようだと思っていた。
 生きる為に必要なパーツが複雑に連動しながら個々に動き、一個の生命の形をしている。
 僕はこれから新たな友達を得るような、沸き立つ気持ちを抑えて霖霖洞の扉を開けた。
 奥の座敷に居た王さんが、読みかけの文庫本を文机に置いて立ち上がり、こちらに向かってきた。黙ってウインドウの前の標本箱を一つ持ち、目線を店の奥に遣って座れと合図した。彼の後に続いて座敷に上がった。そこにはおすわりで待っていた霖が、きょとんとした顔で僕と箱とを見ていた。「ただいま」と言って霖の頭を撫でると、霖はあくびを一つした。
「こちらですね」と王さんはガラスを張った箱の蓋を開け、『SOLD』の札の付いた腕時計を取り出した。
「手巻き式の腕時計を使ったことは?」
「初めて」
 王さんは無言で頷き、時計をクロスで拭いて、「ゼンマイを巻く時はこう、」と僕に見えるように差し出した。
「リューズを軽く巻いて、手前に戻す。それを繰り返して、ゼンマイを巻き切らないで止める」
 言いながら実演して見せる。
「巻き切らないってどれくらい?」
「手応えで判る。きつくなる前に止めるんだ」
「うん」
「二十四時間以上の稼働は確認済みだ。一日一回、時間を決めて巻くといい。誤差は一日で一、二分進む。時間もその時合わせて」
「わかった」
 王さんは傍らの茶箪笥から腕時計用の化粧箱を取って、腕時計を丁寧にしまった。それを茶色の手提げ袋に入れる。僕はすぐにも腕時計を着けたかったが、王さんがせっかく箱を用意してくれたので、黙ってそれを受け取って、会計を済ませた。
「お茶でもどうだ」
「うん。いただきます」
 王さんが葡萄茶の暖簾の向こうへ行くと、話は済んだのかな?といった風情で霖が膝の上に乗ってきた。僕は小声で「待たせたね、いい子だ」と呟いて霖の頭から背中まで撫でた。
 番茶をいれて戻った王さんは、最初に霖のミルクの皿を畳の上に置き、それから僕のお茶をテーブル(長火鉢の上に板を置いた物)に載せた。僕は彼が霖を優先したのが嬉しかった。ふ、と笑いを洩らすと、「どうした」と訊かれた。霖が僕の膝から降りてミルクを舐め始める。僕は「いや、ここが好きだなって」と答えた。




 ぼーん…
 振り子の柱時計が時を告げる。
 コツ、コツ、沈黙を埋めるような音がする。
 ここで聞く音はどれも柔らかく僕を包むような気がする。この感覚が好きだ。
 あらゆるものとものの隙間にある流れ───時間は淡々と、速度を変えることなく流れ続ける。しかしその速さを変え得るのは、人の心ではなかったか。
 時にその流れを止めるほどの感情が存在するが、それは個々人の感覚であって、だからこそ時間は曖昧であり、余所では頑として揺るぎないものでもある。ただ一つ、真実と言えるのは、時間は戻らないということだけだ。




 今夜は一緒に飲もうか、と話して、霖霖洞から道路を隔てた隣のコンビニで酒を買った。夕飯も王さんが作ってくれると言う。彼の部屋で早速調理にかかるところへ、「手伝おうか」と言ったら「手順がわからなくなるからいい」と言われ、僕は霖とネコジャラシで遊びながらちびちびと先に飲んでいた。
 料理が出来上がったところで霖にも茶碗にドライフードをあけた。三人、いや、二人と一匹か、一緒の食事だ。
 王さんがビールをごくごくと飲んでふぅ、と息を吐いた。
「霖もだいぶ霖霖洞に慣れてきたみたいだな。ちゃんと帰ってくる」
「昼間、どこかへ出かけてるの?」
「ああ。どこかは知らないが、外に出たがるんでね。出してやると小一時間、散歩でもしてるのか…戻ってくると鳴いて呼ばれるよ」
 そう言って王さんはクスと笑い、はっとしたように真顔に戻った。笑うのが恥ずかしいらしいのは、この三ヶ月とちょっと、付き合ってわかったことだ。「おかわりは?」と手を差し出され、グラスを渡して「ハイボール」と頼んだ。「了解」と言う王さんの口元が、ほんの少し笑っているように見えた。
 ───どうやら、一緒に飲むのを楽しんでいるらしい。
 僕も楽しんでいた。飲み仲間は他にもいるけど、王さんはちょっと変わっている。笑いを堪えた無表情が、微かな笑顔に変わる瞬間を僕は見たいのだ。
 霖がにゃあおと鳴いてこちらを見上げていた。茶碗が空だ。僕は手近にあったペットボトルの天然水を茶碗に注いだ。霖がそれをピチャピチャと舐めて、またこちらを見上げた。何か言いたげな顔だ。僕は「霖はお酒はダメだよ」と言ってみた。納得したのか、また水を舐め始めたのが可笑しかった。
 ハイボールを受け取って、一口飲む。しゅわっと炭酸が口の中で弾けた。
「そうだ、腕時計」
 僕は持ち帰った袋から箱を取り出し、時計を腕にはめてみた。チチチチと微かな稼働音がする。文字盤の穴から、何かのパーツが左右に揺れているのが見えた。これの音かな、と思いながら、しげしげと時計を眺めた。
「気に入ったか」
「うん。ひと月も待った甲斐があるよ」僕はふふと笑った。
「そうか。それならよかった」
「王さんはどんな腕時計してるの?」
「腕時計じゃない。懐中時計だ」
と、彼はジーンズのポケットから懐中時計を取り出して見せた。
「いいなあ、かっこいい」
「今日、腕時計を買ったばかりだろう」
「そうでした」
 僕はまたふふと笑って、時計の表面のガラスを撫でた。
 動き続ける時間。それを意識するのは、おそらく僕の中で時間を止めている何かがあるからだ、と感じていた。




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