天使とレプリカ/1

 よく出来ている、と僕は目を見張った。
 精巧な作り、という表現がそれには相応しく思えて、軽く指先で触れてみる事を一瞬ためらう程だった。僕はベッドに眠るそれの傍らに手を突いて、「起きなさい」とそっと声をかけた。
 それは静かに長い睫毛を添えられた薄い瞼をゆっくりと開いた。
 黒々とした瞳が現れると、広い額やつるりとした頬の青白さが増して見えた。
 僕の嫌いなチェリーのような唇がうっすらと開いて何か言おうとする。
 しかし言葉はその頭脳の回路の中で、出口を失ったようだった。
 ゆっくりと起き上がる。絹糸ような真っ黒の髪がさらさらと音を立てた。大昔の日本人形のような髪型…おかっぱ頭と言ったろうか、真っ直ぐの髪は顎の辺りで切り揃えられている。臍の辺りまで毛布が除けられると、彼女が何も身に着けていない事が判った。
 僕は彼女の名前を呼ぼうとして、名前を知らない事に気付いた。
 慌てて手紙に添えられた保証書を見る。シリアル番号の下に前のユーザーのつけた彼女の名前があった。
 シオ。
「シオ」と呼びかけると彼女は僕を振り向いて真っ直ぐに見つめてきた。その目に吸い込まれそうに思えて僕は視線をそらし、それで見つけたマニュアルのページを繰った。
 初期設定で僕を家族───あるいは恋人でもかまわない───と認識させなければならない。それが済むまでは彼女の前で迂闊な事は口に出来ないようだ。話しかけるだけでいいとマニュアルにはあった。僕は僕らの関係を、どんなものにしようかと少し考えた。シオは設定が済むまで身動きせずにじっと待っている。「僕は」と言いながらマニュアルを閉じて彼女の目を見つめた。
「シロウ。君の…友人で、同居人だ」
 答えはなかった。
 僕はこれ以上何を言う必要があるだろうかと念のために考えてみて、「終了」と一言発した。シオは部屋をぐるりと見回して、自分が素裸なのに気付くと慌てて毛布を胸の前にかき寄せた。僕はクローゼットから着る物を出して彼女の膝に載せて隣のキッチンに移り、ドアを閉めた。
 冷蔵庫からミルクを取り出しキャップを開ける。飲みながらうろうろと歩き、手にした便箋に綴られた文字を目でなぞった。


 ディア シロウ
  あなたとの二ヶ月は半分面白かったけれど、半分うんざりするものでした。
  この先に興味を失ってしまったので、住処を変える事にしました。
  あなたに相応しい恋人を置いていきます。
  中古だけど、それもあなたの好みでしょう。
  オプションに私の選んだ下着を添えておきます。可愛がってあげてね。
                          キリエ


 手紙のしっぽまで読んで、また頭を見た。
 『ディア』に苦笑した。こんな手紙に『ディア』はないもんだ。
 空になったミルクの瓶をコトンと窓枠に置いた時、白いペンキの剥げたドアをカチャリと開けてシオが顔を覗かせた。「シロウ」と僕を呼ぶ声は掠れて途切れそうな弱い風のようだった。白いコットンシャツとジーンズ。彼女の華奢な身体に僕の服は大き過ぎたが、こういう事もまたユーザーの所有欲を満足させるものらしい事を僕は知った。
「似合うよ」と言うと彼女は微笑んだ。表情も細かいのだな、と感心した。




 シオのようなアンドロイドはまだまだ高級品だ。高齢者や病院の入院患者の介護にと開発されたものの、庶民にはとても手が届かず、病院への普及率も低い。需要は主に金持ちの道楽で、キリエの新しい住処というのがどんな所か容易に想像がついた。
「さて」
 僕は椅子を引いて腰掛けながら、テーブルの向かいの椅子をシオに勧めた。シオは素直に従った。
「これから何をしようか」
「何を、ですか?」
「前の持ち主はこんな時どうした?」
「前の持ち主、ですか?」
 シオはきょとんと目を丸くした。僕は「そうか。メモリーに残ってないんだな、キリエめ」と彼女のしたたかな笑みを思い出した。これでは赤ん坊と同じである。キリエとは正反対の意味で、厄介な同居人が現れたものだと思いながら訊ねた。
「何をしたい?」
「私には欲求はありません」
 そうか、と僕はがくんと頭を下げた。
「ユーザーの命令…いや、指示に従うだけなの?」
「はい」
 それで僕に『相応しい恋人』か、と僕は眉間に皺を寄せた。何でも思い通りになる女が好みなのではない、キリエがわがまま過ぎたのだ。キリエの手に負えない奔放さは魅力的ではあったが、所詮『手に負えなかった』のである。
「じゃあ、まず、その敬語はやめてくれ」
「はい」
「違う」
 僕がむっと睨むと、シオは数秒、頭の中でこの場に見合う回答を探しているように動かなかった。
「…うん」
「そう。それから、何をしたいか考えておいて」
「うん」
「ちょっと待ってね」
 僕は立ち上がって部屋に戻り、ベッド脇に投げ出してあったマニュアルを取って戻った。流し読みするだけでもたっぷりと疲労する厚さの割にはすぐに役立つ事は書いていない。くだらない、と放り出した。シオは放り出されたマニュアルを目で追って、また僕をじっと見るだけだった。
「何」
「待ってる」
「まだ待ってたのか…」僕は再びうなだれた。「もういいんだよ」
「がっかりしないで、シロウ」
 僕は驚いて顔を上げた。シオは真顔だ。マニュアルを拾い上げて後半のページを行ったり来たり、ぱらぱらとめくった。それによると、介護用として生まれた彼女はこうした慰めや励ましの言葉も予め持っているらしかった。なんだ、と僕は苦笑してマニュアルをテーブルに置いた。
 シオに『同居人』と言ったように、僕は家賃を折半して一緒にこの部屋に住む同居人を探していた。玄関からバスとトイレ、キッチンまでを共有の空間とし、二間をそれぞれの住まいとして分け合い、プライバシーには口出し無し、という条件で、キリエの前には僕と同じ年頃の男が住んでいた。彼が僕より心地よい同居人を見つけて出て行って一ヶ月程経ってからの同居人がキリエだった。目算を誤ったのは、キリエにとって眠るベッドは自分の部屋の物でなくても構わないという事で、それは僕には面倒くさい事だった。最初は面白がっていたキリエがうんざりしたと言うのはその辺りも含まれるのだろう。僕は必要以上に話しかけられたり触られたりするのが嫌いだ。
 僕はシオに「おいで」と呼びかけ、元キリエの部屋のドアを開けた。
「こっちが君の部屋だよ。とりあえずベッドはあるから、こっちで寝るといい」
 寝る、と言うのがシオに当てはまるのかどうかと疑問がわいたが、彼女は「うん」と頷いた。
「こっちが、私の部屋」
「そう。君の部屋」
 シオはにっこり笑うと、僕の部屋から段ボール箱をズルズルと引きずって『私の部屋』に入れた。それにはバッテリー充電用の装置だのスペアパーツだのがゴチャゴチャと詰まっていた。自分の事は自分で出来るらしいので僕はホッとした。
「大丈夫?」
「シロウではなく、私が、大丈夫?」
「えっ?」
 思わず聞き返した。シオは背筋をピンと伸ばして僕を正面から見た。
「なぜ私の心配をするの?」
「それは」
 君が人間ではないから、と言おうとして言葉を呑み込んだ。
「シロウ。痛いのはどこ?」
「痛いって?」
 唐突な質問にまた聞き返す。
「どこか痛いのかと思った」
 思う。
 シオは『思う』と言った。
 僕はまた驚きに目を見張って、マニュアルを思い返した。ユーザーの表情や声の調子から体調の変化を読み取る───言葉の不自由になった高齢者の介護にも適した───という文面が脳裏を過ぎった。僕は「痛くないよ」と笑ってみせた。




 昼過ぎに起きて、僕はインターネットを通じてハンズ・アンド・ハーツ社───シオと同型のアンドロイドを製造販売している会社───にユーザー登録を済ませ、正式にシオの『マスター』となった。シオの前ユーザー、つまりキリエの新しい『マスター』が誰なのかまではさすがに判らなかったが、特に知りたかった訳でもない。僕の後ろからその様子を見ていたシオは『登録完了』の文字を見ると横から僕の顔を覗き込んで微笑んだ。
 HAH社のホームページを何となく見る。シオはタイプJ-6、日本市場に向けられた『日本人型』であり、体型も小柄だ。顔は用意された5タイプの他に特別注文も受け付けている。それが6型だ。前ユーザーの家族に似せたか好みのタイプか、いずれにせよ特に美人という訳でもない。7型ともなれば体型まで注文できるらしいが、その価格は納得できるようなできないような、驚くようなものだった。
 僕はシオを振り返り、取り扱いには気を付けないと、と思った。
 シオは同居人の条件である『家賃折半』はできない。仕事が出来てもアンドロイドに対して給料は支払われないからだ。動いて喋って笑う等身大の人形が居る、というだけである。食費ならぬ動力源代を僕が稼いで家賃もまるまる僕が払う訳だ。女を囲うのと一体どちらが高くつくのだろう。
 シオは散らかった部屋を黙々と片づけていた。この程度の事は指示されなくても自分で判断するらしい。「掃除してくれ」などと偉そうな事を言わずに済むので助かった。
 こうして黙って働いているのを見ていると、普通の人間に見える。
 姿は昨夜にも思った通り精巧で、皮膚の質感までもがリアルに再現されている。触れてみたら違うのだろうか、僕はまだシオに触っていない。ガーガーと音を立てる掃除機を引っ張って部屋中をぐるぐる回るシオ。機械が機械を使って掃除をしているのだ、と考えてみるとおかしさのすぐ後に寒気がゆっくりと背中に広がった。
 シオは部屋中を覗いて回り、どこもかしこもピカピカに磨き立てる事にしたようだった。床の拭き掃除をしてシンク周りを磨いた後は窓拭きを始めた。僕はじっとしていると居心地が悪く、一通りの洗濯を終えて、する事はないかと探し回った。誰の部屋かと思うくらいに塵一つなく、僕はカーテンを外してそれを洗濯機に押し込み、バケツをベランダに持ち出してスニーカーを洗い始めた。
 気が付くと、シオは仕事が済んだのか僕の斜め後ろで膝を折り、僕の手元を覗き込んでいた。
「この靴、乾いたらシオにあげるよ」
「ありがとう」
 シオはちらりと自分の素足を見て、それからまた僕の洗うブルーのスニーカーを見た。着る物や靴も『マスター』が用意してやらねばならないが、残念ながら僕にはシオに女物の服や靴を買ってやる余裕はなかった。バケツの水を流して捨てた。濯いだスニーカーをベランダの隅に干す。空を見上げると真っ白な雲が青空に眩しかった。
「今日は暑いね」
「あつい?」
 不意にシオの手が伸びて、指先が僕の耳の穴の辺りに触れた。
「うわっ」
 ピッ、と音がした。
「36度4分」
「びっくりしたァ」
 指が体温計になっているらしかった。くすぐったがりの僕は耳から背中に突っ走ったゾワゾワという感じに「ふひゃひゃ」と笑いながら床に転がった。シオが僕の上に日陰を作って心配そうに僕を見下ろした。
「シロウ、どこか、悪い?」
「シオ。暑いというのは、気温が高いってこと」
「…うん」
「転がっているのは、くすぐったかったの」
「…うん」
 シオは真顔で答え、その頭脳に記録でもしているように数秒動かずにいた。
 一つ一つ教えていかねばならないのか。こちらをじっと見る彼女を見上げて溜息をついた。僕は床に寝転がったまま、自分は健康体である事、シオに労働を期待していない事を話した。シオはすっと眉尻を下げて困惑を表した。
「それでは、私は何をすればいいの」
「僕の部屋の物に触らない。それを守れば、後は好きにしていいよ」
「好きにするって何」
「ええと、したいように…」
と言いかけて、彼女には欲求がないのだと気付いた。
「…さっき掃除したみたいに、した方がいいとシオが判断した事をしていい」
「うん」
 シオはこの『指示』も登録したらしい。目を見開いて真っ直ぐに僕を見ながら動かなくなり、不意にぱちぱちと瞬きをして「シロウの体重は何キログラム」と訊ねた。70キロと答えると「血圧の上と下はいくつ」とまた訊く。
「何?」
「食事の用意をするのに必要だから」
「そんな事もできるの」
「シロウが料理の作り方をインプットすればできる」
 家事労働は本来、彼女の仕事ではない。覚えさせれば料理も作れるようになるのだろうが、体重や血圧を元にするのはあくまで病人向けの食事を作るための計算をするからだろうと思われた。別売りのレシピカードがあるのはHAHのホームページで既に見ていた。シオがそれを言わないのは僕が健康体だからだ。つまり、僕の好きな料理を作らせようと思ったら、僕がインプットするしかない。僕はごろんと床にうつ伏せた。
「食事の用意はしなくていい」
「シロウ。がっかりしたの?」
 シオは僕の傍らに正座した。少し、と答えると彼女はまた「がっかりしないで」と言った。僕は、彼女が他に何て言うだろうと思って顔を伏せたままじっとしてみた。彼女は言葉を探しているのかそこでじっとしていたが、やがて「元気を出して」と言った。それがどうも今の状況に合わないように思えて、僕はクククと笑い出してしまった。
「シロウ。元気を出したの?」
 元気が出たの、ではないところがまた笑えて、ごろりと仰向いた。
「うん。元気を出した」
「良かった」
 シオはニッコリと笑った。
 夕方からアルバイトに出かけるので、その前に軽く食事を採る。
 僕がパンケーキを作るのを、シオは横でじっと見ていた。
「シロウ。上手にできたね」
 子供に向かって誉めるような口調だった。
「シオも食べる?」
「私は食べられない」
 テーブルに皿をコトンと置いて座ると、シオも向かいの椅子に座った。背筋を伸ばして両手を膝の上に置き、僕が食べるのをじーっと見ているだけだ。食べにくい、と感じて急いで食べ終えた。「片づける」と彼女は言って立ち上がると皿を手にした。
 僕が財布と鍵をポケットに突っ込んで上着を手にすると、シオは「いってらっしゃい」と言った。
 驚いて振り返った。
 しかしこの程度の言葉はシオの中に既にあって当然だった。
「いってくる」
 以前の同居人の男とはキッチンで顔を合わせる事も殆どなかったし、キリエは顔を合わせた途端に本題に入る女だった。これまで同居人と挨拶を交わした事などなかった。
 何年振りに聞く言葉だろう、と思いながら僕は部屋を後にした。