天使とレプリカ/2

 重いガラス扉を押し開けると足元の方から「オハヨー」と掠れた声がした。見下ろすと、床に這い蹲ってマガジンラックの土台の下に手を突っ込んだノハラが僕を見上げていた。何をやっているのだと訊ねるとノハラは「この子が」と横目で彼の背中の後ろに立っている子供を示し、
「コイン落としたんだってさ。本城君、今こそ自慢の長い腕の威力を発揮する時だ」
「ノハラ、こういう時は腕の細さがものを言う」
「チッ」
 ノハラは匍匐前進してマガジンラックの下を手探りし「ああ、あったよ」と子供に笑いかけた。拾ったコインを子供に渡して起き上がり、また「チッ」と自分の制服の前を見下ろした。グリーンのシャツは真っ黒だ。子供はノハラに礼も言わないままアイスクリームのケースの戸を開ける。ノハラがシャツを取り替えに奥に行く間、空になってしまうレジに僕が立った。子供はアイスクリームバーを一本レジに持って来て、コインを一枚差し出した。釣り銭も出ない小銭一枚にノハラは苦闘していた訳である。僕は無言で会計をした。
「どうも、どうも」とノハラが戻ったのは子供が出て行ってからだった。
「あのくらい本人にも取れただろう」
「まあ、まあ」
 ノハラは平たい鼻の付け根からずり落ちてばかりの眼鏡を指で軽く上げてニコッと笑い、僕を見上げた。華奢で背も低いノハラは一見すると中学生だが、れっきとした二十歳過ぎだ。
「店長にはもう本城君が来ていると言ってあるから」
と、ノハラは店内の客がレジに向かうのを見ると僕と代わり、「いらっしゃいませ」と愛想良く言った。僕は奥で制服のグリーンのシャツを着て、店長に声をかけてから店に出た。
 昨年の初冬に僕は五年勤めた会社を辞めた。世代交代の速さがめまぐるしい業種の職場で転んでしまうと人間関係にあっさりとヒビが入るものらしかった。僕は新世代の連中にトコロ天のごとく職場から押し出されてしまったのだ。そして、そんなふうに辞めていった先輩達も多かった事に気が付いた。今度は僕が辞める番だったという訳だ。
 会社を換わるだけで同じ仕事を続ける事も出来たが、面倒くさがりの僕は養う家族もなかったので、現在のコンビニエンスストアでのアルバイトを選んだ。目の前を次々に人が通り過ぎて行くだけの場所は意外にも居心地が良かった。その代わり収入は半減したが、気ままさの値段はそれ以上のものなのだろう。僕は今の生活が気に入っている。
 小宮山ノハラは午後から夜までこの店にいる。「時間を思い通りにしたかった」と語る彼は居心地のよい種類の人間だ。僕の事を訊ねないし、彼自身の事も語らない。
 初めて会った時、彼は「ノハラです」と名乗った。それで野原という姓なのかと思っていたら、よく見ると名札には『小宮山』と書かれていた。「野原君じゃなかった?」と訊ねると「小宮山ノハラというふざけた名前なんだ」と答えた。そして彼は視線を外して「小宮山って呼ばないでよ」と薄笑いで言ったのだった。そのノハラと、夕方から深夜まで店に出る僕は数時間を共にする。
 ノハラは黙々と働く。陳列棚に商品を補充し、売れ残った弁当を下げ、床の泥を拭き落とし、時折レジに立つ。客の居ない時だけ、退屈してしまいそうな学生のバイトに声を掛けて笑い、時計を気に懸ける。
 ノハラが「いらっしゃいませ」と言わなかった。
 入ってきた客は中年の男で、ドアに手をかけたまま店内をぐるりと見回した。
「おや、ごみが落ちてる」
 ノハラがぽつりと呟いて腰を落とした。
 男はきょろきょろと周りを見回しながら店内を歩いて一周し、何も買わずに出て行った。何を探していたのだろう。店の外に立ってこちらに背を向けている。ノハラはレジカウンターから目だけ出してそれを確かめ、腕時計を見て「おお、上がる時間だ」と言った。
「ノハラ、何やってるの」
「…本城君、明日、君の部屋に遊びに行ってもいいかな」
「かまわないけど」
「今夜かもしれない。とにかく、唐突に行ってかまわないかな」
「…それはどうかと思うけど」
「頼むよ」
 ノハラは苦々しそうに眉間に皺を寄せ、口元を歪めた。僕は店の前にまだ立っている男をちらりと見て訊ねた。
「あのオッサンと何か関係あり?」
「大アリなんだ。つかまりたくない。頼むよ」
 外の男の人相の悪さは政治家並みだった。僕はポケットから鍵を出し、客が捨てていったレシートの裏に僕の部屋の住所を書いてノハラに渡した。
「今だ、行け」
 彼はサンキュウと言って、確保していた残り弁当をつかむと店の奥へ駆けて行った。




 バイトを終えて、僕は部屋に居るのがキリエとシオと、どちらが良い状況だったろうと考えながら走って部屋に戻った。ノハラの切羽詰まった顔に思わず鍵を渡してしまったが、シオが居るのをすっかり忘れていたのだ。
 案の定、鍵を使って突然部屋に入り込んだ彼は驚いたシオに張り飛ばされていた。
 口の端にバンドエイドを貼ったノハラは「おかえりー」とニコッと笑い、すぐに「イテテ」と片目をつぶった。キッチンの椅子に座り、シオと向かい合ってチェスをしていた。チェスボードの横には空の弁当箱。
「彼女、すじがいいね。初めてにしちゃ強い」
「…そんなもの、どこにあったの」
「私が持って来た」とノハラ。
「今夜と言わず、数日厄介になりたい。そりゃもうゼヒ…シオ、チェックだ」
 トン、とノハラは駒を置いた。僕はテーブルに駆け寄って彼を見下ろした。
「数日?勝手な事を言うな」
「勝手は承知している。だけど状況は最悪だ。私も手段は選ばない」
「選べよ、少しは」
「選んでいる時間はないんだ!」
 バン、とノハラがテーブルを叩いて立ち上がり、チェスの駒がバラバラと転がった。これまで店で見ていたノハラとは別人のように、僕を見上げて睨み付けてくる。不意に彼は目をそらしてぽつりと言った。
「ごめん、ほんの数日でいいんだ。嵐が過ぎてくれるまで」
「嵐?」
「仕事にも出られないな…」
 どさっと椅子に座り込んだノハラは眼鏡を外してチェスの駒を見た。女の子のような幼い顔立ちと、発せられる言葉の鋭さの強烈なコントラストはチェスボードの市松模様のようだった。
「何があるのかくらい言えよ」
「そうだね。世話になるならそれが礼儀だ」
 ノハラはふうと溜息をついて眼鏡をかけた。それを合図にシオがチェスの駒を片づけ始め、僕はノハラの背後に立ってコーヒーをいれる用意をした。誰の視線も浴びない事になって、ようやくノハラは語り始めた。
「…先月、私の祖父が死んで…」
「うん」と僕は振り向かずに続きを促した。
「…私には父が居ないんだ。どこかに生きているとは思うけど、まあ、出てっちゃった訳だね、私が子供の頃に」
と、そこでフッと笑いを挟んだ。僕は薬缶を火にかけた。
「幸いな事に、母は経営者に向いていて───そう、経営者に向いてないような自分本位の父と、それとは別の意味での自分本位さから辣腕を振るった母とは相性が今一つだったんだろうけど、母のお陰で、祖父の起こした事業は大きな成功を収めたんだ」
 シオは駒を収めて畳んだチェスボードをテーブルに残して立ち上がった。銀色の缶の蓋を開けるとコーヒーの香りが広がった。
「母が祖父の跡を継ぐ事に反対の者は居ない。どころか全てを母の判断に任せようというのが社員達の意向なんだ。それで以前から私は実家の会社に入るよう言われ続けていたんだけど、まあ、私には他にやりたい事があるんだ。それで家を出たんだけど、祖父の死を機に私を呼び戻そうというのは、母が新しい事業に手を出そうとしているんだね。それに私が必要だと言うんだ」
 コーヒーをカップに注いだ。いいタイミングだ、と僕はカップをテーブルに置いてノハラに訊ねた。
「新しい事業って」
「…ハンズ・アンド・ハーツを知ってる?」
 僕は思わずシオを見た。椅子に座るよう言おうとしてやめた。
「HAHの競争相手になろう、と言うんだね。それはいい事だと思うよ。アンドロイドの値が下がれば普及率も上がって助かる人達も増える。だけどね、それにはまだ問題もある」
 問題って、と聞き返すと、ノハラは頬杖をついて上目遣いで僕を見て苦笑した。
「用途だ」




 不意にコール音が鳴った。僕が立ち上がって受けようとするとノハラは「カメラはどこ」と訊ねた。僕が指さすと彼はテーブルから離れて姿が映らないようカメラの横に移動した。受信開始。小さな画面に現れた顔はキリエだった。
「シロウ、ベイビィは気に入った?」
 蜂蜜色に染めた長い髪を掻き上げながらキリエは唐突に言った。
「ああ。女の子は可愛いものだってことを思い出したよ」
「言ってくれるわね」
 クスクスとキリエは笑った。
「ストイックなシロウにぴったりでしょう、あの子は」
 何の話だ、という顔をしてノハラは上から手を伸ばし、モニタを上に向けて覗き込んだ。目を見開いて『ズーム』のボタンを押す。キリエの顔が大写しになり、かと思うとキリエは遠ざかって、彼女の居る場所の様子が見て取れるまでになった。僕は何をやっているんだ、という視線を送りながら話を続けた。
「君から見たら男は皆ストイックだろう。…それより、どうしたんだ、彼女は」
「あら、そこに居るの。ハイ、シオ」とキリエは軽く手を振って「覚えてないわよね。メモリー消しちゃったから。フフ」
 今度はシオが目を見開いた。ノハラもシオを驚いて見つめる。
「シオは良くしてもらってるみたいね。前のユーザーがそれを気に懸けていただけよ。それじゃあ、時間もないから切るわね。じゃあね、シロウ。これからも、たまには寝ましょう」
「何、」と言いかけた僕を無視して、キリエは言いたい事だけ一方的に言って消えた。「誰、今の」とノハラ。
「前の同居人…」
 僕は呆然と答えた。ノハラも呆然としながら、「彼女は何を…いや、シオは…」と前髪を掻き上げた。
「…シオは、HAHのアンドロイドなの?」
 僕が頷くとノハラは「何で気付かなかったんだ」と自分を責めるように言った。
「シオ、型番を見せて」
 ノハラが真顔で言った。シオはノハラの正面に立った。彼はシオのシャツのボタンを外し始めた。
「何をするんだ」
 彼の肩に置いた僕の手を彼は払い除けた。
 ノハラはシオの左の乳房に顔を寄せた。眼鏡の奥の目を凝らしてじっと見つめる。不意に心臓より少し上の辺りを指でなぞった。
「本城君、ここだよ」
 僕も顔を近づけて目を細めた。うっすらと文字が見えた。古い火傷の跡のようだ、と僕は思った。
「HAH50002-J7…」と型番を読み上げたノハラはふっと微笑んだ。
「ピュアなんだね」
「ピュアって何」
 聞き返したのはシオだった。ノハラは「ありがとう」と言ってシオのシャツのボタンを掛けていった。
「ピュアホワイト、と呼ばれているんだよ、君は」
 そう言ってノハラはずり落ちた眼鏡を上げて微笑んだ。
「年式で言うと古いんだ。002と開発ナンバーが若い。HAHアンドロイドの初期型で、当然ながら製造台数…この言い方嫌いなんだよね…生まれた人数も少ない。ましてJ-7だ。シオはピュアの中でもかなり貴重な存在だよ。前のユーザーって言ったね、手放すのが信じられないくらいだ」
「待て、J-7って?」
「全身、ユーザーの特注品。同じ姿の部分が一つとしてない…いや、世界でただ一人の『シオ』ってこと」
 6型だとばかり思っていた。彼女のボディはスタンダードタイプのそれと差があるようには見えなかったのだ。僕はHAHのホームページで見た7型の値段を思い出して鳥肌が立った。そのシオは今、僕の古びたシャツとジーンズに、ブルーのスニーカーを履いている。彼女のメモリーにこれまでの生活の記録が残されていたら、その差に彼女は驚いたかもしれなかった。
「ピュアホワイトって言うのは」とノハラは続けた。
「HAHが理想を掲げていた頃に作られたアンドロイドのことだよ。オプションパーツがまだなかったんだ。この呼び方は技術者達の間でしか聞かれないんだけどね」
 そう言って、彼は声を立てずに身体を震わせて笑った。
 つまり、ノハラも技術者の一人なのだ。
 だから母親が彼を必要としていたのか、とそこでようやく納得した。
「本城君も知っていると思うけれど、アンドロイド市場は今のところHAHが独占している。実際、開発には莫大なお金がかかっているから高値は仕方なかった。過去形で言うけれどね。これからコストダウンできるところまで来たんだよ。それはともかく、HAHはユーザーのニーズに応えて様々なタイプのアンドロイドを作ってきた。…それこそ、女の子の前ではちょっと言えないような物もね」
 ノハラはシオを横目で見て顔をしかめた。言いたくないのだろう。
「後はそうだね、新しいところでムーンベース建造の細かい作業用に数体が月に送り込まれているのはニュースで見ただろう。知られているのは学校教材だの介護用だのっていう…社会的にも貢献している姿の方だけど、」
 僕は声の出し方を忘れてしまったように、ただ頷いているほかになかった。ノハラはテーブルの脇から椅子を引き寄せ逆向きに座り、背もたれの上に載せた腕を組んだ。
「実際は成金親父の愛玩物だったりする事の方が圧倒的に多い。HAHの理想は現実の前には無力だったんだ。それはアンドロイドを受け入れる側の体勢が整っていなかった、というのもある」
 僕はシオに椅子に腰掛けるように言い、ノハラの向かいの床に胡座をかいた。彼の話にすっかり引き込まれてしまったのだ。
「…シオがタイプ7なのは、やはりユーザーの個人的な事情があったと思う。だから手放す事に驚きを感じているんだけれど…」とノハラは右手の親指で軽く顎を撫でながら、「元のユーザーは誰?さっきの彼女、そう、何をしている人なの」
「知らない」
「スペースポートに入れる民間人なんて、そうそういない。HAHの関係者と私は見ているけど」
「スペースポート?キリエの奴、何をやってるんだ…」
 僕は呆然と呟いて、あっ、と驚いて訊ねた。
「ノハラ。なぜ君はあのコールだけでキリエが宙港に居るって判ったんだ」
「ああ、私はステイションまでなら飛んだ事がある」
 あっさりと彼は答えた。宇宙ステイションが働き始めて久しいとはいえ、宇宙はまだまだ旅行気分で出かける所ではない。ステイションは宇宙空間での実験研究の場として存在し、宙港はまだ世界に三箇所しかないのだ。
「言ったでしょう、ムーンベース建設アンドロイド。あれの実験で一度、ね。こっちでも出来る事ではあったけど、HAHはその次の段階も考えているんだ」
「まさか…」と僕はノハラを指さした。
「うん?私がHAHの職員だったってのは意外?」
 ノハラはアハハと笑った。
「その私が母の会社に入ってごらんよ。HAHには命取りだ。私を追っているのは母の部下とHAHと両方なんだ。HAHには殺されちゃうかもね」
「……」
「冗談だよ」
と彼は唇を尖らせた。「でも」と不意に微笑んでシオを見る。
「ピュアホワイトに出会うとはなかなか素敵な逃避行だ」
 ノハラはテーブルの上のカップを手にして冷めたコーヒーをぐーっと一息に飲んだ。子供のような彼が突然質量を増したように大きく重たげに見えた。
「───HAHを辞めたのはどうして」
「他にやりたい事があったから。それに最近のHAHの方向性も気に食わなかったしね」
「方向性?」シオが訊ねた。
「言ったでしょう。君にはあんまり言いたくない───知らない方がいい事もあるんだよ。ピュアならなおさら」
 ノハラは曖昧に笑って目を伏せた。
「毛布の一枚もあればいい」とキッチンの床で寝るとノハラは言った。シオは自分が椅子に座って寝ると主張した。彼はシオを人間らしく扱いたいようで、シオが椅子に座って停止する、というのが嫌なのだときっぱりと言った。
「狭くてよければ一緒に寝るかい」
 僕が訊ねるとノハラは笑った。
「ノハラくらいのチビが入れる余裕はある」
「そうだろうね、さっきの彼女も入れたんだから。私はシオと一緒がいいけど」
「さっきの主張と矛盾してるぞ」
「そうか」と頭を掻くノハラ。シオは何の事やら判らないという顔だ。
「実は毛布は一枚しかない」
「早く言えばいいのに」
 僕と並んでベッドに入ったノハラは「頼むから襲わないでよ」と言った。蹴りをくれると彼はベッドから落っこちた。