天使とレプリカ/4

 どこに逃げよう、と考えながら荷物を取りに部屋に戻った。戻るなら狐とゴリラがノハラを追っている今のうちだった。外から目につかないよう明かりは点けずにおく。シオの動きがゆっくりだ。
「私、休まなければ動けなくなる」
 シオはベッドに横たわり瞼を閉じた。バッテリーの充填をする間、僕は簡単に荷造りをした。着替えを数枚と有り金をノハラの鞄に詰め込む。ノートパソコンが目に付いた。大学の教室のパソコンでハッキングして調べた事をこちらに残していればいいが、と僕はノハラのパソコンを立ち上げた。
 ファイル名が昨日の日付になっているものがあった。それを開く。
 『発注書』だった。型番HAH50002-J7。その下に製造番号。
 個体認識コード『シオ』。
 僕はシオの部屋のドアを振り返り、目を戻して続きを読んだ。
 購入者、サクラギ・ユウサク。住所は東京都渋谷区。勤務先の欄は簡略にHAHとだけあった。生年月日は日付の代わりに『没』とある。
 亡くなったようだ。だからシオは『手放された』のだろう。
 しかしそれなら、キリエが言っていた「シオを気に懸けている前ユーザー」は何者なのだろう。亡くなったサクラギ氏の家族かもしれない。おそらくその人物と宙港に居たと思われるが、それはなぜだろう……
 あとは肌のタイプ、髪や瞳の色の指定などの記述が並んでいた。ノハラが何を調べようとしたのか、これでは判らなかった。他のファイルを開いてみたが、HAHやコミヤマ、アンドロイドに関する内容のものは見つからなかった。シオが目を覚ますまでにはまだ間がある。僕はシオの部屋の扉の横に寄り掛かって座り込んだ。する事がないと眠ってしまいそうだ。
 ノハラは逮捕されるつもりで走って行った。彼はどうなるのだろう、僕らはいつまで逃げなければならないのだろう、と考えるうちに疲れて床に転がった。
 シオに起こされたのは、僕がいつも目を覚ます時間だった。起き上がりもせずにぼんやりと寝惚けていると、シオはまた僕の耳の穴に指先で触れた。
「ひゃっ」
 ピッ。
「36度3分」
 背筋の寒気が治まってから、のんびりしている場合ではない、と起き上がった。昼のニュースの時間だ。テレビを点けた。ノハラはどうしたろう、と鞄を抱えてテレビの前に立つ。
「シロウ、ミルクを飲まないの?」
「いい」
「食事は」
「要らない」
「食べなければだめ」
 そう言うと、シオは数秒じっとしたかと思うとツイと動きだし、冷蔵庫から玉子とミルクを取り出した。何をするのだろう、と後ろから見ていると、彼女は僕とまったく同じ手順でパンケーキを作り始めた。驚いて彼女を急かすのも忘れた。僕が料理する手元をじっと見ていたのを思い出した。シオは自ら作り方を覚えたのだ。
 なぜ、そんな事ができるのだろう。
 ユーザーの指示通りに動くだけの筈なのに。
 不意に「ハンズ・アンド・ハーツ」と聞こえて僕はテレビを振り返った。
「───窃盗及び傷害容疑で逮捕された小宮山ノハラさんは、犯行時刻に友人宅に居た事が判明、先程釈放されました。当初、防犯カメラに映っていたとされた小宮山さんは───」
 他人のそら似だったらしい。「これが問題の映像です」とビデオが公開された。確かに、髪の長さや眼鏡、服装などはノハラと雰囲気が似ているが、身長が全く違う。ノハラを知る者ならこれが別人だとすぐ判る映像だった。今回の件で警察は世論の追求を受けるだろう───それにしても、早すぎる。
 アリバイを証明した友人、逮捕から釈放までたったの八時間、何もかも仕組まれた事のようだ。「私の言葉を伝えて」と真剣な眼差しで訴えた彼は、そこまで読んでいたのかもしれなかった。
 シオがパンケーキの皿をテーブルに置きながら「今のはノハラの事?」と訊ねた。
「そう。あれから警察に捕まったけど、犯人じゃない事が判って帰れる事になったんだ」
「ノハラは悪い事をしなかったから帰るの?」
「そうだよ」
「良かった」シオはにっこりと笑った。「ノハラはここに帰るの?」
 僕はシオの言葉に、抱えたノハラの鞄を見た。
「荷物を取りに来るかもね。待っていよう」
「うん」
 食事を済ませて、しばらく待ったがノハラは現れなかった。シオには言わなかったが、それは僕には予想できた事だった。あの逮捕劇が仕組まれた事なら、釈放された後にノハラはまた逃げなければここへは来られないだろうと僕は考えていた。それなら僕らも逃げた方がいいだろう。戸締まりをしてシオと部屋を出ようとした時、通路の向こうから歩いて来た男が「本城さんですか」と僕を呼んだ。
 一昨日、店に現れた男だった。知的だが腹黒そうな顔だ。
 僕はシオに小声で「黙ってて」と指示し、彼女を背中の後ろに隠した。
「私は小宮山製作所の上村と申します」と彼は歩きながら名乗って立ち止まった。
「何か」
「ノハラさんのご友人でいらっしゃいますよね」
「ええ」
「ありがとうございました。ノハラさんの無実を証明してくださったそうで」
「……」
 誰が僕の名前を使ったんだ。
「ノハラさんがあなたとご一緒だと警察で聞いて来たのでお迎えにあがりました。ノハラさんはどちらに」
「…居ませんよ」
「左様ですか。それでは…」
「待ってください。なぜあなたが迎えに来るんですか」
 立ち去ろうとした上村が足を止め振り返った。
「私は社長秘書をしております」
「なぜ、社長は一緒じゃないんですか」
 こんな時に母親が来ないというのが信じられなかった。
「社長はこれから記者会見がありまして、できればノハラさんにも同席していただきたかったのですが」
「同席?記者会見って何の」
「今日、小宮山が社長に就任し、同時にアンドロイド製造のコミヤマ設立の発表を…」
「それがどうした、ノハラはHAHにはめられたんだぞ!」
 上村はそれまでの淡々とした口調を捨てて低く鋭い声で言った。
「だから今回の件はHAHには打撃になる。またコミヤマの名を一気に広めるチャンスでもある。コミヤマをはめようとしたHAHが墓穴を掘っただけのことだ」
「ふざけるな!」
 僕は上村の胸ぐらをグイと掴んだ。彼は思いがけない馬鹿力で僕の手を払い除けた。
「ビジネスのわからん若造が口出しをするな」
 ビジネス?───何て胸糞の悪い言葉だ。
 僕は上村の足元に唾を吐き捨てた。
「ノハラがここに居ない理由が判らないようじゃ、コミヤマはHAHに潰されるよ」
「…ご忠告は有り難く受け取っておこう」
 上村は緩んだネクタイをキュッと締めてくるりと背を向けた。歩き去る彼を見つめて、僕は知らずに「何が…」と呟いていた。
「ビジネスだ…。ノハラが…何て言ったか知らないだろう…」
 僕の声は上村に届かなかったようだった。
 どこかで皆に言って、とノハラの声がした。
「…傷つけたくない、と…ノハラはそう言ったんだ…」
 それなのに皆がノハラを傷つけようとしていた。
 シオが僕の前にまわって僕を見上げた。無言で僕の目をじっと見つめる。
「…シオ。僕はおかしい?」
 自分でも信じられなかった。生温い水が頬を伝っていくのだ。唇の端に落ちたそれを舐めると塩辛かった。
 周囲の力に押し流される。それは圧倒的な力で、抵抗は無駄な事だと知っていた。昨年会社を辞めた時も簡単に諦められたのに、今度はまた周囲が僕を突き動かす。腕を振り上げて叫びだしそうだった。
「…何とか言ってよシオ」
「がっかりしないで、シロウ」
 シオの柔らかな手が僕の頬の涙を拭った。




 間違いない。ノハラはHAHに居る。
 しかしHAHの人間が僕らの所へなかなか現れないところをみると、奴らと警察が繋がっていた訳ではなさそうだった。
 HAHには殺されちゃうかもね。
 ノハラの冗談が目の前にぶら下がっていた。
 僕らは店に寄って裏口から店長に声をかけた。休みたい旨を告げ、ノハラの住所を教えてもらう。僕は「釈放されたから会いに行きます」とだけ言った。店長は安心しきった様子でニコニコとノハラの住所を教えてくれた。しかし予想通り、彼は部屋に戻っていなかった。
「なぜノハラは帰らないの?」
「ノハラを泥棒に仕立てた奴らに捕まっているのかもしれない」
「それは危ないの?」
 ノハラの部屋の扉にくるりと背を向けて振り返ったシオは僕を真顔で見上げた。
「シロウは出かけたノハラに危ないって言った」
「…うん。だからノハラは逃げていたんだと思うよ」
「危ないのはだめ」
 シオは怒ったような悲しげなような顔をした。
「シロウ。私はノハラを危ないのから助ける。何をすればいいの」
「危ないよ、シオ」僕は慌てた。
「私はシロウより力も強いの。人を助けるのが私の仕事」
 不意に判った。
 食べなければだめだからパンケーキを焼く。
 危ないのはだめだから助ける。
 それがシオの仕事。
 とても単純だ。そう、純なのだ。ノハラの言った「ピュアなんだね」の意味が解けた。
 僕は「まず、ノハラを探そう」と答えた。
 デパートで双眼鏡を手に入れて、僕らはホテルに部屋をとった。ノハラの金を借りる事にする。部屋の窓から通りの向こうの斜向かいに、ニュースで見たのと同じHAHの白いビルが見える。そこにノハラが居るとはとても思えなかったが───彼は元社員なのだから顔見知りが居るだろう───怪しい動きがないか監視する。覗き込んだ社内の様子はごく平凡に見えた。僕は研究室を探した。防犯カメラに映った部屋の様子を思い出しながら、窓を一つ一つ覗いてゆく。
「あれかな」
 見覚えのあるロッカーの配置、コンピュータの並ぶデスク。そこに居る人物の顔をよく見ようと双眼鏡の倍率を上げた。
 眼鏡をかけた若い男だ。
 男は抽斗を探って何かを探していた。目当ての物を見つけたのか、それを手にして眺め、元に戻して抽斗を閉めた。前髪を掻き上げる手を止めて俯き加減に何か考え込んでいたかと思うと、不意に後ろを振り返り、慌てて部屋を飛び出して行った。
 防犯カメラに映った男とも違う人物のようだったが、充分不審に見えた。僕は目をつぶって今の男の顔を覚え込んだ。
「シオ、ちょっと行ってくる」
 椅子に腰掛けてじっとしていたシオは「私も行く」と立ち上がった。
「だめだ。ここで待ってて」
「シロウが危ないのはだめ」
 シオは真剣だ。僕は一人残ったシオに危険が迫るかもしれないと思い直して、頷いて「おいで」と言った。
 ホテルのエレベーターが一階に着いてドアが開くと、目の前に居たのは先刻覗いた研究室の男だった。息を呑むと、彼は僕の後ろのシオを見つめて「シオ」と呼んだ。
「降りないで、このまま部屋に戻って」
 男は僕らに両の手のひらを向けてエレベーターに乗り込んだ。
「誰だよあんた」
「HAHの桜木シュウヘイ。君は本城シロウ君だね」
「なぜ知ってる」
「シオのユーザー登録をしただろう。いや、しなくても知っていたけど」
 シュウヘイは横目で僕を見て口の端で笑った。
「キリエにシオを預けたのは僕だ」
 僕はノハラのパソコンにあった『発注書』の、シオの前ユーザーの名を思い出して納得した。サクラギユウサク、同じサクラギだ。
「小宮山ノハラを探している」
 僕らも探していると答えると、彼は眉間に皺を寄せた。
「誰かが僕の名をかたって連れ出したらしいんだ。多分、あんたの所の人だよ」
 エレベーターのドアが開いたが、僕らは降りもせずに睨み合った。やがて閉まろうとしたドアをシュウヘイが手で止めて「部屋で話をさせてくれ」と言った。僕も話を聞かせて欲しいと答えた。




 シュウヘイは僕らの部屋から電話をかけてキリエを呼んだ。ノハラ探しをキリエも手伝っているのだというのには驚いた。キリエはそういう事はしたがらないと思っていたからだ。シュウヘイは「彼女は面白がっているよ」と苦笑した。
「なぜノハラはHAHに追われていたんだ?」
 僕がそう訊ねると、彼は煙草に火を点けて窓際に立った。細く開けた窓からHAHのビルを見遣って振り向き、ようやく口を開いた。
「…最深部の秘密を知ってしまったから。それを言うのは勘弁してくれ。想像するのはいくらでもどうぞ」
「あんたは知っているのか」
「不本意ながらね」
 苦虫を噛み潰すような顔をそむけて彼はぽつりと言った。
「知ってしまった以上、HAHに取り込まれて生きるか、ノハラのように逃げ続けるかしかないんだ」
「あんたは取り込まれてる訳か」
「そう。僕はどう足掻いても出られない。だから…」と彼は顔を上げた。「内側から動かしたいと思っている」
 煙を窓の外に吐き出すのはシオに気を遣っているらしかった。
 コンコン、とノックの音がして、シオがドアを開けた。キリエがふわりとスカーフを揺らして入ってきた。バッグをベッドの上に放り投げて椅子に腰掛け、脚を組んだ。
「コミヤマの記者会見はトップニュースになりそうね。すごい報道陣」
「それで」とシュウヘイ。
「社長が車に乗るところをちらっと見たけど、何て言うの?鉄仮面」
「鉄面皮だろう」
「タクシーで追ったら自宅に戻ってたわよ」
「連絡待ちかな…」と腕時計を見て、シュウヘイは「こっちもこれから緊急会議だ。後でまた来る。動かないで」と慌ただしく出て行った。
 ドアがパタンと閉まると、キリエは僕を見て優雅に微笑んだ。
「どう?いい男でしょ」
「よくわかんねェ」
 僕はシュウヘイの居た窓の辺りを見ながら言った。
「どういう知り合い?」
「…気になる?」
「勿体ぶるな」
 フフ、とキリエは笑って「半年くらい前だったかな」と葡萄色に染めた長い爪の手で髪を掻き上げた。
「飲みに行ったバーで知り合ったのよ。彼は一人でぼーっと飲んでいたから、こりゃカモだと思って声をかけたの。適当に話を始めて、仕事は何と訊ねたら『天使を作っている』って言うのよ。おかしいでしょ?」
「天使、」と僕はシオを見た。
「『偽物だけど』と苦笑いするのが可愛くって、コロッとまいっちゃった。アハハ」
「キリエはいつだってコロッとまいっちゃうんだろう、僕にだって」
「うん、シロウにもコロッとね。…それで、大真面目に天使について話すのよ。面白い人よ。あんまり面白かったから、それから時々会ってたの」
 ふうん、と僕が言うとキリエはニッと笑って、
「天使を作ってるだけあって潔癖ね。私に指一本触れないし、いくらせまってもびくともしないの」
 そこがまたいいんだなあ、とキリエは一人で頷いて目を細めた。
「シュウヘイが『アンドロイドを大事にしてくれる人を探してる』って、私か、私の知り合いに譲りたいと言ったのよ」
「……」
 キリエがシオを大事にする、と彼が思ったというのもまた意外だった。キリエのルーズな暮らしぶりを知らなければそうなのかもしれなかったが、逆に言うとキリエにはそう思わせるものがあったという事だ。
「それで、私はシロウの所がいいと思ったの。私よりシオが必要なのはあなただと思ったから」
「どうして?」
「さあねえ」
と言ってキリエはフフンと笑った。
「ただし、シオはテスト中で、月に一度はシュウヘイがチェックする事になってる」
「聞いてないぞ」
「言ってないもの」
「テストって何」とシオが訊ねた。
「さあ、それは私も知らないのよ」と首を傾げて、「だからあなた達の居場所は知っていたのよ。シオに発信器ついてるから」
 それで彼はタイミング良く現れたのか、と僕は頭を掻いた。
「それでね、シオを預かる交換条件に、月に連れてってもらっちゃった。彼の秘書って事にして。面白かったァ。ムーンベースに居たアンドロイドは皆マッチョで全然私の好みじゃなかったけどォ」
 キリエは興奮気味に月で見たものを次々と話した。そこでのアンドロイドの様子は、ノハラが「そんな事のために作ったんじゃない」とまた憤りそうなものだった。
「あれはシュウヘイの言う天使じゃないわね」
とキリエも皮肉っぽく笑った。シオは「何が違うの」と呟いた。泣き出しそうな子供を見るような目でキリエはシオを見て、「マスターが違うのよ」と言った。そして空気をかき混ぜるように声の調子を上げた。
「私、シャトルに乗るなんてこれが人生最初で最後ね、きっと。宇宙は素敵だった、ずっと飛んでいたかったくらいよ」
 僕は先刻からはしゃいで語るキリエに驚かされっ放しだった。彼女と過ごした二ヶ月、こんな無邪気な笑い顔を見た事は一度もなかったのだ。
「結構子供なんだな、キリエ」
 キリエは虚を突かれたように僕を見て、「誰だって滅多にない経験をすれば子供になるものよ」と言いながら外したスカーフを振り回した。