ホームワード-2

 その印象的な人物から電話がかかって来たのは数日後の夜だった。
 スマホに『和泉諒介』と表示されている。彼から電話なんて滅多にない事なので、何だろう、と緊張した。「はい」と出ると「和泉です」と静かに名乗った。諒介は妙なところで生真面目だ。誰からの電話か判っていると知っていても、こうだ。
「どうしたの」
「何となく」
 耳にふっ、と息の音がかかった。笑ったな、と思う。
「手紙届いたよ」
「うん」
「あの映画、僕も観た」
 どの場面が良かったとかの話でひとしきり盛り上がってから、「ところで本題は?」と訊ねた。諒介は絶句して溜息を吐いた。
「…映画の事で電話しちゃいけないのか」
「半年のうちに葉書一枚で、何を今更」
「そうか」
 諒介は嘘がつけない。
 少しの間があって、かすかな音がした。煙草に火を点けたらしい。
「ひとし君の話だけど」
「うん」
「その、」
と言ったきり黙り込んでしまった。根気よく待つ。肝心な事は喋れない人なのだ。
「『豆諒介』って…、いやその、里美さんが…、つまり、」
 何が言いたい。
 私はたまらず笑い出してしまった。
「いいよ、無理に言わなくて」
「…うん」
「まあ、そのうちね」
「ああ、何のために電話したんだろう」
 私は、諒介が時々見せた頼りない表情を思い出して少し笑った。黒縁眼鏡と、その奧の子犬のような目がとぼけた味わいの顔だ。
「体調は、どうですか」諒介が訊ねた。
「うん、大丈夫」
「ほんとに?」
 本当は少し胃が痛い。
 春頃、特にそれがひどく、思い詰めると吐いてしまう事がよくあった。その時に、ここに吐けと手を出したのが諒介だ。
 何となく彼の気持ちが判って、話はそれで切り上げた。スマホを置いて、ミュートにしていたテレビの音を戻すでもなく、映し出される映画をぼんやりと眺めながら、手紙に何と書いたかを思い出していた。

───この春までの私は、あのひろし君のようなものだったと感じています。それでも里美の言うように、過去を振り返った時に私が居るなら、私も某かのものを残しているのかもしれません。けれどそれはひとし君や諒介のような、力とか温かみのあるようなものではないと思うと、私の残すものが何なのか少し怖いように思います。───



 翌日、澤田さんを昼食に誘った。この前おごってもらった礼もある。そば屋の狭いテーブルを挟んで向かい合ってから「昨夜、諒介から電話あったよ」と言うと、「珍しい」という答えが返ってきた。
「で、何やって」
「それがよくわかんなかった」
「あはは、和泉は時々口下手やからな」
 澤田さんはテーブルの上に腕を組んで寄り掛かった。
「せやけど何かあったんかな」
「聞いてない?」
「うん。由加は心当たりないんか」
「ないよ。だいたい諒介は、そういう話をしない人だもの」
 何となく二人して椅子の背に凭れて、「むーう」と呟く。
「何や、俺ら、顔合わせると奴の話しとるな。まあ、奴がおらんかったら由加と話す事もなかったやろな」
「私もとっくに違う派遣先に行ってると思う」
「おそるべし和泉」
 アハハと笑った。山菜そばと親子丼が運ばれて、私達はそれぞれ割り箸を取った。澤田さんは関東のそばやうどんは食べない。
「おらん奴の話は時々、風が吹き込むな」
「風?」
「ぴゅーって」と箸を止めて「すきま風みたいなんが吹き込んで我に返る。そんで、おらんのやな、と再認識させられる。今までそこにそいつの気配があってんで。せやから人が時々冷酷に思えるわ。そいつの話をしてる奴か、自分か、おらん奴か」
 びっくりした。
 人が冷酷に思える、などという言葉が澤田さんの口から出たのが意外だった。
「…澤田さんて」
「ん?」
「時々、詩人だよね」
「うわ、めっちゃ格好悪う」
 そう言って親子丼をかき込んだ。
 今ここに居ない人。
 私は澤田さんの言葉の意味を探るように、箸の先で山菜と葱の山を崩した。



 割り勘でいいという澤田さんを拳で黙らせた。
「おごる時にも殴るんか、難儀なやっちゃ」
と言いながらそば屋の扉をガラリと開けると、目の前の暖簾がばたばたと風に煽られ、澤田さんに目隠しをした。「うわ、」と手で避けると風がひゅううと鳴っている。
「また台風来よるんか」
「そうだっけ」
 空を見上げると雲の流れが速い。西からやって来た雲だ。
 まるで澤田さんの言うような風だ。諒介の方から吹いて来て、と、ここに居ない事を思い知らされる。
 ぶわあっという大きな音が耳を打ち、風に煽られた私は咄嗟に登っていた歩道橋の階段の手摺につかまった。まだ緑の木の葉が私の額をかすめて飛んでゆく。すぐ後ろで澤田さんの「おお、」と笑い混じりの声が小さく聞こえた。
「本格的に来そうやな」
 振り返ると乱れた前髪の向こうで澤田さんがぼさぼさの髪のまま笑いかけた。
「由加、何でスカートはかへんねん。一遍も見た事ないわ」
「こんな時に言うか」
 澤田さんの顔がちょうどいい高さにあった。


  From: Tomohiko Sawada Subject: 台風二連発

   今日は由加に、十分間に二度殴られた。
   何号だか知らん台風よりよっぽど怖い。


  From: ryosuke izumi Subject: Re: 台風二連発

   何をしたのか知らないが、諦めて反射神経を鍛えろ。合掌。


「何これ」
 帰る支度をしていると、澤田さんが紙切れ一枚を持って入力室へやって来た。仕事の合間にこんなメールを交わしたらしい。
「いつもこんな話をしてるの?」
「それ、由加にやるわ。自己批判せえ」
 澤田さんがニッと笑った。私だって考えない訳ではない。けれど、どうしていいか判らないと、つい手が出てしまうのだ。
 チーフが横からプリントアウトしたメールを覗き込んだ。
「和泉君、達者でやってるねえ」
 相変わらず、こういう事だけは口が達者です。
 私は文面を上から下まで読み返して、何かひっかかる、と思った。
 何だろう。何か、
 びゅうっ
 視界がピンクになった。
「きゃあっ」
「何?」
「誰か早く窓閉めて!」
 紙だ。先刻終わらせた仕事、チーフがバッチに分けていたのを戻していた原稿、ピンクの紙が、吹き込んだ枯葉や砂埃と一緒に、部屋中に舞っている。
 近くに居た飯塚さんが窓を閉め鍵をかけた。ピンクの紙片は、花びらのようにひらひらと床へ落ちていった。
「ああ、順番が」
「誰、こんな日に窓開けたの」
「足りなくない?」
 口々に言いながら、皆で原稿を拾い集めた。澤田さんも巻き添えだ。廊下の方まで拾いにゆく。入力した順番に合わせる事はできない量だ。枚数を確認して、紛失がない事だけ判ってとにかくほっとした。
「窓、開けたっけ?」
 皆で窓の方を振り向いた。大きなガラス一枚の窓は開かないようになっている。その横の小さい換気用の窓は、扉のように取っ手を回して外へと開くようになっており、それが全開になっていたらしい。小柄な飯塚さんは閉めるのに苦労していた。
 チーフは皆をぐるりと見回して「誰だか知んないけど責めないからさ、今後気を付けるようにって事だけ、ね」と言った。自分が開けたとは誰も言わなかった。



 生温い風が気持ち悪い。ぽつりぽつりと大粒の雨が降りだした。時折木の葉やごみが足に絡みついてゆく。駅まで急ぐ気持ちと裏腹に足が重い。
「由加、走れ」
 後ろから追いついた澤田さんが私の頭に上着を載せた。
「何?」
「来るぞ」
 夕暮れの空が瞬いた。程なく轟きが追いつく。
「やだ」
「近いな」
 二人並んで走った。築地川公園の橋を越える。風に柳が大きく揺れていた。澤田さんが築地駅とは逆の方に角を曲がった。
「澤田さん、どこ行くの」
「新富町。有楽町で乗り換えて帰るわ」
「何で」
「これ」と私の被る上着を指でつついて、
「血相かえてブッサイクになってるで、由加」
「な、」
 また空が光る。
「やだもう、」
「嫌いか、雷」
 今も涙ぐむくらいに嫌いだ。ドン、という音に転びそうになった。被った上着を両手で押さえる。風に飛ばされそうだ。
「鈍い牛若丸やな」
「バカ野郎」
「アカン、迫力なし」
 澤田さんは走りながら笑って息を切らせた。私も息が上がってきて喋りたくない。
「和泉に見せたいわ」
 そうだ、前に一度、諒介とこの道を通って帰った事があった、その時に似ている。
 突風が澤田さんの上着をひっぱった。思わず立ち止まる。風にさらわれそうな上着を「おっと」と澤田さんがつかまえた。雨足が強くなってきた。
 何だろう、さっきからずっと何かひっかかっていて、それが気になる。
 胸騒ぎがする。
 空を見上げた。
「何やっとんのや」
 手首をつかまれて再び走り出した。