テンダースポット-7

「見せてごらん」と言われてそっと右手を差し出した。
 広げられない、ぎゅっと握る事もできない手は、見えない丸い物を載せているような形を作っている。
 目立つ傷痕は二つ。親指の付け根から斜め下に薬指の下の方まで、掌をカーブして横断するような傷は、湯呑みの丸い形そのままだ。破片は深く斜めに刺さっていて、給湯室で澤田さんが「見せない方がいい」と、咄嗟の判断で布巾で手を隠した。もう一つは中指の第二関節辺りから手首の方に向かって掌の中程までのもの。抉れたため、白い傷跡はひきつれている。
 それに比べれば小さくて軽い傷だが、はっきり見て取れる傷跡はまだ指にも掌にもたくさん残っている。これは消えるといいけど、と見るたびに思う。
 諒介は胡座をかいて両手を床に突き、首を傾げて私の手を覗き込むように見た。
 それが何かに似ているな、と考えて、ビクターの犬だ、と思い至った。
「…もういい?」
 諒介は無言で頷き、眼鏡を外すとその手で額をゆっくりとこすった。
 眼鏡をかけ直す。
 動かない。
 黙っている。
 諒介はビクターの犬になってしまった。無表情だ。何事か考えているようであり、何も考えていないようでもある。
「諒介?」
 答えない。
 目はどこか一点を見ているようだが、いつもの「じっと見る」という感じではなく、ひどくぼんやりしていた。私は体を傾けて、横から彼の顔を覗き込んだ。彼の目の前で左手をひらひらさせる。彼は目だけ動かして私の顔を見て「ああ、はい」と言った。
「どうしたの?」
「…うん。その、」
と言いかけて、すうっと息を吸い込み、はーっと吐き出したかと思うと、ぐらりと体を傾け「うーん」と言って床に転がってしまった。
「諒介、どうしたの」
「…いや、ちょっとスプラッタな想像をした」
「え?」
「実は、本当にだめなんだ」
「スプラッタが?」
「うん」
 目を閉じて答え、「ああ、まいった」と言ってクククと笑った。どうしたんだ、と驚いていると彼は小さな声でぽつりと言った。
「すみません、しばらく放っておいてもらえませんか」
 そう言われてもキッチンの床だ。「こんな所で?」と訊ねると「そんなもんだ」と意味不明の答えが返ってきた。貧血かしらと思いながら私は立ち上がって少し離れ、コートを脱いだ。それをハンガーに掛けようとして、戻って諒介の足に掛けた。離れた方がいいのだろうが、離れると私が怖いので、テーブルの反対側へまわって床に座った。テーブルの下に諒介の丸まった背中が見える。膝を抱えてそれを見ていた。
 諒介の背中は時々揺れた。頭が動く、何か考えて一人で頷いているらしい。何がおかしいのか、くっくっくっ、と笑った。不気味だな、と思って膝をぎゅっと抱え込んだ。
 不意に彼はゆらりと起き上がった。横を向いているが顔が見えない。私はテーブルの縁に手を掛けて背筋を伸ばし、テーブルの上に目を出して覗いた。
 諒介は眼鏡を外して目をごしごしとこすり、顎を上げて壁の上の方を見た。またクククと笑う。絶対におかしい。私は四つん這いでテーブルの向こうへまわり、彼の顔を正面から見た。
 彼は眉を下げて、頼りなく、今にも泣きそうな顔で笑っていた。
「諒介、諒介ったら」
「ん?」
「どうしちゃったのよ」
「うん」
「何でそんな顔なの」
「すまない、生まれつきだ」
「そうじゃなくて」
 彼は溜息を一つ吐いて「大丈夫だ」と言い、眼鏡をかけた。
「何を考えてたの」
「とても言えないような事。フフ」
 何だそれ。やっぱりおかしい。
「そんな泣きそうな顔で見ないでくれ」
「そっちこそ」
「え?」と目を丸くして、フッと笑った。「まいったな」
 それがいつもの調子だったので、私はまた驚いて、何だったんだ、とうなだれた。
「本当に、諒介って訳わかんないよ」
「怖い?」
「え?」見ると諒介はへなちょこ笑いだ。「…少し」
「そうか、じゃあ教えてあげよう」
 諒介は腕をよいしょと伸ばして鞄を引き寄せ、例のアンケート用紙を取り出した。かさ、と広げてそれを見る。
「名前は和泉諒介。好きな物は映画とカレーパンだが、今日辺りは肉まんも気分だ」
「食べ物なら何でもいいくせに」
「いや、らっきょうは食えない」
「…らっきょう…」
「ゆえに嫌いなものはらっきょう。それと飛行機。あれは観賞用だ」
「何それ」
「飛ぶのを見るのは好きだよ。鳥とか。実は高い所がだめなんだ」
「…ふうん」
「よく見るテレビ番組はニュースと映画。今いちばん欲しいのは」
 私達は声を揃えた。「時間」
「そう、時間。行ってみたい所は秘密だ」
「ずるい」
「すまないねえ。最近嬉しかった事は、肉まんをもらった事」
「……」
「最近怒った事は、ご承知の通り。最近悲しかったのは、仕事中の停電」
「はあ?」
「それまで組んだプログラムがパアだ。最近楽しかった事は、そうだな、いろいろあるけど」と少し考えてぷっと笑った。
「失礼すますた、かな」
「まだ言うか…」私はかくんと頭を垂れた。ずっと言われ続けるんだろうか。
「由加は座右の銘を書かなかったんだね」
「うん」
「僕も書けない」
 何となく判る。諒介は壁に凭れて両脚を投げ出した。
「今、探しているところだ」
「…私も」
 私達の間の橋は、伸びたり縮んだり忙しない。不思議な友達。
 私は諒介が撮影した勝鬨橋をまた思い返した。
「諒介、さっきの湯呑みで言ってた事」
「うん」
「諒介のビデオと同じだね」
「え?」
「手の届く所にあるものの美しさは、ってやつ。諒介の手の中に収まってるじゃない。こう、」
と私は指でフレームを作った。右手は軽く丸めるだけだ。
「……」
「最初、普通の湯呑みだと思ったけど、言われてみたらとてもきれいに見えた」
 私は指のフレーム越しに目の前のテーブルや椅子を見て、それから隣の諒介にフレームを向けた。
 指の中の諒介は先刻と同じ、目を見開いて驚いたような、呆然としたような顔をしていた。私が笑いかけると、へにゃ、と笑って「うーん。まいった」と言った。俯きがちに、まいったまいったと首を振っていたが、
「もう大丈夫そうだ、帰るよ。と言っても澤田の所だけど」
と立ち上がった。壁をポンと叩く。
「うん」
「…うん」
「それじゃあね」
 キイ、とドアを軋ませて諒介はへなちょこ笑いで出て行った。
 ほんの数時間の間におかしな事がたくさんあったな、と思いながら、何となくベランダの窓に向かう。カーテンの隙間から外を見た。
 何を笑っていたんだろう。私の怪我を笑うような人じゃないから不思議だった。
 ドアの外に軽い足音が聞こえた。チャイムが鳴って「由加、」と声がした。驚いてドアまで走って開けた。真顔の諒介が「大変だ」と言った。
「何?」
「肉まんを忘れた」
 私はドアに縋り付いてがっくりと膝を落とした。



「そんで、その格好で帰って来たんか、て訊いたら『うん』て」
 私は赤くなって絶句した。昨夜「肉まんを忘れた」と慌てて引き返して来た諒介は、肉まんの皿にラップをかけて持って帰る事にしたのだが、鞄に入らなかったらしいのだ。彼は白いリボンをかけた肉まんの皿を手に持って、電車を乗り継いで澤田さんの部屋へ戻り、喧嘩して口を利かなかったのも忘れた最初の会話がそれだったという訳だ。
「…それで?」
「その謎の物体は何やと訊いたら『由加の前衛芸術だ』と」
「悪かったわね」
「そんで、皿をこたつに置いて、じーっと見とんねん。十分くらい」
「え」
「何やっとんねんて訊いたら『食欲と芸術の破壊に対する恐れとのジレンマと戦っている』」
「それで」
「食欲が恐れを凌駕した」
「…うん」
 思わず笑みがこぼれてしまった。私がリボンと格闘しているのをじっと見ていたのを思い出す。その諒介はというと、私と澤田さんが腰掛けたベンチから少し離れた大きな窓に顔を近づけるようにして外を見ている。
 池袋のサンシャイン60ビルの展望台だ。
 土曜の昼間で少し混雑している。私達の声は諒介には届かない。今朝、澤田さんから電話をもらって、諒介が大阪に帰るまでの時間に出かけようという事になった。東京を見渡そうという話になり、私の部屋から近い池袋に出て来たのだ。
 私は手にしたコーラをストローでちゅーっと吸った。
「本当にワケわかんないね、諒介って」
「まあな。昔とはまた違った意味でな」
「昔?」
 澤田さんは横目で私を見て頷き、
「昔っから天然ボケやったけど、今よりは無口やったし、どっちかっちゅうと無表情やったな。今の方が分かり易いで」
「ふうん…?」
「由加と同じで、あの会社の色に染まったんかもな。俺も今の方が地を晒しとるわ」
 へえ、皆そうなんだ、と思いながらストローを噛んだ。
「会社言うたら、怪我の事、言ったんか」
「…湯呑みの上にコケたって事だけ」
「そーか。最初からそう言えば良かったんやな。アホや、俺」
「何か慌てちゃったね」
 フフ、と笑った。
「私、諒介の眼ってすごいと思うんだ」
 眼?と聞き返す澤田さんに、昨夜の湯呑みの話をして聞かせた。
「嘘ついたり取り繕ったり、そういうのが通用しないと思う。だから澤田さんも慌てちゃったんでしょう?」
「…せやな、うん。由加の言う通りかもしれへん」
「だから時々、諒介が怖いのかもしれない…」
 私は俯いて自分の爪先を見た。
「そーか?俺は時々由加が怖いで?」
「え?」と驚いて顔を上げると、澤田さんは苦笑して、
「ストンと直球投げて来よる。うわー、て思うで、ほんま」
「…何を」
「フフン、自分が不利になるような事言えるかい」
「拳で訊いてもいいんだよ?」
「和泉が不利になる事は言うてもええわ。例えばさっきの湯呑みな、思った事もう和泉に言うたやろ」
「うん」
「奴は『まいった』ちゅうたやろ」
「言った。…何で判るの?」
「おまえらの技は見切っとるわ」と言ってハハハと笑った。
「和泉に勝てるのは由加と古田くらいや。俺は和泉とおると調子崩れるけどな」
「私はいつも、澤田さんにはかなわないと思ってるけど。多分諒介もそうだよ?」
「えっ?」
 顔を見合わせた。何となく困ってしまった。
「こういうの、何て言うんやったかな」
「三竦み?」
「それはちゃうやろ」
「コブラ対マングース」
 俺らは天敵か、と澤田さんは俯いてクククと肩を震わせた。諒介が戻ってきて「仲良しさんですねえ」と笑いかけた。
「由加、あっちから富士山が見えるよ」
「ほんと?」
「うっすらとだけど」
 行こう行こうと立ち上がった。富士山の方角を向いた窓へ早歩きで行く。窓ガラスにはそこから見える眺めの主な特徴が白い線で描かれていて、一番奥に小さく富士山があった。
「今日は天気はいいみたいだけど」
「空気が澄んでいれば、もっとはっきり見えるんだろうね」
「見えるもんやなあ」
 富士だ。
 お久しぶりです、と心の中で呼びかけた。目がじんとしてきたのが判って、私は窓ガラスの手前にある台のような所───おそらく窓に近づき過ぎないようにしてあるのだろう───に手を突いて、身を乗り出してガラスに顔を近づけた。諒介が私の傍らに腰掛けた。
「富士山を近くで見た事ってないな。新幹線で見るくらいだ。行ってみたいもんだ」
「うん。静岡の富士はきれいだよ。表富士」
「山梨の人は山梨側がええって言うな」
「そんなもんだ」
 振り向くと、諒介が指でフレームを作っていた。私と富士を一緒に収めているらしかった。
「ここからは遠い」
 遠い、と言われて私はまた富士を見た。
 怪我をして以来、帰りたいと思う事が増えた。青い富士。堅固な砦のように強く確かな富士。目の前がぼやけた。鼻を啜ると、「由加は富士山が好きなんだな」と諒介が言った。
「…うん」
 仕事が出来なくなったら、私は何の取り柄もなくなってしまう。けれど富士はきっと私を迎えてくれるだろう。だから富士が好きだ。そこが私の故郷だから。
「あそこに家があるから。家族と富士が迎えてくれるから」
「帰る所があるのはいいな」
「うん」
「忘れないようにメモしておこう」
「はあ?」
 びっくりして私は諒介を振り返った。彼は左の掌に、右手の人差し指で「帰る所があるのはいい」と言いながら、寄り目になってメモする真似をした。
「由加もメモしておけ」
 澤田さんが「何や、由加。やっぱり泣いとった」と言って笑った。
 展望台をぐるぐると何周もして、東京のあちこちを見た。
 池袋の駅から伸びる線路。私の部屋の方。東京ドームと後楽園の観覧車。新宿の高層ビル群。東京タワーとスカイツリー、新宿御苑の緑。護国寺の緑。皇居の緑。
「築地は?」
「こっちやな」
「全然わかんないね」
「そんなもんだ」
「うん。見えないだけだね」
「まいったな」
 諒介は軽く握った右手に隠れように俯いて、親指で鼻の頭をこすった。それから顔を上げると私と澤田さんを見て「その、」と前置きした。
「しばらく来れないと思うけど、…うん。また、ね。帰って来る」
 そう言って首を傾けて照れ笑いした。
「今度は俺と古田が大阪行くやろ」
「ああ。そうだな」
 新しい仕事の事だろう。私の入り込めない話題だ。
 けれどこの窓から見た景色も、時を止めて何度も私に戻ってくるだろう。
 私はまた築地の方角に目を遣った。遠く、見えない勝鬨橋。



 諒介は東京に帰って来ると言った。
 橋を越えて。
 私はそれを、心の中で、右手に力を込めて左の掌に書き込んだ。

"A TENDER SPOT" April 1998

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