ネスト・オブ・ウエスト-4

 なかなか眠れなかった。
 諒介は部屋の向こうの隅で、毛布を二枚使ってワッフルになって寝た。彼は毛布にくるまって「ワッフルのクリームか。ジャムも旨いよな」と楽しげに言って眼鏡を外し、あっという間に平和な寝息を立て始めた。私はそれを聞きながらだんだん腹が立ってますます眠れなくなり、「聞かなきゃいいんだ」と毛布を頭まで被った。煙草の匂い。諒介の匂い。顔を出すと向こうにワッフルが見えた。ベージュ色がまたそれらしく見える。寝返りを打って壁の方を向いた。
 ここが諒介の部屋である以上、ここは大阪である。
 けれど実感がまるでないのだ。テレビで見た道頓堀や心斎橋の風景と賑わいしか知らないからかもしれない。ここはとても静かで、時計の音さえ聞こえない。ずっと壁を見ていると、ここには何にもない気がして、慌てて寝返りを打った。向こうにワッフルがあってほっとした。
「諒介」
 返事はない。
 人の気も知らないで。
 そう考えて、先刻彼の言った『思いがけず自分を知る人が居る』というのを思い出した。
 『人と人って案外そんなもんで、自分で思うよりずっと誰かと繋がっているんじゃないかと思う』
 『あいつは由加の事よう判ってるやんか』
 腹を立てたりして悪かったな、と思った。諒介は私をちゃんと判ってくれているのだ。
 繋がっているんだ。
 だから今、ここにいる。
 ここにいれば大丈夫。私を知ってる人が居る。
 窓の外が薄明るくなって鳥達がさえずり始めた頃、やっと眠くなった。うとうとしていると、ピピピ、と目覚まし時計の軽やかな電子音が鳴り始めた。私は夢うつつに、これまで壊してきた数々の目覚まし時計のジリリというけたたましい音を思い出して、毛布から腕を伸ばして枕元を左から右、右から左と撫でるように探ったが、時計はなかった。
 ピッと電子音が止んで、毛布の向こうをぺたぺた歩いて部屋を出る音と人の動く気配がしたので、私は片目を開けた。
 真っ暗だった。
 毛布から顔を出すとカーテンの向こうはすっかり明るくなっており、ワッフルのクリームがなくなっていた。なあんだ、諒介が起きたんだ、と思って目を閉じた。顔を洗っているらしい水音が遠くなる。頭の中がゆらゆら揺れる。やがて窓を開ける音がして、「由加」と呼ばれて目を開けた。
「おはよう。朝飯はどうする」
「…要らない」
 いつも食べない。それより寝かせて欲しい。私はまた目を閉じた。
「昼飯はどうする」
「…わかんない」
「晩飯はどうする」
「…そんなの…」
 私はぱちっと両目を開けた。
「ごはんの心配しかしないの?」
「ああ」と諒介は首を傾げて天井を見た。「そうだったな」
 がっくりした。私が昨夜思った程には、繋がっていないのかもしれない。
「僕はこれから仕事に行きます」
「…その格好で?」
 カーキグリーンのシャツの下は辛子色のTシャツ、ジーンズ。築地で見慣れていたスーツ姿はもはや忘却の彼方である。
「この格好だよ。便所サンダルは履かないけど、どこかおかしい?」
「…学生みたい…」
「大きい学生だよね。少なくとも小さい学生ではなさそうだ」
と言いながら鞄を手にして玄関に向かう。泊めてもらっている者の礼儀として見送りをする事にした。毛布をずるずると引きずって彼の後に続いた。
「それでは、おじさんは会社に行きますが、しっかりお留守番してくださいね」
「私はめぐむちゃんか…」かくん、とうなだれた。
 めぐむちゃんは諒介の姪っ子で、五歳くらいと聞いている。彼はめぐむちゃんをとても可愛がっているのだ。しかし私は五歳ではない。むうっとしていると、頭上から留守番の心得が降ってきた。
「帰ったら新大阪まで送っていくから。退屈だったら『こち亀』読んでいるといい。腹が減ったら、カップ麺と、クリームパンと、プリンがある。多分もう落ちないと思うけど、落ちそうになったら速攻で電話すること」
「どうして落ちないと思うの?」
「ここから逃げる必要はないでしょう?」
 そう言われると、ここに居れば大丈夫、と思ったのも見透かされたようで恥ずかしかった。私は声色を作ってにこやかに答えた。
「うん、だいじょうぶー。おじさん、いってらっしゃーい」
 余計に恥ずかしかった。彼を上目で睨んだ。
「こんな感じですか、めぐむちゃんは」
「うーん」と諒介は目をそらして笑いを堪えた。「めぐむはもっとサービスがいい」
「サービス?」
「早く帰るよ。…何か変だな」
 諒介は首を傾げながら出て行った。
 毛布を引きずって部屋に戻る。ブルーのカーテンを引いて開け放した窓から朝の白い光がまっすぐ差し込んで、思わず目を細めた。大阪の太陽は東京のそれとは違うのだろうか、そんな筈はないのに、部屋中をかき消すように明るかった。鳥達はどこかへ行ってしまったのか、再び静けさが辺りを満たしていた。ここが何処なのか、また判らなくなってしまいそうだ。ぺた、ぺた、と床に吸い付くような自分の足音が現実の物と思われない…かくん、と転んだ。
「何やってんの」
「…え」
 先刻出かけた筈の諒介が目の前に居た。
 ベランダの外に見ていた塀が私のすぐ横にある。あと一歩で道路という所だった。
「早速落ちたのか」
「そうみたい…転んだら」
 諒介は「うーん」と額に手を当てて考え込んでしまった。「…おじさん今日は休むね」と引き返す。私のせいで会社を休むのか、と焦った。足の裏にザラザラした砂の感触を感じながら追いかけた。
「ごめん、大丈夫だから。行っても大丈夫」
 振り返った彼は口をへの字にしていた。「問題は」と前髪を掻き上げる左手が気になった。
「落ちるのを由加が自分で止められない事だ」
 そう言いながら部屋のドアを開けてさっさと中に入ってしまった。私は後に続いて、この足のままであがっていいのかと迷って玄関で立ち止まった。諒介は鞄を投げ出すと玄関まで戻って来た。
「何やってんの」
「足…」
「廊下はあとで拭けばいい」
 なるほど。私はお風呂に直行して足を洗った。諒介は洗面台に腰掛けた。どこにでも座ってしまう人だな、と妙に感心した。
「いつも僕の所に落ちるのかな。似たような事はなかった?ずいぶんリアルな夢を見たとか」
「…夢?夢だったら…よく富士宮の夢を見るけど」
「富士宮?ああ、実家のある所か」
「夢じゃなかったの?あれは、夢じゃなくて落ちてたの?」
「それは僕には判らない」彼はがくんと俯いて答えた。「でもその可能性はあるね」
 夢の風景が目に浮かんだ。
 家の木戸と庭、柿の木、学校への坂道、近くて遠い富士。
 足元がゆるんで水に流される。咄嗟に掴まろうとした浴槽の蓋に手を突っ込んだ。諒介が私を風呂場のぬかるみから引っ張り出してドンと壁を叩いた。風呂場は元の姿を取り戻した。
 蛇口からは水が流れ続けている。私はすっかりびしょ濡れになってしまった。私を引っ張る時に膝を突いた諒介も水の流れるタイルの上に座り込んでいる。俯いて「ごめん」と言うと諒介は「昨日から水に縁がある」と言ってフッと笑い、蛇口の栓を捻って水を止めた。
「今日は暑いな。洗濯日和だ」
 そう言ってもう一つの栓を捻る。シャワーの水が噴き出した。私達の上に降り出したスコール。
「バカ、何やってるの」
「水は結構冷たいな」
 諒介は眼鏡を外し、楽しそうに笑って髪を洗うように頭を掻いた。
「由加も洗濯しろ」
「…洗濯…」
 顔をごしごしと洗っているうちにおかしくなってきた。諒介って変、と言うと「味わい深いだろう」という返事。
「さて、ひなたに出よう」
とシャワーを止めて眼鏡をかけると、諒介は水をたくさん滴らせたままベランダに向かった。床がびしょびしょだ。ベランダに並んで膝を抱えて座る。強くなってきた日差しが腕にちりちりした。ひなたぼっこなんて何年振りだろう。髪から水をぽたぽたと垂らして、プールサイドみたいだ。
「さっき由加がめぐむの真似をしたんで思い出したけど、めぐむが『おじさんは大きくなったら何になりたい?』って訊いたんだ。もう充分大きいのにね。それで僕は『ウルトラマン』と答えた」
「何で?」
「週に一回、三分間くらいは地球の役に立つ」
 何それ、と私が笑うと彼は「おかしいかな」とへなちょこな笑いを浮かべて鼻の頭を指でこすった。
「めぐむは将来ウルトラマンになる僕を有望だと思ったのか、おじさんのお嫁さんになると言ったんだけど」
 二人でアハハと笑った。
「由加は大きくなったら何になりたい?大きくなりがいがありそうだな」
と私の頭の上に手を浮かせて背の高さを測った。
「うーん」
 膝に顔を埋めて考え込むと、諒介は立ち上がって部屋に戻った。会社に休みの連絡を入れて、もとの場所に座った。膝は水の匂いだ。私は自分の部屋をぐるぐる歩き回った先日の夜を思い出した。この先もずっと部屋の中で足踏みするのかと思ったあの時。
「…判らないよ。先が全然見えない。これ以上大きくなるなんて事あるの?」
「先が見えている人なんて居ないだろう。だから何を望むのも自由だ」
 私は顔も上げられないまま訊ねた。
「諒介も先は見えないの?」
「うん。全然。その代わり何でもできる。だから僕はウルトラマンになりたい」
 はっきりと語る諒介の声に、私はゆっくりと横向きに顔を上げた。言い淀む事なく自分の話をするのが珍しいと思ったのだ。彼が以前から「ウルトラマンになる」と決めていたのだと判る。未来のウルトラマンは首を傾け木々の葉の揺れる様を見上げて言った。
「僕らはまだ成長の途上だ。まだまだ大きくなります」
「…考えておく。大きくなったら何になるか」
 諒介はこちらを振り向いて「そうか」と言ってニコッとした。
「しまった、煙草がびしょ濡れだ」とまた立ち上がって部屋に入った。窓際に立ち、新しい煙草を持った手で、胸ポケットから濡れた煙草を取り出した。
「例えば何か目標を定めて、まあ、努力して、達成したとしよう。目標は…うん、ウルトラマンになる」
と言って諒介は濡れた煙草の箱を捻って、部屋の隅の屑カゴを狙って投げた。煙草の箱は屑カゴから少し外れて壁に当たって落ちた。横目で見ると、彼は「まあ、こんな時もあるけど」と苦笑して、正面の壁に向かって話し始めた。
「それはあくまで自分の目標であって、周囲に及ぼす影響のあるかないかとか、うん、結果的に自己満足に過ぎないかもしれない。でも、そうやってすべてを周囲に照らして結果のみを評価するのではなくてね、達成するまでの過程を正当に評価した上で、自分だけ満足したっていいじゃないか、と思うんだ。たまには満足したっていいでしょう」
 そこで彼はクスッと笑った。
「それよりも後悔しないで生きたいし」
 私は先刻から、少しの驚きをもって諒介の横顔を見ていた。『生きたい』と、今もまた自分の気持ちの形で語っている。私の視線に気づいてか、彼はこちらを振り向いて微笑むと、「それに」と屑カゴまで歩き、煙草の箱を拾うと戻って来てまた投げた。今度はストンと屑カゴに入った。
「過ぎた時は戻らないし、事実は取り消せないけれど、こうやってやり直すことはできる。最終的に許す者がいるとしたら、それは自分自身だけだと僕は思っている」
 背中が熱かった。シャツが生温かい。何となく袖や裾を引っ張っていると、隣りに座った諒介に「もう大丈夫?」と訊ねられた。
「由加が恐れて無視したかった感情は、里美さんへの罪悪感だ。彼女とは互いに惹かれるものがあって、それで今も友達でいるには罪の意識は辛いよね。だけど二人はそれを越えられると僕は思う。それが判れば、もう落ちない。僕が保証する」
「保証、しちゃうんですか…」呆気にとられてしまった。
「しちゃうんです」
と彼は煙草を口の端にくわえて言った。それでよく喋れるなといつも思う。
「言ったろう、先は見えないって。あとは里美さんとどうするか、それは自分で考えなさい」
 うん、と頷いて、私は自分の爪先をぼんやりと見た。里美を思い浮かべる。頬のえくぼや長い髪。私の手にバンドエイドを貼る里美。
「もう一つ、由加が自覚なしに落ちてしまうのがひっかかるんだけど…。仕事も休みに入ったし、実家にも帰るんでしょう?気持ちが落ち着けば判ると思うけど、由加を脅かすようなものはもうないから、大丈夫、落ちません」
「…うん」
 きっぱりと言われて、ただ頷いた。
「面白かったのに残念だ」
「バカ野郎」
 素早く出したつもりなのに、左の拳を諒介はすぐに左の掌で止めて「嘘、嘘」と笑った。本当は私も判っている。私は拳を突き出したまま昨夜ザブザブと水洗いされた彼の腕時計を見た。
「いいね、洗える時計」
「うん。洗えるのがね」
 そんな事を言いたいのではない。
 頭の上で、先刻洗った私のシャツがふわりと風に揺れて影が私の頭を撫でた。私はそれを振り仰いで手を下ろした。顔を合わせられないまま訊ねた。
「諒介」
「ん?」
「左手…」
「……」
「訊いちゃだめ?」
「それは…」
 答えるのかと思って振り向くと、彼は眼鏡を外して、閉じた瞼の上から目をきゅっと指で押さえた。悪い事をしたかな、と顔を覗き込む。彼は手を放して丸い目をこちらに向け、ぽつりと言った。
「…何でもかんでも由加に話せると思うの?」
「……」
 不意に諒介の口元が歪んだ。目が笑っている。
「言えない事だってあるわよ。隠したい事だってあるのよ」
 新橋のおでん屋での、私の真似だ。思わず赤面した。楽しげに「バカヤロー」と言う諒介を蹴り倒した。寝転がった彼はもういつもの頼りない笑いでひらひらと揺れる洗濯物を見上げた。
「判るでしょう」
 私は「うん」と答えてこっそりと自分の右の掌を見た。膝に閉じた目を付けて隠す。
 私も言えない。諒介も言えないのだ。