「ふ、古田屋はん!」 きゃあっと怯えて抱き合うゆかりと直人に、古田稔右衛門はにこにこと笑いかけた。 「もう、あんまり遅いから来ちゃったよ」 「出たな変態!」里美が棒っきれを構えた。 「いやだなあ。変態っていうのは桜木さんみたいな人のことを言うんだよ。悪徳商人と言ってもらいたいねえ」 妙に職業意識の強い古田屋であった。彼はにっこりと手を出した。 「さあめぐむちゃん。おじさんと一緒に行こうねえ」 あんたやっぱり変態だよ。 全員が(作者も)思った。お由はめぐむを背中に庇った。「だめ!こんな変態悪徳商人にはめぐむちゃんを渡さないんだから!」声が震えている。 これ以上待てない。澤田は材木の上から飛び降りて、壁伝いに戸口の方へと近づいた。 「あ、いいなあ。その響き。もっかい言って」 「…こ、この変態狸地蔵顔親父っ!」 「悪徳商人、ってつけてくれなきゃ。そっちが主な悪事なんだから」 「うーるさいっ!食らえ正義の材木!」 ばき。 里美に棒っきれで殴り倒され、古田屋は「こういうのも楽しいねえフフ」と笑って、あっけなく気絶した。それを機に、外で控えていたらしい数人の破落戸が戸口から中に飛び込むのが見えて、澤田は今だと意を決した。 きゃーっと悲鳴が上がった。澤田は戸口に駆けつけて「お由さん!」と叫んだ。 「…澤田様!」 振り返ったお由の横を、破落戸がゆっくりと倒れるところであった。頬が丸くへこんでいる。何があったか澤田にはすぐに判った。考える間もなく男達が一斉に澤田に飛びかかる。一人、二人、と数えながら、澤田は身をかわしては拳を急所に当て、お由に近づいていった。 「里美さん!…いやーっ、澤田様!」 長刀代わりに振っていた材木を折られた里美が殴られて昏倒し、お由はめぐむを抱きしめてぎゅっと目をつむった。男がめぐむを奪い取ろうと襲いかかる。澤田が男を殴り倒すと辺りは静かになった。 もはや立っているのは澤田一人となった。「大丈夫か」と膝を突いて、お由を抱き寄せた。 「澤田様…。諒介さんは無事なんですか?」 目に涙をためて顔を見上げるお由に、澤田は「人のことはええから今は自分のことを心配せえ。ほんまに無茶しよって」とお由を抱く腕に力を込めた。 ふいに。 ただならぬ殺気を感じて、澤田は戸口を振り返った。 ふらりと男が入ってきた。その佇まいに、この男、腕が立つ その気配を、澤田は全身が総毛立つようにぴりぴりと感じた。 左目の横に傷跡がある。これが 白井幸之助か。 白井はすらりと太刀を抜きながら不敵な笑みを浮かべた。 「おぬし、かなりの使い手と見た。抜け。待ってやる。すぐに片が付いたのでは面白くないからな」 抜くなよ 諒介の言葉が思い出された。 だがこの男が相手では、そうはいかぬであろう。澤田は「離れてろ」とお由から手を放し、数歩前に出ながらかちんと鯉口を切って、ゆっくりと刀を抜いた。こめかみから汗がひとすじ、つーっと流れた。久しく握っていなかった太刀が重く感じられた。 じりじりと間合いを詰める二人を、お由は息を呑んで見つめた。 澤田様まで殺されてしまう ふ、と白井が笑った。その刹那、二人が動いた。 キンと刃が重なり、二人は飛び退いて離れた。奴をお由さん達に近づけてはならん 澤田はすり足で戸口の方へと動く。それを知ってか白井も誘うようにお由達の方へと下がった。たまらず澤田が白井の懐に飛び込む。白井の太刀が澤田の剣先を退け、澤田はお由の目の前に片手を突いて倒れた。振り下ろされる刃を澤田は右手の刀で止めた。 「……くっ」 歯を食いしばり、右手に力を込めて白井の刀を振り払う。床についていた手をばねに、弾かれたように立ち上がった澤田は両手で柄を握って脇から太刀を振るった。白井が後ろに飛び退く。二人の間に、立てかけていた材木ががらがらと大きな音を立てて倒れた。 お由は両手で口を覆い、今にも「ああ」と洩れそうになる声を抑えた。 二人はじっと動かない。一分の隙もなかった。互いに目と目を合わせて睨み、隙が生まれるのを待つ。白井が、そして澤田が、ゆっくりと構えを変えた。 小窓から見える空を流れる雲よりもゆっくりと そう感じられた。 雲が晴れたのか、月の光が戸口の外の地面を明るく照らし、室内もわずかに明るくなった。澤田は目を細め、今だ と柄をぐっと握った。 澤田の方が速かった。迷いなく太刀を振り上げる。白井もまた同じ動きで前に出た。 お由は「ああっ」と両手に顔を伏せた。 だめ。澤田様が死んじゃう 諒介さん、 「いや……澤田様! 諒介さん!」 「斬るな!」 その声に澤田は咄嗟に刀を逆に返した。 ふいを突かれて動きがずれた二人はそれぞれに横に跳んだ。澤田の着物の肩が裂かれて袖が落ち、古傷が覗いた。白井も峰で打たれた右腕を左手で押さえ、片手で太刀を振り上げる。 速い 遅れた、と太刀をかざす澤田の脇差しを誰かが抜いた。 がちっと固い音がして、澤田は「遅い!」と怒鳴った。 「すまん」 諒介が、鞘に差したままの脇差しで白井の太刀を止めていた。お由は顔を上げて、そこに諒介がいるのを呆然として見た。 白井は太刀を下ろし、後ろに下がりながら「…またか」と言ってにやりと笑った。 「おまえはいつも俺のじゃまをする」 そう言って左目の横の傷を指先で撫でた。 やはり知り合いであったか。 澤田は目の前の諒介の背と白井とを見比べた。あの傷は この男がつけたのだろうか。 「これも何かの縁だろう。まとめて葬ってやる」 「白井。まもなく捕り方が踏み込んでくる。観念するなら今のうちだ」 「慈悲深くなったものだな」 そう言われて諒介は唇を噛みしめた。 「これでもか?」と白井が向きを変えて刀を振りかざした。 「よせ!」 諒介は横飛びになって、そこに倒れていた古田屋の上に覆い被さった。 がちん、と脇差しが白井の刃を止める。すっ、とその刃先が滑って諒介の左腕を斬った。 「……っ」 「おまえは甘いんだよ、和泉」 諒介を見下ろしたまま、白井は腕を伸ばして刀の先を澤田に向けた。隙を狙って構える澤田は動きを止められ白井を睨んだ。 ピ イィィィィ 遠く、捕り方の笛が聞こえた。白井はくっと笑って、刀を構えたまま戸口へ行き、背を向けて走り去った。後を追おうと踏み出す澤田に、諒介は「いい、今はこいつらを引き渡すだけで…」と深く息を吐いて言った。辺りは捕り方の足音で騒がしくなり、戸口に立った同心の矢島が十手を構えて呼ばわった。 「御用である!神妙にいたせ!」 「…してますよ、旦那」 諒介は両手を後ろ手に突いて頼りなく笑った。矢島は「遅かったか」と苦笑した。 里美とめぐむは無事に保護された。その場に倒れていた破落戸ども五名と、ゆかり、直人、そして古田屋はお縄をかけられ、引っ立てられていった。 後には三人が残った。澤田が諒介に手を差し出して立たせ、二人はお由の前に立った。 お由は言葉もなく二人を見上げていた。 「大丈夫か」澤田が背を丸めて尋ねた。 「……腰抜けた……」 諒介がくすっと笑った。「無事で良かった」 「……」 お由の目に、涙がじわあと盛り上がった。「…何が…」と言いかけると、二人がそれぞれにお由の二の腕を掴んで「よいしょ」と引っ張り立ち上がらせた。 「何が無事で良かったよ!人にさんざん心配かけて!なかなか来てくれなくて朝寝してて里美さんは酔っぱらってあんなおっかない人と戦って行かないでって言ったのに吉原行って!」 「縺れとるで、言語が」 澤田が腕組みした。諒介は俯いて声もなく笑っていたが、ふいに「いたたっ」と脇腹を押さえた。 「笑い過ぎや。……どうした、それ」 見ると諒介の脇腹に血の滲んだ跡があった。袖に着いた腕の傷の血とは色が違っている。 「さっき、ちょっと刺されそうになった。…それで遅くなった」 苦笑して答え、諒介はふっと真顔になってお由を振り返ると、頭を下げた。 「すまなかった」 お由はまた口を両手で覆って、ただ首を横に振った。涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。諒介は眉尻を下げて困ったように笑った。 「本当にたいしたことないんだ。ほんのかすり傷…。でもそんなに心配なら」 と、両手を衿に掛けて前をほんの少しはだけながら、小首を傾げてにっと笑った。 「見る?」 「バカ野郎」 あとは言わずもがな。 翌日、澤田は参考人として番屋に赴いた。調書を取る矢島の後ろに、あの二枚目役者がくつろいで座っていた。昨日、お市と古田屋の関係を洗うために奔走していた嶋吉が発見したのだという。 「奴は江戸を出る気でいたんです。見つかって良かった。おさきちゃんの姿絵のおかげですよ」 だから何でその絵で……いや、もう言うまい。 「私は脅されてて訴え出られなかったんですよ。あのまま江戸にいたら殺されてましたからね。こうして保護してもらえて良かったです。ね、これで私は罪にはならないんでしょ?」 役者は大きな目をくりくりとさせて矢島の肩を揉んだ。矢島は「ああ、もうちょっと首の方…」と言って「お白州には上がってもらうよ。古田屋から金子を受け取っていたのには変わりないのだしな。お慈悲もあろうが、出来れば早くに訴えてもらいたかったな」と笑った。 「奴の証言で、古田屋から賄賂を受け取っていた老中の名も挙げられて、今日にも御役御免ですよ。澤田様にもお礼申し上げます」 と嶋吉は深々と頭を下げ、澤田は「いや…」と横を向いた。 無実の罪で自害した兄を思っていたのだ。河上は討てなかったが、同様に悪事を働いていた老中と古田屋一味をお縄に出来た。これがせめてもの兄への供養になれば良いが そんなことを思いながら、澤田は番屋を後にした。 お市もまた古田屋と同じ頃に嶋吉の手によって御用となっていた。これで、役者が書いた『虹橋心中』ならぬ、このからくり橋騒動は、一件落着と相成った。 ただ一人、白井幸之助を除いて。 白井の行方は杳として知れなかった。金で雇われた破落戸は無論のこと、お市や古田屋さえも白井の素姓を知らず、追跡の足掛かりとなる証言を得られなかったのである。 白井と諒介の間に、過去に何があったのか。白井の傷は、何を意味するのか。 考え込んで歩く澤田の耳に、遠く聞こえる声があった。 エーンヤコラセー ドッコイショー 勝鬨橋が今日も跳ね上がる。 ゆっくりと、眩い光を受けて輝きながら。 もうそんな時刻か、と『月次』を見遣るが、店の前にお由の姿はなかった。澤田はふらりと角を曲がって、『月次』の暖簾をくぐった。 お由は外に背を向けて座っていた。 「お由さん、今日は橋を見ないんか」 澤田が声を掛けると、お由は背中をぴくりとさせたが、振り向きもせずに俯いた。 「…もう、あんな橋、きらいです」 その気持ちは判る。澤田は一つ頷いて、「せやけどな」と腕組みをした。 「あの橋がなかったら、向こう岸に行かれへんやろ」 お由がゆっくりと振り返った。 「奴に昔、何があったか知らへんけどな。橋渡らなかったら、向こう岸のことは判らんままや」 かたん、とお由は立ち上がった。そうして潤んだ目で澤田を見て、ふわっと笑った。 かたかたかたと下駄を鳴らして店を飛び出してゆく。澤田も後に続いた。 橋はまだ上げられたままだ。船が通ってゆくのを、お由はぴょこんぴょこんと背伸びして見た。通りかかった女が「お由ちゃん、また橋を見てるのかい」と声を掛ける。「よっぽど好きなんだねえ」と言われて、お由はふふと笑った。 ぎぎぎと音を立てて橋が下りた。かたかたと走るお由の後ろを澤田も行く。橋を越えて、二人は諒介の許へと走った。 かわらばん屋の前には駕篭が停められていて、駕篭かきが二人、地べたに座って一服して「今日は富士が良く見えるねえ」などと話していた。 お由と澤田は顔を見合わせ、中に入った。おさきがいない。気を利かせて留守にしているのかもしれなかった。二人は下駄と草履を脱いで、四つん這いで進み、障子の隙間からそっと奥を窺った。 訪れたのは一人の老女だった。諒介と老女は向かい合い、深刻な顔で沈黙している。先に口を開いたのは老女だった。 「…此の度のこと、香奈から聞きました。…諒介」 「…はい」頭を下げつつ、上目で老女を見る。 「殿は義兄であるそなたに、国に戻って欲しいと仰っています」 「…はあ」かくん、と肩が落ちた。 「めぐむはそなたのことさえ知らないし」 「…僕も姪がいたなんて知らなかったなー」へらっと笑った。 「諒介!」 「はいっ」ぴんと背筋を伸ばす。 「知らなくて当然です。国を飛び出したきり便りも寄越さず、やっと居所が判ってみれば、こんなことしてたんですか!」 老女は畳の上の瓦版をぴしゃっと叩いた。諒介は唇を尖らせて下を向いた。 お由と澤田は顔を見合わせ、互いの愕然とした顔を確認し、また奥を覗き込んだ。 えーと。つまり。 諒介さんは殿の義兄で、めぐむちゃんは姪で、お殿様の奥方は香奈様で、ということは……香奈様のお兄さんが諒介さんで、つまり、つまり……諒介さんはお殿様の義理のお兄さんってこと? 結論がふりだしに戻ってどーする。 思考回路が縺れているお由であった。 「そなたはいずれ和泉の家督を継ぐ身。国に戻りなさい。それに、殿に仕えて国の政を手助けすることは、上様をお助けすることでもあるのですよ」 それを聞いた諒介は、何度も軽く頷きながら、指先で鼻の頭を掻いた。そして、両手を突いて平伏し、「母上」とあらたまった。 「何ですか、気持ちの悪い」と老女 母が言うと、諒介は苦笑して「…その、」と頭を上げた。 「上様や殿が善政を布かれておられることは承知しております。しかしながら此の度のようなことも絶えないのが事実です。…私は民の立場から、殿や上様をお助けしたいのです。…それに」 そう言うと、諒介は背中の力を抜いてにこっと笑った。 「今の暮らしの方が僕に向いてるし」 「…努力が足りないのですよ、そなたは」と、母は呆れ顔だ。 「…僕は、この町と人々が好きなんです。この町には大事なものがある」 大事なものって何だろう、と思うお由の頭を、澤田がちょんと突っついた。 「もう、何するんですかっ」 「イテッ」 慌てて立ち上がろうとして、お由の頭が澤田の顎にぶつかった。その声に、諒介が「えっ?」と振り向いた。 「わ、何するねん」 「だって澤田様が…きゃあっ!」 がたがたがたっ。 二人は外れた障子の上に倒れ込んだ。 呆然と二人を見る諒介と母に、お由は赤面して「へへっ、どーも」と笑った。 諒介はくくくと笑って痛そうに脇腹を押さえていたが、ちらりと“こちら”を見て、照れくさそうに笑った。 「まいったな」 |