- 夜 -

 その絵を机の前の壁に掛けた。扉を開けて部屋に入る時、机に向かう時、ベッドで眠りに就く時。その絵はいつも目に付く所にあった。タイトルは何と言うのだろうと思って額の裏板を外してみたのはその絵を手に入れてから数日後だった。
 ≪K.Sekiya≫
 鉛筆で小さくさらりと書かれたサイン。その横に通し番号、下に守屋画廊のシール。そこに違う人の肉筆でタイトルが書かれていた。

 関谷和志『夜』

 もっと意味有りげなタイトルを期待していたので「なあんだ」と思った。額を壁に戻し、机に両手で頬杖を突いて『夜』を見上げた。
 澄んだ青。
「どうしたらあんな青が出せるんだろう…」
 頭の中で、ぐるぐると色を混ぜてみる。
 混ぜる事では作れないような気がした。反対に、色から何かを抜き取っていかなければならないように思えた。
 不純物のない、透き通った夜。




 そこは見覚えのある景色の断片をいくつも間に挟んだ知らない街だった。駅前広場は夕刻で、家路を急ぐ人達が行き交っている。私は裸足で歩いていた。足の裏に舗装路の固い感触。どれほど歩いたのか、足の裏は固く、痛み始めていた。
 ───痛い。靴は、どうしたんだろう。
 私は靴を置いて出てきたらしかった。その不自然さに気付いた途端、目を覚ました。
 目覚めても足の裏が痛かった。足が痛んだからあんな夢を見たのか。床に就いたまま痛む足の裏をシーツに付けた。そうして得られた感触は、ベッドのわずかな弾力、柔らかく滑る布地のある事だった。足の痛む理由が見つからなかった。あんな夢を見たから痛くなったのか。
 目を開ける。部屋はまだ暗い。重いまぶたを閉じると闇が揺れた。




 秋は早足に過ぎる。校庭の桜並木もすっかり葉を落とした。『夜』のように落ち葉を敷いた小径。桜の下に立って足元の地面に視線を落とした。
 ───黒い木の下にうずくまる人。
 あの人は誰なのだろう。
 ≪絵を描かれるのでも観賞するのでも人はそこに自分を見ています≫
 守屋さんの言葉を借りるなら、あれは関谷さんという事になる。私は日々にあの絵を目にするうちに、≪彼≫がなぜ地面に両手を突いて頭を垂れているのかが気になっていた。それは落とし物を探しているようにも、絶望し嘆いているようにも、謝罪しているようにも見えた。
 ───あの人は何をしているんですか。
 そう、関谷さんに訊けばいいのだろうけど。
 あれから私は雑誌などは関谷さんの店で買うようにしていた。絵をタダで貰ってしまって、それまで避けていたのに我ながら現金なものだ。せめて売上に貢献しよう。微々たるものだろうけど。関谷さんは居る時もあれば、居ない時もあった。仕事中に声をかけることは出来ないし、恥ずかしいから見つからないようにしている。一度、漫画を買ってエスカレーターで三階まで降りた時に見つかった。少し遠くからにこっと笑いかけられて、会釈だけして下へ降りた。
 千鶴、と朗らかな声に振り向いた。涼子が駆け寄ってくる。また残って勉強していたのか、偉いなあと感心したら、涼子は「司書室で先生とお茶してた」と言ってへへんと笑った。
「千鶴は何してたの、こんなとこで」
「…落ち葉の観察」
 へえ?という声に笑いが混じって裏返った。涼子は身を屈めて落ち葉を一枚拾い上げ、目の前にかざした。正門の方へ並んで歩き出す。
「そうか、こういうのも絵を描くのには必要だもんね。…千鶴は美大受けるの?」
「まだ判らない…成績も良くないし」
「受けるなら今から決めて勉強してかないと間に合わないよ」
「うん」
 涼子はもう目標を定めている。私は成績を口実にだらだらと絵を描いているだけだ。胸の底がずしりと重かった。
 関谷さんから絵を貰った事を涼子には話していない。
 『夜』。
 あれが関谷さんの心を映した鏡なら───美しく青い夜の底でうずくまる人影の事を、話す事は出来なかった。




 靴を揃えて脱いだ。素足にコンクリートのざらざらした冷たい感触。風が強かった。爪先から切り立って、地面は遠くにあった。木々があんな低い所に───怖い。
 怖い?
 優しい声。
 固く手をつないだ。
 この人と一緒なら怖くてもいい。
 身体よりも先に心が落ちた。




 息が苦しくて寝返りを打った。心臓が暴れている。あんな高い所から───毛布を胸に引き寄せて身体を丸めた。暗闇の中で、眠るのが怖くて目を開けていた。どうして私は───
 あの気持ちは一体何だったのだろう。何もかも、自分さえ、要らなかった。




 空想とは何なのだろう。
 思い描く事か。
 それなら、これは何なのだろう。
 私は筆を置いた。美術室は寒かった。ストーブを独占していても。
 それはたびたび夢に現れる景色で、私は夢の中でも「以前ここに来た事がある」と思った。私の家。だが現実にそれは私の家ではない。家の中にはいつも私一人で、長い廊下を進むと庭に突き当たった。
 大きな桜のある庭。桜を中心に、四季折々に花を咲かせる木々が配置され、今は秋の花がひっそりと庭に色を散らしている。
 ───今は。私は目覚めている。
 しかしそれはふいに私を襲う。目に映っているのは美術室の大机と描きかけのボード、その向こうに画材を収めた棚と壁、そこに違う景色が重なった───ような気がする。見えていないのに、見えたと感じる。
 インスピレーションと呼ぶのが最も近いのだろう。だが私はその庭を描いた事はなかった。いつも同じ景色が見える訳でもない。教室で、町中で、旅先で、その景色の中にある筈のないものが空気のふりをしてそこにある、そんな感じがする時がある。見える筈のないもの、居ない人の声、それを五感とは別のところで感じた次の瞬間、怖ろしくなる。
 幻覚を私から削ぎ落とそうとして、腕に刃物を突き立てたい衝動にかられる。
 私は筆の先に赤い絵の具を付け、掌に楕円を描いて塗り潰した。
 切り落とされたゴッホの耳は掌の上で熱かった。
 私は深く息を吐き、筆を置いて背中を丸めた。ゴッホの『星月夜』を初めて見た時、いつも感じていたのはこれだったのかと思った。渦を巻く夜空、生きて蠢くような風景───
 突然切り立った足元から落ちる錯覚。
 椅子の高さが怖かった。
 私は机の端に掴まって椅子から降り、床にぺたんと座り込んだ。足が痛いから夢を見たのか、夢を見たから足が痛くなったのか。感覚など───不確かだ。
 私は、おかしいのだろうか。
 気が変になっている。
 目を閉じると闇が揺れる。波に揺られているのは脳だ。両手を床に突いて自分を支えた。しばらくじっとして、目を開ければ波はおさまった。
 ───あの人は…
 私は自分が、関谷さんの『夜』の人物と同じ姿勢をしている事に気が付いた。あの人は───こんなふうに怯えているんじゃないだろうか…あの、蠢く空気の中で。
 震える手で、急いで道具を片付けた。ストーブを消して戸締まりをし、準備室を覗くと萩原先生が居た。職員室まで鍵を返しに行く手間が省けた。「帰ります」と鍵を渡す声が上手く出ない。先生は「片岡さん、風邪?」と喉飴をくれた。
 風邪かもしれない。だからさっきから眩暈がするんだ。
 関谷さんの書店に着いてそう思った。三階まで上ると、関谷さんはレジに立っていた。ほっとしたのと同時に思う。勢いで来ちゃったけど、どうしよう。考えあぐねて見ていたら、彼はこちらに気が付いて、微笑し軽く頷いた───挨拶してくれたらしかった。私も小さくお辞儀をして、客のように手近の本を手に取った。
 しばらく美術書の売場をうろついた。建築の本から編み物の本まであれこれと見る。どれもぼんやりと目に映るばかりだった。買いもしないのに長居して、迷惑。やっぱり帰ろうかと思いながらも昇りのエスカレーターに乗った。この前見たばかりの漫画の新刊をまた見る。帰ろう、そう思って一階まで降りた。入口の前のベストセラーの山を、一冊ずつ手にしては開いて一周した。
 ───もう一度だけ。
 私は三階に引き返した。今、訊いてみたかった。あの人は何をしているんですか。
 レジに関谷さんは居なかった。私はフロアをぐるりと廻って、こんなものだ、とうなだれた。その途端、誰かが後ろから近付いて、耳元で「何かお探しですか」と低く訊ねた。
「わあっ」
「わあっ」
 お互いびっくりした。振り向くと、関谷さんは心臓に手を当てて「びっくりした」と笑った。
「…びっくりしたのはこっちです…。どこに居たんですか」
「さっきから君の後ろに居たけど。何か探してるのかと思って」
 かくんと頭が下がった。見つからない筈だ。探し物が何か答えられずに間が空いた。「どうしたの」と訊かれて顔を上げた。
 私を見る関谷さんの顔から微笑がすうっと消えた。彼は目をそらして「えーっと」と少し考え込んだ。
「僕はこれで上がるんですが、良かったら一緒にお茶でも飲みに行きませんか」
「……」
「今日はナンパ」
 そう言って彼はこちらに目を戻し、クスと笑った。私はかくかくと頷いた。願ったりだ。話が聞ける。彼は「じゃあ下で待っててください」と店の奧へ走っていった。




 お茶を飲みに行くのに地下鉄に乗った。喫茶店なら近くにいくらでもある。
「守屋さんに『一度見ておきなさい』と言われた絵があるんだ」
 さほど遠くもない。絵があると言われて興味もわいた。私達は電車で移動する間にあらためて自己紹介をした。
 関谷さんは二十四歳。大学を卒業して就職したが、思い立ってデザイン学校に入学した。
「就職も厳しかったから辞めるのには迷ったけど、何でかな、どうしても絵をやりたかった」
 静かに話す人だ。彼の作品が守屋さんの目に留まったのは最近の事だという。
「君が初めて僕の絵の値段を訊いた人なんだよ。嬉しくてつい『五百円』って言っちゃった」
 彼は小さく肩を揺らして笑った。私は「すみません」と恐縮した。
 閑静な街の駅で電車を降りた。関谷さんは黒いハーフコートのポケットからメモを取り出した。横から覗き込む。住所と、≪信号渡って右≫と始まる道順、≪スイ≫。絵の裏のサインの字と一緒だ。
 五分程歩いた所にその店はあった。随分と古い建物だ。壁には枯れた蔦が這う。木製の扉には関谷さんの目の高さに菱形の小窓がある。繊細な模様のステンドグラスだ。店内の様子は扉の横の窓から窺えた───狭い店に暖色の明かりが点っている。そして頭上に西欧風の、黒い鉄製の看板が下がっていた。
 ≪睡≫。
 関谷さんはそれを見て「翡翠の翠かと思ってた」と私に微笑みかけた。「喫茶店って言うよりバーって感じだな…。大丈夫かな。まあ、僕が保護者って事で…」と言いながら扉を開けた。
 店内に居たのはカウンターの中の女性一人だった。「いらっしゃいませ」の声に頭を下げつつ中に入った。関谷さんがいきなり足を止めて、私は彼の背中に頭をごつんとぶつけた。「ごめんなさい」と言っても彼は動かない。横に並んで、正面の壁に掛かった絵を見た。
 両腕を大きく広げてやっと持てるくらいの大きな絵だ。
 ───まぶしい光と暗い闇。
 画面の中央に大きな窓がある。窓枠から外側は真っ黒だ。右には椅子に腰掛けた裸婦。少女のようなあどけない顔で微睡んでいる。そして黒い闇にはうっすらと、彼女の周りを蠢く何者かの気配。ところどころ、窓からの光に照らされてそれは姿を現していた。人魂のように飛び、夢魔のように手を伸ばし、虫のように這う。曖昧な形をしていたが、それは群をなして部屋を徘徊し、闇を埋め尽くしている。窓の外には陽光が降り注ぎ、満開の桜が風に揺れていた。花びらが舞う春の庭。
 まるで夢で見たあの庭だ───
 心臓が破裂しそうで胸に手をあてた時、店の女性が「あの」と呼びかけた。
「もしかして、守屋さんの紹介で来られた方ですか」
「…え?…ああ、はい」
 絵に見入っていた関谷さんがようやく答えた。それを聞いた彼女はにっこりして「どうぞ、座ってください。守屋さんから、ここに」と自分の頬を指差した。「ほくろのある男の子がそのうち行くから、って」
「そうでしたか」と答えてフッと微笑む関谷さんの肩から力が抜けたのが見て取れた。女の人がカウンターにお冷やを置いたので、私達はコートを脱いで、彼女の前に並んで腰を下ろした。
「こちらの≪睡≫という名はあの絵と関わりがあるんですか?」
「ええ、『午睡』っていうんです」
「…あ、やっぱりお酒だ」
 メニューを開いて関谷さんは苦笑した。
「昼間は喫茶店ですよ。コーヒーも紅茶もあるから大丈夫よ」
「じゃあ、紅茶を…」
 答えながら眩暈がした。動悸が苦しい。
「あの絵は守屋さんから買われたんですか」
「いいえ、あれは叔父の絵なんです。叔父と守屋さんが親しかったので、それで」
「…今は?」
「亡くなりました。私が十歳の時だったから、二十五年になる」
「そうなんですか」
「あ、歳言っちゃった。内緒よ。ここ何年か、二十八で通してるんだから」
「はい」
 二人がふふと笑うと、それまで重く感じられていたものが私の身体から離れた。───何を考えているんだろう? まるであの『午睡』の中の気配のようなもの。私はそっと絵を見遣った。関谷さんも絵を振り向く。私達が観賞している間、女の人は黙ってお茶をいれていた。カチャとカップを置く音に向き直ると、レアチーズケーキが並んでいた。関谷さんの水割りの横には、柿ピー。
「どうですか、叔父の絵は」
「…他の作家と比較するのは失礼かと思いますけど、ゴーギャンを彷彿させますね」
「ああ、見た事があるわ」
「夜は死者が徘徊するので明かりを落としてはならないというタヒチの伝説です。こうした言い伝えや信仰は昔から世界各地にあるから、似ている云々するのは無意味でしょう。ゴーギャンを連想したのは、彼女がきれいだから」
 どきっとした。彼女が「あらそう? 嬉しいわ」と言うので、私は「モデルなんですか?」と訊ねた。
「まさか。その頃私は十歳だもの」
「その頃、三歳の筈ですよ」
 関谷さんに言われて彼女はあははと笑った。
「…という事は、亡くなる前の作品なんですね」
「うん。最後の作品。だから父も売らずに手元に置いてるのよ」
「最後か…」
 関谷さんの手の中で、グラスの氷がカランと小さく涼しい音を立てた。
「叔父さんの名前は何ていうんですか」
「せきやかずし」
 関谷さんが身を固くした───私もだ。ややあって、関谷さんがグラスを置いて訊ねた。
「…かずしの、字は、どう、書くんですか…」
「一つの志。…知ってるの?」
 私達は、はいともいいえとも答えられなかった。

-Next- -Back-