- 命 -

 夕焼けが空を茜色に染めていた。薄暗いアトリエ。彼は絵筆を置いた。
 一歩、二歩とゆっくり下がって絵を見つめる。やがて足を止めた。厳しい目をしていたが、ふっと微笑みに変わった。
 そっと近づいて隣に並ぶ。暗闇の部屋で微睡む乙女───そこにいるのは私ではなかった。闇に蠢く魔物達を退ける美しさ。それは誰にも穢せない、無垢の心だった。窓の外の満開の桜が光に輝き、大らかに生を謳う。生命の力に満ち満ち、だがそれは窓の外のことだった。
 綺麗ね
 ………
 彼は無言で頷き、画面を見つめたまま、私の手をそっと握った。
 この幸福に、終わりの時が来る。
 私は彼の手を強く握った。彼も手に力を込めて応えた。
 これが最後だよ
 彼はこの絵を描き始める時と同じ事を言った。私は彼の腕にそっと身を寄せた。
 終わったのね
 うん、終わった
 お願いです
 その言葉に、彼が少し振り向いたのが気配でわかった。
 最後に…この乙女を私にしてください
 これは君だよ
 …それなら、誰にも穢せないほど、私をあなたのものにしてください
 ………
 これが最後のお願いです
 私は彼から身を離してその顔を見上げた。彼は瞳に困惑の色を浮かべながら、そっと顔を近づけ、ふわりと軽いくちづけをした。




 ───目が覚めて愕然とした。
 何度も覚醒しては眠りに吸い込まれ、長い長い夢を見ていた。
 これまでに見た不思議な夢のパズルの最後のピースがはまったように、私は全てを悟った。
 思い出した……。いくつもの夢の断片を繋いで、全ての景色が見えた───
 一志さんと初めて出会ったアトリエ。彼は家に出入りする画家の卵の一人で、初めは怖そうな人だと思った事。初めて見た笑顔の優しさに惹かれた事。私にもわかる才能の持ち主で、でもそれをひけらかさない人だった。真摯に絵画と向き合い、同じように私にも向き合ってくれた。
 生き様が真摯な人だった。
 それゆえに受け入れられなかった、現実。
 この世界を愛しながら、絶望していた。父親のビジネスの駒にされる事も、それがまかり通る画壇にも。そしてまた私も父親の駒だった。そんな私を、彼はこう表現したのだ。
 『午睡』という一枚の絵で、穢れなき乙女と。
 夢は全て現実にあった事だ……今なら思い出せる。関谷さんとの年の差の7年間も、母の胎内に居た頃からもずっと彼との再会を夢見ていた事───産声を上げて泣いた。やっとあなたに会いに行けますと。
 縁さんの記憶は私の記憶だ……
 記憶が蘇ったのはおそらく、関谷さんが私を描きたいと言ってくれたからだ。一志さんが縁さんを描きたいと言ったように。「君がいいんだ」という言葉さえ、同じだった事も思い出した。
 どうしよう。
 こんな事、誰にも言えない───
 涼子にも。茜さんにも。母にも。
 ───関谷さんにも。
 言ったらおかしいと思われる。自分でもおかしいと思う。前世の記憶だなんて……そんな作り話みたいな事。
 そして、関谷さんは……彼は本当に一志さんなのかも疑問だった。私が勝手に一志さんの面影を重ねているだけだと気づいていた。
 ≪かず≫の字が違う。顔立ちも違う。なのに同じ優しさ。同じ厳しさ。
 でも、そう、私が関谷さんを好きなのは、関谷一志と同じ名前や、まるで生まれ変わりのように似ているからじゃない───
 今、関谷さんは私を自室の椅子に座らせ、黙々とスケッチをしている。日曜の夕方、書店でのバイトを終えた関谷さんを訪ねて、今こうしている。「今日はこれを持って」と花を渡された。スノードロップ。暖かい部屋はまるで関谷さんの胸に抱かれているかのようだった。
 ふう、と関谷さんが息を大きくひとつ吐いて、「休憩にしよう」と立ち上がった。台所に立ってお茶を淹れようとする背に「手伝います」と私も急いで立った。こたつの上に置かれた一輪挿しにスノードロップを挿して台所へ。彼の後ろに立って、何をすればいいやら迷った。ポットとカップを温めている関谷さん。傍らに紅茶の缶があった。「疲れたでしょう」と言われて「いいえ」と答えた。
「ここはいいから座ってて」
 そう言われたら従うしかなかった。のろのろと動いてこたつにあたった。「どうぞ」と差し出されたのは大きなマグカップ。前に置かれたシュガーポットの角砂糖を入れてかき混ぜて、向かいに座る関谷さんの言葉を待った。
「遅くなるから、もう一枚だけ描いたら終わりにしよう。お茶飲んでていいよ」
と言って、関谷さんは休憩も取らずにまた描き始めた。熱い紅茶をふうふうと吹いて冷ます。良い香り、アールグレイだ。
「思った通りだ」と関谷さん。「何がですか?」と問い返すと「その花が千鶴ちゃんには似合ってる」と答えた。
「ちょっと頬杖ついてみて」
「はい…」
「あ、お茶飲めないね。片手は自由にして」と笑いを含みながら言う。私もつられて笑った。
 こうしていると、今日見た夢も忘れていられる───
 私、片岡千鶴が、関谷和志という人を好きでいられる。
 頬杖をついて、飽きることなく関谷さんを見つめていた。たったそれだけの事が、私を今、生かしていた。




 放課後の司書室で、お茶の時間。中川さんがラスクを用意していた。涼子と二人、ラスクに手を伸ばす。サクサクという音が軽快だった。
 あれから───関谷さんが正門前で待ち伏せていた時以来、私は絵を描いていなかった。美術部は誰も出て来なくなっていた。ボードを前にして目に浮かぶのは、『午睡』の縁さんでもなく、小椋さんの家の庭や廊下でもなく、スケッチブックに熱心に私を描く関谷さんの姿だった。その度に心臓を絞られる思いがして、何も描けなくなっていた。
 だからこんな、サクサクという音の心地好い放課後が気楽で良かった。
 図書室の方からコンコン、とカウンターを叩く音。野本先生だった。中川さんが席を外していたので、図書委員である涼子が「はーい」と出た。
「あ、やっぱりこれはまだ借りてて良い?」
と、先生は一冊をひょいと持ち上げた。その拍子に本の隙間から紙片が一枚、はらりと落ちた。「落としましたよ先生」と拾おうとする涼子に、「ああ、それダメ」と先生は慌てた。拾った涼子が紙片を見た。
「…映画のチケット?」
「ダメだって言ったのに…」
 野本先生はカウンターの向こうに沈んだ。しゃがみ込んだ先生の長身は、カウンターに隠れきれずにボサボサ頭のてっぺんが司書室からも見えた。
「ふーん」と涼子は手にしたチケットをひらひらさせて、
「デートですか?」
「まだ決まってない」
「上手くいくと良いですね、ハイ」とチケットを返した。
「感情が込もってないぞ」
「野本先生に感情を込めてもねえ?」
「そういうところ、中川さんに似てきたな。図書委員はみんなこうなの?」
「そうかも」と言って涼子はプッと吹いた。
 そして野本先生が図書室を出て行くと、早足で戻った涼子がププと笑いながら、「何か犬の映画だったよ」と報告してきた。
「ロマンスって柄じゃないもんね。寄席よりはマシかな?」
「うんうん」
 二人で顔を見合わせて笑っていると、中川さんが戻ってきた。「あら入れ違い」と涼子の笑いが止まらない。
「野本先生ならそこで会ったわよ?」
「ど、どうなりましたか?」と私。
「チョコのお礼ですって」とチケットを見せた。
「フライングのホワイトデーか。一ヶ月も待てなかったと見た」と涼子。
「ありがとう、片岡さん」
「え?私?」
「チョコ渡したの、千鶴じゃん」
「あ、そうか…」
 我ながら大胆だったと恥ずかしくなった。けれど関谷さんにはもっと大胆だったなと思うと顔が熱くなった。それを察したのか、涼子の鋭い質問。
「どう、モデルの方は」
「えっと…。最初は緊張したけど…動くなとか言われないし、話して笑ったりして…」
「良い雰囲気じゃん」
「そう、かな…?」
 目を合わせて微笑む中川さんと涼子、二人分の視線を浴びて、「ちょっと、やめてよー」と両手で顔を覆った。




 木曜日の放課後は急いで帰る。私服に着替えて、≪睡≫に向かう。無論、その事は親には言えない。「友達の家に行く」とだけ母に言って家を出る。茜さんがそう言ってくれたから、と自分に言い訳をする。
 ココアを飲んで待っていると、関谷さんが現れる。
 関谷さんにモデルを頼まれてから、木曜は≪睡≫に来る事にしていた。
 ただ、逢いたくて。それだけで。
 そんな気持ちを茜さんは気づいているらしかった。私の一方的な憧れが、変わりつつある事を。私や関谷さんをからかう事もなく、私を大人として、夜の部になっても店に居る事を認めてくれていた。時々マスターが心配そうにして、遅くなり過ぎない時間に帰るように勧めてくれた。
 ───誰にも言えない、前世からの恋。
 関谷さんも、きっとそうなのだと思う。何も気づかないうちに惹かれた『午睡』の中の縁さん。運命づけられたようにこの絵と出会い、絵の中で眠る彼女を好きになったのも運命だったように。
 今は───何を思って『午睡』の縁さんを見ているのだろう。沈黙のひととき。
 あれは私。けれど私じゃない。その矛盾に私は揺れていた。
 私を見てください……
 そう思うのは我儘でしょうか。
 今、関谷さんが描いているのは私だから。これ以上を望んではいけないでしょうか。
 縁さんとどんな会話を交わしているのだろう。水割りのグラスの氷がカラと小さく鳴って、やっと関谷さんがこちらを向いた。
「そろそろ作品に取り掛かろうと思ってる」
「え、もう…?」
「この前のスケッチで手応えは感じたから」
「手応え?」
「モデルが良いから」と言ってクスと笑う。
 しばらく会えなくなるのか……
 冷めたココアのように心が重かった。マスターが「千鶴ちゃん、そろそろ時間ですよ」と慰めるような微笑みで言った。いつもなら離れがたい関谷さんを見ているのが辛かった。「はい」と立ち上がり、上着を手にして「おやすみなさい」とお辞儀をした。
「駅まで送っていく」と関谷さんも一緒に店を出た。
 駅までの短い距離をゆるゆると歩いた。「だいぶ暖かくなってきたね」と関谷さん。「今日もいい?」と訊かれたのは、神社の前に着いた時だった。
 良かった、関谷さんは変わらない……
 参道の端を、彼の後ろについて歩いた。扉を閉ざしたお社。賽銭箱の前で並び、小銭を放って柏手を打った。
 このまま時間が止まりますように───
 そんな願いは叶わないのに決まっていた。顔を上げた関谷さんが「行こうか」と微笑んだ。歩き出してふと上を見る。
「桜の枝が綺麗だ」
 それは『夜』に描かれた、罅割れのような夜空だった。
「もうすぐ桜も咲くね」
「はい」
 心地好い夜風に吹かれて、二人で見上げる枝々の間に月があった。それは私を導く光だった。




 翌日の事だった。登校して下駄箱の所で上履きに履き替えていると、誰かの視線を感じた。顔を軽く上げると、知らない生徒と目が合った。もう一人、誰かと小声で何か言ったかと思うと、逃げるように走り去った。
 ───気のせいかな?
 最初はそう思った。だけど廊下を歩いていても、遠くから私を見ては何かを囁き合う生徒たちとすれ違った。教室の席に着いて、耳を澄ますと微かに聞こえてきた。
 男の人と飲み屋から出て来たんだって
 この前、正門の所に立ってた人とお酒飲んでたらしいよ
 ───違う。
 思わず立ち上がって叫びそうになった。席を立つと生徒たちは慌てて逃げた。教室にポツンと残されて、言葉を吐く暇もなかった。呆然としながらまた座った。そこへ風紀委員の子が近づいて来て「片岡さん」と呼んだ。
「松田先生が、指導室に来るように、って」
「……」
 口の中で、ああ、はい、という言葉が声にならなかった。指導室に向かう廊下ですれ違う生徒たち皆が、私の噂をしていた。
 あの男の人と出来てるんでしょ?
 いやらしい
 見かけによらず遊んでるんだ
 それ以上は聞きたくなかった。早足で指導室まで、何も聞かないように急いだ。
 指導室で、松田先生はいつも以上に怖い顔をしていた。「座りなさい」と向かいの椅子を指した。「失礼します」と腰を下ろした。
「昨夜、あなたがこの前の男性と一緒に酒場から出て来たのを見たという人がいるんだけど、本当ですか?」
「…本当です。でも…」
「お酒を飲んだんですか?」
「飲んでません。それに、あのお店は友達の家です」
「友達の家でも、酒場に居たんですよね?」
「……」
「ご両親はご存知なの?」
「…いいえ」
「ご両親にも来ていただきます。放課後、もう一度いらっしゃい」
「…失礼します…」
 深く頭を下げて指導室を出ると、戸口に溜まっていた生徒たちが散り散りに逃げた。
 昼休みは誰にも会わないよう、裏庭でお弁当を食べよう…と教室を出ると、涼子が追いかけて来た。「千鶴、待って」と呼ばれた。
「…ダメだよ涼子、私といると変な噂が立つよ」
「何もやましくないんでしょ?だったら一緒におべんと食べよう?」
 その言葉に、片目からぽろりと涙が落ちた。「あ…やだな。ごめん、大丈夫だから」
「うん、うん」とだけ繰り返して、涼子は私を抱き寄せた。「司書室で食べようよ」と私の肩を抱いたまま、第一校舎への渡り廊下を歩いてくれた。司書室で中川さんに「大丈夫?」と訊かれて、我慢していた涙がぽろぽろと落ちた。




 放課後、呼び出された母が化粧もそこそこにやって来て、指導室に居た。仕事を放り出して来たのか、父まで一緒だった。
 松田先生と向かい合い、家族三人並んで座った。母が「この度は娘がすみません」と頭を下げた。
「お酒は飲んでいないようですが、夜遅くまで出歩いている事を許していたんですか?」
「すみません、てっきりお友達と一緒だと思っていました」
「年上の男性にたぶらかされて、何かあってからでは遅いんですよ」
 思わず「違います!」と叫んでいた。両親は私を初めて見る人のような目で見た。
「関谷さんはそんな人じゃありません。そんな…やましい事は一つもありません」
「だったら何で話してくれなかったの?」と母。
「私が……勝手に憧れてるだけなの。それだけだから…」
 声が萎んだ。現実を目の前に突きつけられて、悲しくなった。
 それまで黙っていた父が「千鶴」と呼んだ。
「その関谷君という人に、今夜うちに来てもらいなさい」
 そして松田先生に向かって「申し訳ありません。私どもの監督不行き届きでした。娘の指導については、私どもに任せていただけませんか」と静かに言った。
「お父様がそう仰るなら…」と松田先生はため息を吐いた。「しかし他の生徒に示しがつきません。酒場に出入りしていたのは事実ですから。停学処分という事になります」
「わかりました」
 父は立ち上がり、腰を90度に曲げて深くお辞儀をした。母も慌ててそれに倣った。私は座ったまま、無言で頭を下げた。

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