- 桜 -

 関谷さんのバイトが終わった頃を見計らって電話をかけて呼び出した。駅まで迎えに行く。改札前に立っていたら、駅のホームから階段を降りてくる姿が見えた。目が合って、関谷さんは急ぎ足になった。改札を通って私の前に立った彼に、「すみません」と詫びた。
「いや、こちらこそ…。ご両親は何て?」
 歩き出しながら訊かれて、「母は怒ってます…ごめんなさい、私のせいです」と身を小さくした。
「千鶴ちゃんのせいじゃないよ。僕がもっと気をつければ良かった」
「いえ…」
 駅前通りを渡って団地の中へ歩いてゆく。言葉が出ない。黙々と歩いた。私の家は奥まった棟の一戸で、「ここです」と立ち止まると、関谷さんは建物を見上げた。先に立ってエレベーターのボタンを押すと、ドアが静かに開いた。乗り込むと、狭いエレベーターでは心臓の音まで関谷さんに聞こえてしまうのではないかと思った。
「ただいま」と家のドアを開ける。自分の家なのに、中に入る勇気がなかった。母が出迎えると、彼は無言で頭を下げた。「どうぞ」と言われて「失礼します」と答える関谷さん。私はやむなく先に玄関で靴を脱いだ。体が重くて動きが鈍く感じられた───かつて経験した事のない種類の緊張だった。
 リビングで、母が関谷さんにソファに座るよう勧めた。向かいに父がいる。母は父の隣に、私は関谷さんの隣に腰を下ろした。
「はじめまして、関谷和志です。Mデザイン学校で絵を学んでいます。千鶴さんにはモデルになってもらっています」
 そう一息に言って、深く頭を下げた。
 まず母が胸に溜まっていたらしい言葉を投げた。
「絵を描くのに、お酒の席は必要なんですか?」
 私は身を乗り出して反論した。
「お母さん、それは私が勝手に行っただけで…関谷さんが誘ったりした事は一度もないから…」
「千鶴に勝手な行動をさせたのはあなたでしょう」
「申し訳ありません」
「停学処分ですよ。責任の一端はあなたにあるんじゃないですか」
「はい」
 関谷さんはもう一度、「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「もう娘とは会わないでください」
 関谷さんは頭を下げたままだった。父が「お母さん、まあ、彼の話も聞こう」と言って、頭を上げた彼は少し驚いたような顔をしていた。「お茶を淹れてくれ。彼にも」と父は言って煙草を手にして訊ねた。
「なぜ千鶴をモデルにしようと思ったんですか?」
「千鶴さんはとても純粋です。清らかな心を持っています。それが美しいと思いました」
「ほう」と父は煙草に火をつけて、うっすらと笑った。
「大切なお嬢さんをお借りしてご挨拶もなく、すみませんでした」
 お茶を運んできた母も、父の笑みを見て、困惑したようだった。「どうぞ」と湯呑みを置かれて、「ありがとうございます」と関谷さんは真顔だった。
「千鶴さんに会えないのは困ります。僕にも大事なモデルなんです。お許しいただければと思います」
 ───やだ。どうしよう。
 こんな時に、こんなに嬉しいなんて───
 例えそれが、『大事なモデル』でも、嬉しかった。モデルでしかなくても。
 顔が熱い。赤面して目が潤むのがわかって、小さく下を向いた。関谷さんは「お願いします」と湯呑みを横にずらして、テーブルに額がつくのではないかと思うほど頭を下げ、動かなかった。
「千鶴、部屋に飾ってるあの青い絵は、関谷君が描いたのか?」
「…え?ああ、うん…」
「関谷君、頭を上げてください。あの絵は実に良い。私も好きな絵ですよ」
 父の意外な言葉に、関谷さんも私も驚いて顔を上げた。
「お父さん、何を言い出すの」と母。
「千鶴、お父さんはな、昔は画家になりたかったんだ」
「え?」
「だけど才能がなかった。美大にも入れなかったよ。そうしてお母さんと出会って結婚して、千鶴が生まれて。仕事をするしかなかった。無論、それは絵を描くのとは別の幸せがあった」
 そう語る父の微笑みが優しかった。
「千鶴はよその子供たちと比べると身体も小さく、気も弱かった。苛められて帰ってきて、外に出るのを嫌がった。…それは覚えているかい?」
「ううん…。覚えてない…」
「言葉も遅かったわよね」と、母も先ほどとは違う優しい口調になっていた。
「苛められて嫌と言うこともできないで、泣いて帰ってきてたわ…。でもお父さんが買ってきたクレヨンに夢中だったわね。幼稚園の指定のクレヨンの他に、パステルなんかも持ってたわね。千鶴、覚えてる?」
「パステルなら…小学生の頃まで持ってたから覚えてる…」
「お父さんの分まで、絵を描かせたかった。だから買ったんだよ」
 ───知らなかった父の一面に驚きながら聞いていた。
「千鶴、美大に進みなさい」
 そう言って父は煙草の火を消した。
「思う存分、好きな事をしなさい」
 そして今度は関谷さんの方を見た。
「千鶴をモデルにしてくれてありがとう。…純粋、か。親としても嬉しいよ。君になら娘を任せられる。君の誠実さはよく判った」
「…ありがとうございます」
「今、千鶴を描いた絵はあるかい?」
「はい、ここに」
 関谷さんは大きな鞄からスケッチブックを取り出した。差し出されたそれを受け取って父は表紙を開き、「ほう」と笑った。「お母さん、見てごらん」
 母も「あら」とだけ言った。ゆっくりとページをめくる。
「千鶴。いい顔をしてるじゃないか」
「……」
「うちではこんな笑顔をしないよ」
「そうね」
 二人は吸い寄せられたように絵を見つめていた。
「もう娘を嫁にやった気分だよ」と父はスケッチブックを返した。驚いた関谷さんに、父は「あははは」と声を上げて笑い、「冗談だよ」と言った。




 一週間の停学処分。だが後半は学年末試験と重なってしまうため、その期間は謹慎しろとの事で、試験は教室ではなく別室で一人で受ける事になった。
 涼子が授業のノートを持って家を訪ねてきた。母が焼いたクッキーと紅茶でティータイム。机に向かう私の前に、関谷さんの『夜』があり、「これが関谷さんの絵か…」と背後に立つ涼子が呟いた。
「綺麗だね」
「うん」
「千鶴の絵はどんな風になるのかな」と涼子はベッドに腰掛け、傍らのクッションを抱えた。
「肖像画だから画法を変えるって言ってたよ。初めての試みだから、下手でも許して、って」
「あはは。面白いな、関谷さん」
 私も少し笑った。不意に「良かったね」と言われて、「…うん」と頷いた。
 あの後、母に言われた。「親っていうのは、子供の事を一番に思っているのよ」と父の気持ちを。「関谷さんが良い人だから認めたけど、自分のした事は反省しなさい」
 反省の気持ちを込めて、涼子のノートを書き写す。「美大に進みなさい」という言葉が、宙ぶらりんだった私の心を決めさせた。頑張って勉強しよう。これからも認めてもらえるように。わからないところを涼子に訊く。涼子も「美大、応援するよ」と言ってくれた。




 関谷さんに会えない時間は、長く感じられた。私も試験勉強で手一杯だったけれど。試験が終わるのを待っていたかのように、学校からの帰り道の途中で、関谷さんから電話があった。試験のおかげで考えずに済んでいた事が、頭の中で噴き出した。
 逢いたい。ただ、それだけ。
 恋しくてたまらなかった。
 携帯電話を握る手が震えた。「…もしもし、千鶴ちゃん?」と言われてはっとした。「はい」という声の震えが伝わらないように祈った。
「今、まだ学校なんだ。これから守屋さんの所へ行くつもりなんだけど…遅くならないようにするから、会えないかな」
「は、はい!」声がうわずった。ふ、と関谷さんが小さく笑ったのが判った。
 守屋さんの所……描けたんだ……
 私は母に電話をかけて、関谷さんと会う事を伝えた。これも父との約束で、出かける時はどこに誰と行くのか、連絡しておく事と決められていた。
「画廊ってどこ?…そう、遅くならないようにするのよ?」
「判ってる。ちゃんと帰るから」
 電話を切って、地下道を走った。守屋画廊に行くには違う路線に乗らなければならない。
 早く、その絵が見たい。
 一分一秒でも長く、関谷さんと居たい───
 その思いが私を急がせた。
 けれど守屋画廊に着くと、私はドアを開けるのを躊躇った。ウィンドウのガラスの向こうに関谷さんが守屋さんと向かい合ってソファに腰掛けているのが見えて、完成した絵を見ているのだと思ったら、緊張が一気に高まった。私はドアの前でしばらく、関谷さんの横顔を見ていた。ふと腕時計を見た彼がこちらを振り向いた。私を見つけて微笑む。動けなかった。関谷さんは首を傾げて、おいでおいでと手招きをした。守屋さんもこちらを見たので、もう逃げられないと思い、ドアを開けた。逃げたくなるような緊張感。
「こんにちは…」と挨拶する声が萎んだ。
「いらっしゃい、千鶴さん」
 守屋さんはにこやかに立ち上がり、私に関谷さんの隣に座るよう、手で示した。会釈して従った。テーブルの上に、その作品があった。守屋さんが見ていたからだろう、逆さまに置かれていて、守屋さんがその紙を返して私に向けた。
 それは柔らかに彩られた肖像画だった。
 写実的な、それでいて空想の女性のように見える絵。淡い色使いがふんわりとした印象。鉛筆画に水彩絵具やインクで彩色されてるのかな…?と考えた。
 白い花に頬を寄せ、微笑む。こちらを見る柔らかな眼差し。瞳には光が宿り、ふんわりと桃色の唇が笑みを浮かべていた。その端にほくろがあって、私だ、と思った。艶のある黒髪のほつれた一本一本まで丁寧に描かれていた。そよ風に吹かれているようにも見えた。
「タイトルはまだないんだ」と関谷さんが照れくさそうに鼻のあたまを掻いた。「千鶴ちゃんがつけてくれる?」
「ええっ!」
「僕はそういうセンスなくて」と笑った。
「えーと…いいんですか?そんな大役…」
「大役」と繰り返してまた笑った。
 この絵なら…頬に寄せたスノードロップが綺麗だった。顔は自分だと思うと恥ずかしかった。とても綺麗な絵だったから。
「じゃあ…『待雪草』で…」
「主役は千鶴ちゃんだよ?」
「それなら『待雪草と少女』っていうのはどうですか?」と守屋さん。
「うーん…」と関谷さんが少し考えて、「『待雪草の少女』がいいかな」
「『の』?」
「うん。『の』。この花が君みたいだから」
「……」
 顔がかあっと赤くなるのが判った。「ありがとうございます…」と言ったらクスッと笑って「こちらこそ」と言われた。




 『待雪草の少女』は関谷さんが持ち帰る事になった。「売り物ではありませんから」と彼は言った。「これは僕が持っていていい?」と訊かれた。欲しかった気もしたけれど、「はい」と答えた。
 これから≪睡≫にも行くという。私もついて行った。完成したら茜さんやマスターにも見せる事になっているらしい。
「それにね、改めて『午睡』をよく見たいから」
 どきっとした。───前世の記憶。全て思い出してから、夢に一志さんが現れる事がなくなっていた。勉強疲れで夢を見る事すらなかった。あるいは、覚えていなかった。
 今、ここに居る人。
 関谷和志という、今を生きている人。
 私のように過去には囚われないで欲しいと思った。
 苦しかったから───
 あなたは今を生きてください。新しい絵を描いてください。
 関谷さんの話を聞きながら、そう思った。今後はまた銅版画も手掛けながら、私を描きたいと言った。「またモデルを頼んでいい?」頷くと、彼は「ありがとう」と微笑んだ。
 ≪睡≫で、縁さんと語らう時間を過ごす関谷さんの隣で、私はまた『待雪草の少女』を見ていた。茜さんとマスターと一緒に見ながら、時たまチラリと横目で関谷さんを窺った。
 縁さんと何を話しているんだろう───
 関谷さんがカウンターに向き直ったので、私は慌てて見ないふりをした。今日は早い時間だから、水割りではなくコーヒーを飲む関谷さん。ひと口啜って、小さくため息を吐いた。
「…やっぱり、この絵には敵わないな」と苦笑して言った。
「一生、追いつけないかもしれない。関谷一志には。ああ、同じ名前だけど…」ふっと笑う。「目標と言うのは違うと思う。理想、かな?こんな風に、対話の出来る絵が描けたら幸せだろうね」
「和志君」と呼んで茜さんが微笑み、『待雪草の少女』の端に指先を置いた。
「もう描けているじゃない」
「……」
「この絵、今にも少女が飛び出して語りかけて来そうよ」
 関谷さんは黙り込んだ。茜さんが続ける。
「それは和志君が、この絵と話しながら描いたからだと思う。…違う?」
 違う?と訊ねられて、関谷さんは照れたように笑みを浮かべて「…そうだったかもしれない」と言った。
「絵を描く事は自分と対話するようなものだけど、肖像画は違うんだな、と思ってた。相手と向き合っている事は絵でも人でも同じなんだと」
「……」私は黙って聞いていた。
「叔父も同じだった筈よ」
「…同じ?」
「そう。語り合えるから、絵のモデルに彼女を選んだんだって」
 それは私の心を溶かす言葉だった。
 語り合えるから───
 わかり合えるから。心が通ったから。
 それは私の胸の奥で、ぽっと、灯のような花を一つ咲かせた。───あの感覚が蘇る。
 関谷さんはこの待雪草の少女に、どんな言葉を掛けていたのだろう───
 その答えを、関谷さんは口にしなかった。ただ、「うん」とだけ言った。




 夕暮れ時、≪睡≫を後にして、いつものように駅までの道をゆるゆると歩いていた。何気なく、神社の前で足が止まる。顔を見合わせてクスと笑い合った。
「日が長くなったね。こんな時間でもまだ明るい…」
 はいと頷きながら神社の奥へ進み、手を清めて、お参りをした。
 関谷さんが描いた私。それは、今を生きている私だ。苦しい記憶もいずれは癒されていくのだろうか。あの柔らかな色彩の中で。
 引き返しながら桜の枝を見上げる。蕾は膨らみ始め、枝は赤みを帯びて見えた。
 もうすぐ、桜は開くのだろう。
 この神社も、学校の庭の並木も、小椋さんの家の庭にも。
 『午睡』の記憶が優しかった事を思い出して、涙が滲んだ。
 一志さんの腕に抱かれて桜の木になった事も。
 和志さんへの思いに気付かせるように、心に咲いた桜も。
「千鶴ちゃん」と静かに呼ばれた。振り向くと関谷さんも桜の枝を見上げていた。
「ひとつ、思い出した事があるんだけど…」
 そう言ってこちらを振り向き、笑みを浮かべる関谷さんを見つめた。
「何ですか?」
「えっとね」
 関谷さんは少し言い淀んで、「ここ」と自分の唇の端を指差した。
「僕がつけた目印がついてる」
「…え?」
 何だろう、と手で唇をこすった。それを見た関谷さんは「あは、」と笑って、「こうやって」と顔を寄せた。
 一瞬、軽く唇が触れた。
 目の前に関谷さんの黒い瞳があった。笑顔の関谷さんは「あの時はしょっぱかったな」と言って、くるりと踵を返した。
 ───あの時?
「僕にも目印がついてるでしょ」
 そう言いながら、もう鳥居の方へ歩き出す。私は呆然と記憶を手繰った。少し離れて振り向いた関谷さんは「君がつけたの」と自分の左頬をちょんと差した。
 まさか───
 夢に見た寒いビルの屋上。あの時───互いに触れた唇。
「関谷さん、それは、その…どういう…」慌てて近寄ると「はは」と笑った。先に歩いてゆく───
「待ってください、置いてかないで…」
「うん」
 立ち止まって私が追いついたのを待って、微笑んだ。
「もう置いて行かない」
 やっと出逢えた───
 もう何ヶ月も前の事なのに、今初めて出会った気がした。
「…いつ、思い出したんですか」
「年が明けて、守屋さんに会って話を聞いた時」
 そんなに前から?
「…意地悪ですね」
「ははっ、ごめん。半信半疑だったから」
「…意地悪…」
 涙がぽろぽろとこぼれて、関谷さんの手がそっと頬の涙を拭った。
 もう置いて行かないで───
「絵の中の縁さんが全部話してくれたよ。夢の中でね」
 そう言って私の頭を自分の胸に引き寄せた。私は泣いた。これは夢じゃないんだ───その胸の暖かさに、私の中で、全身に枝を伸ばす桜の花が、次々と開いて満開になった。
 それは、春の訪れ。

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