鏡に映る私。
 顔にかかる長い前髪を手で掻き上げて押さえる。先刻のは貧血だろうか、額が青白い。
 本来耳のある位置から、うさぎの黒い耳がだらりと垂れ下がっている。
 これも勿論私がそう感じているというだけのことで、実際には鏡にも私の目にも、映っているのは人の耳をした私であり、誰の目から見てもそう映っている筈である。
 彼女が言うのは、私がラジオに犬の耳や尻尾を見るのと同じ『そう思う』ということだ。それなのに……

 ≪もし海音がうさぎになったら───≫

 私はぶるぶると頭を振って、その声を追い出した。冷たい水で手を洗い、濡れた手で髪を撫でる。
 うさぎの耳が消えた。
 ───大丈夫。うさぎになったりしない。
 深呼吸を一つして、化粧室を後にした。賑やかな居酒屋。ラジオ達がどこにいるのか判らなくなって、足を止めて壁に寄り掛かり、ぐるりと店内を見回した。薄暗い。梢子さんの赤い髪が見えて、私は席に戻った。ラジオが「大丈夫?」と声を掛けるのへ、小さく頷いた。見るとテーブルにはもう飲み物が運ばれて来ていたが、誰も手を付けていないようだった。
「ええと…」何から話そう。
「さっきのうさ耳はまだある?」
 苦笑しながら訊ねたのはラジオだった。梢子さんは黙って首を横に振った。私の正面に座る野宮君が真顔でこちらを見ていて、何となく俯きがちになってしまう。ラジオがソルティドッグ(飲み物も犬)のグラスを手にして縁の塩を軽く舐め、一口飲んで話し始めた。
「ミオさんにはこの前、人の発する波動の話をしたよね。…人に限らず、携帯やラジオの電波や光を例に挙げたけど、人はそれらを感覚器…神経で知覚する。例えば光を目で受け取って色や形を認識することを踏まえて、人の発した波動を目でも知覚しているとしたら」
 目でも、のところで彼が自分の大きな目の横に人差し指を添えた時、じゃがバターとイカ下足揚げが運ばれた。ラジオが黙り込む。野宮君が取り皿を分けて、私は「どうも」とお辞儀した。ラジオは煙草をくわえて火を点けた。食べないのか。
「感覚器が受け取った様々な情報は脳に蓄積されている情報、まあ記憶と言っちゃおうか、それと照合されて初めて認識に至る。よって」
 くすっと笑って煙草の灰を灰皿にトンと落とす。
「今ここに見えている景色がはたして皆にも同じように見えているのか、という疑問が生じる。梢子さん、これ何だ?」
 手にした煙草を立てて見せる。火の点いた方を上に向けて、煙突のように煙が真上に昇っていった。
「煙草」
「野宮君は?」
「煙草」
「ミオさんは」
「…煙草」
「うん。煙草です」
 何が言いたいのだろう。何となく判る気もするけど、判らない。ラジオは楽しげにくすくす笑って、「よーく見ててね」と煙草をくわえ、深く吸い込んだ。
 ───ふーっ、と吐き出す。ラジオが煙を指差した。
「さあ、この煙は何に見えるでしょう」
「ええっ、そんなこと急に言われても」と私。
「えーっと、幽霊!」と野宮君。
「………」絶句する梢子さん。
「ほらね、煙が違う形に見えているわけではないのに、煙そのものが『曖昧なものである』という認識ゆえに、皆が同じように認識できない。これを」
と、また煙草を吸って、口をすぼめて頬を指先で軽くとんとんと叩きながら煙を吐き出す。輪の形の煙が次々生まれて広がった。
「これは」
「わっか」
「わっかだよなあ」
「うん」
「煙です。さっきの煙とどこが違うの」
「だって、形…」
「だけど煙という本質は一緒だよ」
 野宮君と私は黙ってゆっくりと頷いた。梢子さんは目を見開いて、じっと動かずに聞いていた。ラジオがまた塩を舐めて一口飲む。喋って喉が渇くのだろう。
「形によって認識するか、煙という本質によって認識するか、それはもう個人の能力によって違いが出ると言わざるを得ない。その能力に個人差があるのはなぜなのかまで追求するとキリがないからやめるけど、つまり今僕らは同じ景色を見ているとは言い切れないわけだ。ここで話がミオさんのうさ耳に戻る」
「長い前フリだなー」私はかくんと肩を落とした。
「要するに、梢子さんの目には私にうさ耳が生えて見えても、認識の個人差ゆえに不思議はない、ということなんでしょ?」
「正解」ラジオがニコニコと音のない拍手をした。
「だけどそれだけじゃないんだ。さっきみんなはこれを見て『煙草』と言ったけど、煙草を知らない人にとっては『よくわからないモノ』となる。だけど煙草は煙草」
「世界観の違いだね。同じ景色に見えていながら、認識が違う」
「そう」と、野宮君の言葉にラジオはニコッと頷いた。
「煙草の煙のような曖昧に見えるもの、空気ように姿の見えないものもまた、この景色……『世界』を構成している。そして今こうして話す声のように、波動がそれらの物質にぶつかりながら伝わって、僕らは物質の色や形、ひいては『世界』を知ることが出来るわけだ」
 この景色、のところで彼は両手をホールドアップの形にして店内全体のことを示し、ボールの表面を撫でるようなしぐさで『世界』を表した。
「認識の個人差はある。だけど」とラジオは煙草の火を消した。
「……感覚器は知覚している。ただ、認識できないから気づくことがないだけで」
 ───判る気がする。
 気づかなくても人の発する波動は辺りに満ちている……のだろう。気づかないまま、それをどこかで感じて暮らしている私達。
 それに気づけば、世界はがらりと姿を変えるということだ。
「つまり、梢子さんは、…気を悪くしたらごめんなさい、その…、視覚が人より優れているというか、私には見えないものが見えたりする…ということかな」
 人と違う、と言われるのは辛いだろう。俯く梢子さんに、胸が痛んだ。
「……ミオさん今、『自分には』って言ったね」
 ラジオがようやく割箸を手にした。ぱちんと割って突出しの和え物をつまむ。
「だって…」ラ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。「…仁史君が、『認識の個人差がある』って言ったから。もしかしたら、私にだけ、見えていないものがあるかもしれないし」
 顔を上げた梢子さんに、ラジオはふふっと笑って「そういうこと」と言った。
 そうしてようやく梢子さんは話し始めた。時々野宮君がそれを補う。話によると───
 彼女の目には時たま、『何か』が映るのだという。はっきりと見えるのは稀で、普段は『何か』の気配をぼんやりと感じる程度。それがはっきりと見えるようになる時、どうやらそこにいる人の心が関係していると考えられる。梢子さん本人は、人の『記憶』だと思う、と言った。
 ───人の発する波動、か。
 ラジオはすっかり黙り込んで、二人の話を聞いていた。大きな目を彼らに向け、時折微笑み、ゆっくりとグラスを回して飲んで、煙草の煙に隠れるようにしていた。
 彼は箸を割る前に、まずは梢子さんの緊張や警戒心を解くことから始めようとしたのだ。それには先日の六角屋での話を視覚に置き換えて私に理解させ、梢子さんに『うさぎの耳』が見えたことを説明づけて私自身の心をほぐし、彼女の能力を自然なものとして受け入れられるようにする。少々まわりくどい話術は、その能力のことで彼女を傷つけないようにするためのものだったのだ。
 ……ただのお喋りってわけじゃないんだな。
「記憶がはっきりと見える人とは、波長が合うんだと思う」
と梢子さんが言った時、ラジオはふっと笑って目を伏せ、頷いた。
 ───波長……
 それが野宮君なのか、彼の言葉に促されて話していくうちに、梢子さんがリラックスしていくのが見て取れた。
「だから、ミオさんとも波長が合うのかもしれない」
「え?私と?」
「うん」梢子さんが頷いた。
 ───しずまれ心臓。
 私は笑ってみせた。うさぎの耳が出ないように。ガラスのぐい呑みを傾けて、冷酒で体をごまかした。
「空木秀二にもそうした何かが見えていたと空は言うし、彼の絵を見ると僕もそう思う」
 野宮君がグラスを静かに置いて、テーブルの上で腕を組んだ。
「おそらく彼には空よりも、様々な『何か』が見えていて…、それを伝えようと絵に起こしていたんじゃないかと」
「うん」
 ラジオがようやく口を開いて、私は隣に座る彼を振り返った。彼は遠くを見るような目をして、掠れた声で言った。
「生きてるうちに会いたかった」
「…うん」
 彼らは、空木秀二の絵に、空木秀二という人を見ている。
「…会えるんでしょう?空木秀二の絵を見れば」
 私が言うと、彼らは目を見張って私を見た。驚いているらしかった。
「…え?だって、みんなそういう話をしてたんじゃないの?」
「………ミオさあん」
 ラジオがニコッとして犬耳をぴんと立て、尻尾をばふばふ振って、私の肩に寄り掛かるように頭を傾けた。私は「ええい鬱陶しい」とその頭を手で押し戻した。梢子さんがにっこりと笑顔になった、野宮君もラジオもそれが嬉しい、その気持ち……その波動が伝わってきていた。
 居酒屋を出て、同じ地下鉄で帰る梢子さんと野宮君の二人と別れた後、JRの切符売り場に向かって歩きながら、「ラジ」と呼びかけた。
「…結構、役者なのね」
「何が?」
「ひとピーなんて言ってボケたり甘えっ子のふりしたり。さっきの話をよく考えてみたら、ラジオも『波動』に人一倍敏感だってことじゃない。梢子さんに何か見えるように……」
 私は足を止めてラジオの顔を見上げた。
「何か……判るんじゃないの」
「やだなあ」ラジオはくすっと笑った。
「ひとピーはほんの思いつきだよ。我ながらツボにはまってしまったけど」
「ポイントはそこか!」
 あはは、とラジオは体を傾けて笑った。
「言ったでしょう、認識の個人差だって。僕に判ることはミオさんにだって判るんだよ」
「判ったよ?ラジが甘えたふりして私につっこまれて梢子さんを笑わせようとしてたの」
「ふふん」と彼は笑った。
 ───今だってすっとぼけてるくせに。
「見事なつっこみ、ありがとうございました」
 二人で深々とお辞儀。
「じゃ、僕あっちだから」
と、彼はもと来た方の地下道を指差した。「えっ、どこに住んでるの」と聞くと、野宮君達と同じ地下鉄から乗り換えた所だと答えた。
「あれ以上邪魔しちゃ悪かったし」
「…二人、知らないの、ラジも同じ電車だったって」
「うん」
 この人は何と言うかまあ………
 損な性分なのだ。人の心が判りすぎて、自分を判ってもらいそびれている。
「でもね、僕は嘘はつかないよ」
「………?」
「それじゃ、また。…六角屋で」
 にっこりと目を細めて手を振りながら、早足で歩き出す。鞄から折り畳みの小型ヘッドフォンを取り出して耳にあてていた。グリーンのチェックのシャツジャケットのポケットに両手を突っ込んだ後ろ姿を見て、彼が傘を持っていないのに気づいた。追いかけようとして、何かが腰にぶつかった。……私のバッグにいつのまにか傘の柄を引っかけて残していったのだった。
 本当に、何と言うかまあ………
「アホやな」
 思わずぼそりと呟いた。