ラジオはカウンターに背を向けて座っていた。
 カウンターの上には私のパソコンがあった。その横の灰皿の煙草から、紫煙がゆるやかに昇っている。声を掛けると彼は振り向いて微笑んだ。
「…大丈夫?」
「うん。ミオさんは?…鞄、勝手に開けてごめんね。びしょぬれだったから」
 パソコンが壊れないよう気を遣ってくれたのだ。私は「ううん」と答えて彼に近づいた。
「さっきは…どうしたの?」
「うん」
 くすっと笑うだけで答えない。見ると彼はギターを手にしていた。
「それ、どうしたの?」
「僕のだよ。持って来た。昨日、約束したでしょう」
 そう言うとラジオは楽しそうな笑みを浮かべて弾き始めた。ゆっくりと、静かに。
 心地よい音だった。やわらかく湿った、あたたかみのある音。
 ラジオがフンフンと歌い始めた。小さく頷くように頭を揺らし、微笑みながら、気持ちよさそうに歌う。遠山さんが「よく歌うからラジオ」と言ったのを思い出した。
「…この曲、なあに」
「昨日の」
 フンフンと歌う合間に答える。……それで約束したからと言ったのか、と私は頷いた。
「歌詞は?」
「ない」
 ふっと苦笑してまたフンフンと続きを歌う。……もしかして、
「ラジが作った曲?」
 フンフンと歌いながら頷く。歌はサビに入ったらしく、ラジオは顔とフンフンの音を上げた。フンフンからラララになったかと思ったら、彼は最後に歌詞をつけて歌った。
「どこにも行かないことにしよう」

 ≪雷が鳴ったら、どこにも行かないことにしよう≫

 ギターの音がふいに止んだ。彼が隣の椅子にギターを立てかけるコトンという小さな音がして、……何も聞こえなくなった。
 しじま。
 ラジオは溜息を吐いて横向きにカウンターに凭れ、頭を倒した。カウンターに頬をつけ、フィルターだけ残して燃え尽きた煙草を指先で突っつくと、ふっと微笑んだ。
「そんなふうに泣かないでよ」
 ───泣いていない。
「なるべく聞かないように気をつけているんだけど、ごめんね、聞こえちゃった。あれ以上はミオさんのプライバシーを侵すことになってしまうから耳を塞ごうとしてたんだけど……あんまり強い波動を受けてしまうと、制御しきれなくて」
 彼は、ふう、と大きく息を吐いた。……苦しそうだ。
「ラジ?」
「ほらまた」と彼は微笑みながら、目を閉じた。
「遠山さんから聞いた。パソコが『木霊』を見て来たって言って泣いたって。今もそう……人が苦しそうにしているのを見ると泣くくせに、自分の悲しみに心が泣いているのに気がつかない。そんなふうに泣かないでよ」
 閉じていた瞼をゆっくり開く。彼の大きな黒い目から、涙がぽろっと横にこぼれ落ちた。
「どうしてラジが泣くの…?」
「ミオさんが泣いてるからだよ」
 ───私が?
 けれど泣いているのは彼の方だった。目を瞬くと、涙がぽろりぽろりと落ちる。
 梢子さんの話を聞いた時から判っていたけれど、こんなふうになるとは思わなかった。
 彼は『波動』に敏感過ぎて───先刻苦しげになったのは、私の波動を受けたからだったのだ。今だって私の不安を感じ取っているからか、体を起こせないのだろう。
 ……私のせいだ。
「…こんなふうに、人の精神が発する波動を目に見える形…耳に聞こえる音…にするから、僕はラジオ」
 彼は無表情にそう言って、カウンターに頬をつけた姿勢のまま、手を伸ばして私の髪に触った。泣きながらくすっと笑う。
「うさ耳になってる」
「えっ」
「見えないけど判るよ」

 ≪もし海音がうさぎになったら≫

「もし海音がうさぎになったら」
 ラジオは私の髪に触れていた手を頭の後ろに回して引き寄せた。私はカウンターに額をつけて泣きそうな目を隠した。うさぎの耳……髪が彼の頬に触れるのが判った。耳もとで彼の唇が動いた。掠れた声。
「おいで」
 そうして私達はしばらくカウンターに伏せた姿勢のまま、こめかみと額をくっつけ合ってじっとしていた。ぽろぽろと泣いて、くすくすと笑って話し───互いの波長がゆるやかになるまで。
 それは不思議な感覚だった。
 それまで束縛されていた感情が解放され、自分の中から溢れ出して体を包み込み、ふわりと浮かび上がるような……
 互いの波動で揺らし合い、少しずつ、ゆったりとした気持ちになっていくのが判った。
 もしも空木秀二がここにいたら、彼は何を見るだろう。
 私達の背中に、『北天』があった。




 いつまでたっても遠山さんが降りて来ないので、表に出た。激しかった雨も止んで、ひんやりした風が吹いていた。森宮さんの花屋は暗くなっていたが居間の明かりが点いているのが見えて、戸に手を掛けるとスッと開いた。ラジオが店に入って声を掛けると、森宮さんがニコニコと居間へのガラス戸を開けた。その向こうで、遠山さんがこちらに背中を向けて寝転がっている。
「遠山君、寝ちゃったから」
「そうですか」
 私は「若葉さんによろしくお伝えください」と小声で言って、森宮さん宅を後にした。駅に向かって坂を上りながら、ラジオが「ハローハロー、たぬきさん」と歌う。
「遠山さんってルックスはきつねみたいに鋭いけど、腹ん中はたぬきだよね」
「言えてる」
 ……遠山さん、たぬき寝入りだったらしい。ラジオには判るのだ。
 人の心が。
 だけど。
 部屋に戻って、私はパソコンを起動した。お湯を沸かしてコーヒーを入れる。遠山さんのようにはいれられないけど。インスタントコーヒーしかないけど。

 ≪……どこにも行かないことにしよう≫

 ラジオの歌声が耳に残っていた。
 あの時、思い出していた声を───歌にして語ったラジオ。
 人の心を語って……けれど誰が、彼の心を語るのだろう。
 私はキーを叩いた。

 霧雨。
 音もなく吸い付いてくる無数の細かな雨粒が私の髪や頬で集まって、水になる。
 水を纏って歩く私を、緑の匂いが振り返っていった。風。夏の始まりはいつも、擦れ違いざまに鮮やかな印象を残してゆく。空から落ちて来た雨は風に舞い上がり、戸惑ってまた落ちた。頬を水が伝い流れた。
 靖国通りから折れて坂道を上ってゆく。向こうに見える緑。学生達の集まる領域はその先で、ここにはまだひとけがない。駅への近道を選んだつもりだったが、それともどこかで雨宿りでもしようかと考えた。道の先に看板はないかと見遣った時、誰かが後ろから私をスッと追い越していった。

 オレンジのコートを翻して鮮やかに目の前に現れたラジオ。
 コーヒーのようにあたたかな手をした遠山さん。
 潰れたトマトの痛みを隠して笑う伊野さん。
 澄んだ眼差しで見えないものを見ている梢子さんと、彼女を見守る野宮君。
 まあるい笑みの森宮さんときびきびした娘の若葉ちゃん。
 そこに───
 空木秀二という画家がいる。
 彼の見つめていた空と大地は人の住処であり、揺れ動き続ける炎は人だ。
 人を見つめ人を描いた空木秀二。




 私はその人の姿を描こうと決めた。




 それは淡いオレンジの影だった。雨に際立った柑橘の香りを残して、風のように私の横をすり抜けて走ってゆく───オレンジのフーデッドコートから伸びるジーンズの細い脚。子供のように軽やかに駆けてゆくコートの背中が、向こうの緑に映えて鮮やかだった。 
 まるで、ルビーグレープフルーツ。