梢子さんの部屋を訪ねる土曜日、乗り継ぎの駅でラジオと待ち合わせた。少し早めに行って、お土産にチョコレートの詰め合わせを買った。駅の地下街の大きなテレビスクリーンの前は待ち合わせの人で賑わっている。私は彼がまだ来ていないことを確かめて、通路の壁際に立った。腕時計を見る。約束の三分前。あっちから来るかな、と地下鉄の乗り場へ続く通路の方に目を遣った。
 約束の時間を過ぎても、ラジオはなかなか現れなかった。この人混みで見過ごしていないかと見回す。二十分が過ぎた。通路を端から端まで歩いて探す。………三十分が過ぎた。
 賑やかな笑い声を残して、誰かが目の前を通り過ぎてゆく。
 その向こうに───彼が歩いて来るのが見えた。
 デニムシャツのインディゴブルーとTシャツの黄色との、鮮やかな対比。俯いた頭にベージュの帽子を被り、顔がよく見えない。
 ラジオは顔を上げて、私を見つけると足を止めた。深く被った帽子のつばから覗く大きな黒い目の中で光が揺れて見え、私はじっと目を凝らして彼を見つめ返した。何か言いたげに薄く開いた唇をきゅっと噛み、早足で近づいて来た彼はいきなり手を伸ばして私の肩を抱き寄せた。肩をぎゅっと掴んで、腕で背を押すようにして歩き出す。
「ラジ?」
 歩調が速い。足がもつれて転びそうになった。とっさに彼のはおるシャツを掴んだ。歩いているのに、ぶら下がっているような感じ。横目で見上げると、彼は正面をまっすぐに見ていた。何を見ているのだろう、と視線を前方に戻す。地上への階段だった。
 階段を上って駅前広場の横断歩道を渡り、大通りの脇道に入る。
「ねえ、どうしたの?」
「………」
「どこへ行くの?」
「………」
 歓楽街に並ぶ居酒屋はまだどこも閉まっており、通りを往く人は皆急ぎ足で、所々のゲームセンターの音ばかりがやけに耳につく。ラジオは何も答えなかった。道端に落ちている紙屑や空いたペットボトル。日差しが明るい真昼だというのに、通りは暗く感じられた。
 やがて歓楽街を抜けると、道を挟んだ向こうに公園があった。そこから先は整備の進んだ区画で、周囲に見える飲食街のビルやホテルと、通りの上の高速道路が落とす暗い影の中に公園の緑が浮かび上がって見えていた。信号は赤だ。ようやく足を止めたラジオは私の肩を掴んだまま、軽く俯くと目を閉じた。
 ───肩の上の彼の手が、震えているのに気がついた。緊張を解すように、私も俯いて目を閉じる。
 耳元にラジオの肩があった。気配を探る。通りを行き交う車の音。私達の後ろを通り過ぎる人の足音。それらに紛れて、音もなく彼が溜息を吐いたのが判った。車が止まった。目を開ける。ふいに背中に当たる腕が私を押して、信号が青に変わった。
 小さな公園だ。木々の向こうに少し離れて、小学校の校舎と体育館の屋根が見える。ブランコと砂場とジャングルジムの間を突っ切って、隅にあるベンチに向かった。彼はベンチの端に私を座らせると少し離れて隣に腰を下ろし、黙って帽子を取って体を倒し横になって、私の膝に頭を載せた。
「ちょっと、何すんのよ!」
 いきなりの膝枕にびっくりして彼の肩をぺしゃんと叩いた。
「だってこうしないと落ちちゃうんだもの」
「突き落としたろか!」
「やだ」
 その声がかぼそかったので、私は何も言えなくなってしまった。
 ───まだ、蝉が鳴いている………
 夜には冷たい風と虫の鳴き声に秋の訪れを感じるというのに。今も木陰に入っただけで、空気が腕に冷たい。───ここは、季節の狭間。
 季節の狭間という不安定な場所の静けさの中で、ラジオは目を閉じている。右頬のほくろがこちらを向いていた。
「……具合悪いの?」
「少しくたびれた」
 彼がこんなふうに体を震わせて………だるそうにするのを見るのは二度目だった。私は、何かあったのだと確信して、彼の肩に手を置いた。
「遅刻」
「…ああ、ごめんなさい」
「どうしたの?」
「うん」
と言って深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。苦しいのだなと思うと、彼の肩に置いた手が震えそうで、そっと手を離した。
「早めに部屋を出てギターの弦を買いに行ったんだ。まだちょっと時間があったから、CDも見に行って。探していたアルバムを輸入盤で見つけて、どうしようかなあ、なんて悩んでたんだけど」
 くすっと笑った。けれど、声に力がない。
「…そこで財布を落としたことに気がついた。デパートでね、楽器売場は近かった。すぐに引き返して訊ねたら知らないって言われた。レジで落としたんじゃなかったみたいで、ああもう時間がないって思いながら、インフォメーションの方へ行ってみた。財布は見つかったんだけど、お金は抜き取られてた」
「……うん」
「いいんだ、もう。学生証も無事だったし。…ただ、」
 ラジオは頭を動かして、膝に顔をくっつけるようにした。
「そこに迷子の男の子がいたんだ」
「迷子?」
「うん。係の人に何を訊かれても答えないで、じーっと俯いて……」
 彼の声が掠れた。
「それがとても痛かったんだ」
「うん」
 何と間の抜けた返事だろう。けれど、私には何を言って良いのか判らない。
 私は膝の上の彼の柔らかい髪を指先で梳いた。髪に隠れていた耳がそこにあった。
「とても気になって、僕はその子の周波に僕の意識を合わせた」
「周波?」
「例えだけど。人の発する波動に意識を集中させること」
 意識を集中させる。それはあらためて訊くまでもなく、誰もがやっていることだ。
 気にかかるものに強く意識を向ける。試験前の一夜漬け、成功させたい仕事、面白いテレビや本。
 今こうしている間にも、この空間にはテレビやラジオ、電話の電波が無数に飛び交っている。それと同じように、人の発した無数の波動が私達を取り巻いている───彼は、それを敏感に感じ取っている。そして……時に、聞こえない声を聞くことがある。
 心の発する声を。
 それが、ラジオの耳だ。
「いつもはね、誰とも周波を合わせないようにしてるんだ」
「そんなことが出来るの?」
「練習したんだよ」
 くすっと笑って、彼は寝返って仰向いた。瞼を開いた黒い瞳に覗き込む私の顔が映っている。その私の周りを、小さな光がくるっと一周した。私は顔を上げて周囲を見回し、光源を探した。……風に梢が揺れていた。木漏れ日が、水を撒くようにきらきらと舞っていた。
 ラジオはまた瞼を閉じた。
「その子はね……叱られる時にいつも『そんな子はもう要らない』って言われていたんだ。……ううん、それだけじゃなくて、もっと……」
 彼は苦痛に耐えるように眉を寄せ、その先の痛い言葉を呑み込んだ。胸を上下させて深く呼吸をして、話を続けた。
「迷子になった時にもお母さんの言うこと聞かなくて、勝手に売場をうろついてたっていう罪悪感があったんだね。……自分は捨てられたんだと思ってた。まだとても小さかったから……。まだ小さいのにその子は誰も信じられなくて、おとながみんな怖くって、名前を言うことも泣くことも出来なかったんだ。ミオさんが待っているのは判っていたけど……僕はどうしても、その子のそばを離れられなかった」
「うん」
「信じてほしかったんだ」
「うん」
 私は頷いて、彼のつむじの辺りを撫でた。すると彼の閉じた目の端から、涙がひとすじ、すうっと横に流れて耳へと落ちた。

 ≪どうしてラジが泣くの?≫
 ≪ミオさんが泣いてるからだよ≫

 そんなことを思い出した。
 ラジオの目からこぼれた迷子の涙。膝があたたかかった。
「……だからね、名前教えてくれて嬉しかったよ」
 それで、母親が現れるまで迷子についていたのだという。
 ───信じてほしかったから。
 胸を痛め、涙を流す。迷子の心を伝えるように。
 まるで───自分が迷子になってしまったみたいに。
 髪を撫でると、ふっと笑みがこぼれた。
「バカね」
 彼は目を開け、私を見るとにっこりした。
「この状況でそんなこと言われたらくらっとしちゃう」
「…はあ?」
「ふふっ」と今度は逆に寝返りを打って頬を膝につけ、私の腰に手を回した。
「柔らかくて気持ちいいんだもん。ミオさんて思ったより脚太いね」
「大きなお世話だー!」
 思いっきりベンチから突き落としてやった。受け身を取ったラジオは「イテェ」と苦笑して、地面に寝たまま私を見た。
 その顔が………わかっているけど。
「い…いくら何でも、していいことと悪いことがあるわよ!一体どういうつもり……」

 ≪───海音≫

「……帰る」
 ようやくそれだけ言って公園を飛び出した。赤信号に、立ち止まらずに通り沿いを走る。
 涙が出そう───
 眉を下げて寂しげに笑うラジオの顔が目に焼き付いていた。




 駅前通りからタクシーを拾って部屋に戻り、バッグをパソコンの前の椅子に置いたところで、梢子さんとの約束を思い出した。
 行けなくなったこと、連絡しなくちゃ……
 カタログもチョコレートも、……伊野さんに借りた写真のファイルまで、ラジオと一緒に放り出して来てしまった。ラジが拾っておいてくれればいいけど、と思いながら手帳を取り出し、梢子さんの部屋に電話をかけた。彼女は「……はい」と緊張気味の声で出た。
「石崎です。…あの、今日…」と言いかけたのを遮って「ミオさん?」と聞き返す声が慌てていて、どきっとした。
「たった今、病院から電話があって」
 病院?
「逢坂さんが運び込まれたって連絡があって、今、山崎君が行きました」
 ───え?
 意味が判らない。
「あ、えーと……どこの病院」
 病院の名を教えてもらって復唱し「行ってみる」と電話を切った。───判らないけどどうでもいい、行けば判る。………そうだった、ラジオは具合が悪かったんだ。それなのに放り出して帰ってしまった。病院に運ばれるなんて、そんなに悪かったなんて───
 タクシーで病院に着くまでの間、震えが止まらなかった。