昭和の香りを残す商店街を抜けて古い街道から脇道に入る。ラジオの実家は乗り換えの駅から一駅だと聞いて、結局ここまでついてきた。電車の中では寝られなかったのが何となくわかったからだ。曲がりくねった道は暗く、民家の間にところどころ畑が残っており、彼は「田舎でしょう」と苦笑した。十五分ほど歩くと道の左右に建て売り住宅が並び、いかにもここ三十年くらいの新興住宅地といった雰囲気だ。どの家かしらと見回しながら歩いていたら通り過ぎた。「あれだよ」と畑の向こうを指差す。
 白い塀の向こうから、大きな桜の木が通りにまで枝を伸ばしているのが目を引いた。塀に沿って歩きながら窺おうとするが、庭木に遮られて中の建物は見えない。その先の引き戸の門をガラリと開けてラジオが先に中に入った。私は「格子戸をくぐり抜け」などという古い歌を思い出しつつ、後に続いた。
 ───塀の長さから想像はしていたけど。遠くから見てわかっていたけど。
 広い。平屋の古い日本家屋だ。門からすぐの玄関も格子の引き戸で、その戸を開けてまず三和土の広さに驚いた。隅に自転車が一台置いてあるが邪魔に感じないくらいだ。戸の正面は壁で、左手に廊下の角。スニーカーを脱ぎながら「ただいま」と言うラジオの声が細い。
「……じゃ、私はこれで」
「あがってってよミオさん。……ていうか」
と彼は壁に手を突いてうなだれ、ふうっと息を吐いて顔を上げた。
「この辺危ないから。後で駅まで送ってくからその前にちょっと休ませて」
「ここまで送った意味がないじゃない!」
 トトトと廊下に軽い足音を響かせて、犬が一匹、ひょっこりと顔を出した。茶色がかった白くて長い毛並みの大型犬。彼は「ただいまアルバート」と犬の頭を撫で、廊下に膝を突いて犬の額に自分の額をくっつけた。くしゃくしゃの顔で笑う。
 二匹の犬がじゃれあう図。
「あがって」と促されて靴を脱いだ。先に奧へと進むラジオの足元を、犬がまつわりつく。L字の廊下の角を曲がると、廊下の長さにまた驚いた。右に襖を開け放した客間と居間らしき座敷が続く。廊下の左側はガラス戸で、客間や居間から庭が見える。その先に進むと左に磨りガラスの戸があり、庭に煙突が見えるところから風呂場と思われた。その向かいの台所に彼が「ただいま」と声を掛けた。
「おかえり。もう良くなった?……あらあらまあまあ」
 ラジオのお母さんだった。小柄で、やはり童顔だ。目尻に皺をいっぱい作ってにこにこと笑い、歌うように話す。……あまりにもそっくりで、驚きを通り越した。
「はじめまして、石崎海音です」
「送ってもらった」
「あらまあ。女の子に送ってもらうなんて格好悪いわね、ひーくん」
 ………ひーくん?
 ふきだしそうになるのをぐっとこらえ、手で口を押さえて俯いた。ラジオは「お客さんの前でその呼び方はやめて…」と冷蔵庫に寄り掛かった。
「ミオさんもそんなに笑わないでよ」
「だってまーくんのこと笑っておいて自分はひー……、ひ……ふっ」
「そんなラマーズ呼吸法みたいな笑い方しないでよ」
 溜息混じりに笑って、彼はやかんに水を注いで火に掛けた。台所のガラス戸を開けて隣の居間へ行くとごろりと横になった。
「仁史、何やってるの。お客さんほっぽりだして」
「いえ、私はこれで失礼します。……仁史君、具合悪いので寝かせてあげてください」
と小声で言うと、お母さんは「いいえぇ」と振り向いて、
「わざわざこんな所まで送っていただいて。ゆっくりしてってね。何もないけど。お茶いれるから座って。お寿司でも取りましょうか。そうねそうしましょうね。食べてってね」
 お母さんは歌のような調子をつけて喋る間にも台所を忙しなく動き回り、湯呑みやお菓子を出してお茶をいれ、「はい」とお盆を私に差し出した。
 ───これは帰れないだろう。
 思わぬ攻撃に白旗をあげてお盆を受け取り、居間に移動した。菓子器のサブレがハニワの形をしているのが脱力感を促進する。居間の座卓にお盆を置いてその脇に正座すると、先刻の犬がぐるりと座卓の周りを一周して、寝そべるラジオのお腹にのしかかった。
「重いよアルバート。……なあに。……ん?ふふっ、違うよ」
 頭を起こしてアルバートの顔を見ながらそう言ってラジオはくすくすと笑った。
「ミオさんは人間だから、うちじゃ飼えないんだよ」
「飼うって何!」
 台所で聞いていたお母さんが「ふふふ」と笛の音のように笑って、
「また仁史はそんなこと言って。ミオさん困ってるじゃない。アルバートはそんなこと言わないわよ」
「だって新しい生き物が来たと思ってやきもちやいてるんだもの」
 そりゃあんまりだよアルバート。
「それでさっきから、仁史から離れないの?」
 彼は「うん」と、お腹の上のアルバートを抱えるようにして頭を撫でた。お母さんは棚の抽斗を探りながら「しばらく、って何日くらいいるの?」と訊ねて、寿司屋の品書きを取り出した。
「うん……」
「帰って来なさいよ」
「………」
 天井を見つめるラジオの顔から笑みがすうっと消えた。お母さんの声にも溜息が混じる。
「この前のこともあるし。ああそうそう、ミオさんにはお世話になって。ありがとうございます」
「いえ」と頭を下げた。
 ラジオは目を伏せて、ゆっくりとアルバートの背中を撫でている。私は所在なく辺りを見回した。古い茶箪笥、大きなテレビ。隅に置かれた籐カゴには、毛糸の玉と編みかけのセーター。柱も壁も古びた色をして、襖紙だけが新しい。隣の客間は広々として、床の間に活けた秋の花がひっそりと優しい色を添えていた。
 懐かしい風景だった。
 こんな広くて古い家に住んだことはないけれど、懐かしく───ほっと和ませる。庭に目を移せば、大きく枝を広げた桜や思い思いに伸びた草の呼吸が、庭の空気を清浄にしている。野趣溢れる庭は茶道の精神を思い起こさせた。
 座敷や茶箪笥に茶道具が見当たらない。知らず細い溜息が出た。帰ったら久しぶりにお茶を点てようかな、お作法を忘れてしまいそう………と、ぼんやり思った。
「アルバート」
 ふいに掠れた小声でラジオが呼んで、両手を離した。
「ミオさんのとこに行っておいで」
 アルバートが胸から降りると、彼は体をこちらに向けて微笑した。アルバートは言われた通り私に近づき、鼻をスカートから腕、頬とくっつけて匂いを嗅いだ。触れてくるふわふわの毛がくすぐったい。こんなに大きな犬に触る(触られる)のは初めてのことで、私は肩を竦めてじっとしていた。アルバートはふんふんと鼻を鳴らして私の検分を終えたのか、膝に載せていた前足を下ろした。私に体をこすりつけて歩いて背中の後ろに回り、伏せの姿勢になったかと思うとごろっと横に寝た。前足と後ろ足で私を抱え込むようにしている。
「……これは?」
「ミオさんが気に入ったんじゃない?」
「足が崩せなくなってしまった」
「ふふっ」
「あったかくて気持ちいい」
 くすっと笑って頭を撫でると、アルバートはきゅうっと目を細めた。




 逢坂家を辞したのは八時過ぎだった。ラジオの顔色も戻って安心もしたし、この時間なら一人でも大丈夫と思ったのだが、彼はアルバートを連れて一緒に家を出た。
 格幅が良く口調が理知的で頼もしい雰囲気の父親と、陽気で可愛らしい母親と、むくむくした老犬。ラジオの家庭は明るく穏やかで、あの家のように懐かしい空気に満ちていた。

 ≪螺旋と走る少女が示すのは時間の流れで≫

 ───もう戻らない懐かしい日々。
 もしもあの左回りの螺旋階段が目の前に伸びたなら………そこには───
 父の着物の匂いが好きだった。指先を揃えて、流れるように手を動かし、茶を点てる。
 母は家に花を絶やしたことがなかった。家にはいつも季節の香りが漂っていた。
 お茶の生徒さんたちが出入りしいつも賑やかで、子供だった私は稽古の後の明るいお喋りに加わるのが好きだった。
 畑が広がる暗い夜道の向こうで、巨大な螺旋が音もなく回り出す。

 ≪───けれどそれだけじゃないんだ。時を遡る───記憶を辿る、それは再び時を今に戻して繰り返される。はじめに戻る。僕らは時を遡って『現在』に帰って来るんだ≫

 ラジオの手がすっと伸びてきて、私の肩を引き寄せた───背中に両腕を回してぎゅっと抱きしめられた。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
「や……何するの、やめてよ……」
「アルバートの真似」
 ───え?
「アルバートはミオさんがうさぎだってわかったんだよ」

 ≪海音がうさぎになったらおいで。抱いてあげる≫

 涙がぼろっと溢れた。東さん───
 アルバートが小さくクーンと鳴いて、彼は「うん」と返事をした。ゆっくりと腕を解くと俯いて深い溜息を吐き、「ごめんなさい」と言った。
「……聞こえた?」
「うん」
 電車の中でも、今も───私は東さんを呼んでしまった。
 もうどこにもいないのに。
 困った時、苦しい時、寂しい時、神様のように呼んでしまう名前。
 おとうさん。おかあさん。───あずまさん。
 両手で顔を覆った。

 ≪───少女は時を遡って駆けてゆく、何度も何度も繰り返し。そうして僕らはあの少女と共に階段を駆ける≫

 脚にふわふわとアルバートの毛が触れた。そして私は、先刻のラジオの胸がとてもあたたかかったことに気がついた。





2001.2.22