≪海音≫
うみおと、と彼は言ったのだった。渡した名刺をじいっと見る。
ミオです
≪石崎さんね≫
東祐朗は愛想なく私の名刺をシャツの胸ポケットに入れた。流れのすっと整った形の良い眉と険しさを感じさせる目。俯いた額に掛かる前髪が神経質そう。それが第一印象だった。
入社して初めて私が一人で担当することになったページの撮影現場に現れたのは、こちらも我が社の仕事は初めてという若手カメラマンだった。前髪の影から鋭い視線を投げてくる。
撮影が進むにつれて、彼はこちらが伝えた意向とは違う指示をモデルに出し始めた。
東さん、商品とイメージが違います
≪着るのは人だろ。人が服に合わせるのかよ≫
商品イメージは社のイメージです。それをお客様が選ぶかどうかです
≪イメージを伝えるのは写真だろ。良い物を撮ろうと思うのは当たり前だろ≫
クライアントの意向に添って良い物を撮るのがプロじゃないんですか
彼はチッと舌打ちして私を睨み付けた。
≪生意気だな!≫
ドアを開けると「おかえり」の優しい声。思わずふにゃあと力が抜けた。コートを脱いで入口の脇に掛けた。
「おなか空いたあ。ごはんごはん」
「まだ食べてなかったの?」
カウンターの向こうで菜摘姉ちゃんが冷蔵庫を開ける。姉ちゃんと言っても姉ではなく従姉だ。カウンターの足元にバッグを置いてスツールに腰を下ろすと、姉ちゃんは突き出しの小鉢を私の前に置いた。
「こんな時間までごくろうさま」
「うん。…あ、嬉しい。切り干し大根食べたかったの」
「焼きおにぎりでいい?」
「うん。お味噌汁も」
私の背後から「ママ、こっちも焼きおにぎりちょうだい」と声を掛けたのはたまに会うこの店の常連さんで、五軒先の電機店の主。一緒に居るのも近隣の店のご主人やおかみさんだ。こんばんはと挨拶を交わす。スナック『菜のはな』のママ、菜摘姉ちゃんは商店街のアイドルなのであった。
「パパは?」
「仕事してると思うけど。してくれないと困るわ」
パパとは姉ちゃんの旦那様で、小説家だ。名前を言っても「知らない」と言う人が殆どだが。
菜のはなは六角屋よりも更に狭く、気取りのない家庭的な雰囲気だ。時々はパパも(煮詰まった時なのか)顔を出してラーメンなんか作ってくれる。二人には四歳になった息子がいて、店を切り盛りする姉ちゃんに代わってパパが主夫業をしている。今日の撮影とはまた違う、アットホーム。自分の家みたいにくつろげる。
姉ちゃんはきゅっきゅっとおにぎりを握りながら、
「どうだったの?新しい仕事」
「うん、伊野さんのおかげでいい感じに写真が撮れたと思う。これからだよ、厳しいのは」
「伊野さん元気?たまには顔出してって言ってよ」
「ん、言っとく…」
知らず溜息が出た。
───新しい仕事のせいかな。
東さんと出逢った頃のことばかり思い出す………
「…今度のいいよ。ガツーンとタフな遊び着。太一に買ってあげるから、気に入ったらパパママの分買って」
「カタログ見てからねえ?」
やだなあ、もう、と笑った。
≪石崎さんってあれに似てる≫
あれって?
≪いっつもむっつりして口尖らせてるからさあ≫
それはあなたがいつも睨み付けるからだ、と思った。
≪口がバッテンのうさこちゃん≫
最初に会った時からやりにくかった。生意気と言われて、仕事に感情的な評価を下すなとやり返した後はもう散々だった。お互いに口を利かないのが一番と考えていて、必要以外には一言も喋らないことがしばらく続いた。
うさこちゃんと言われたのは出来上がった印刷直前のページを見せた時だった。それを見た東さんは、うん、と微笑んだ。初めて見る笑顔につられて私も笑った。───初めて見た、と言われた。
「遅いから泊まってけばいいのに」
「いいよ、パパ仕事中でしょ?」
「危ないわよ」
「大丈夫。タクシーで帰るから」
菜摘姉ちゃんは店の外まで見送ってくれた。
「お正月楽しみにしてるから。歌うよーカラオケ」
「うん。また顔出しなさいよ。お正月じゃなくて今年のうちに」
「来れたらね。…じゃおやすみ」
駅前通りはシャッターを降ろし明かりを消した店が並び、寒々とした外灯の白い光がぽつんぽつんと道を照らしていた。早足で駅へと向かう。私の息がふわふわと流れるのが時折光る。途中で振り返ると、菜摘姉ちゃんはまだ私を見ていて、少し淋しくなった。遠くからでもよく見えるように力一杯笑って、大きく手を振った。
≪ひとりで生きようと思うんなら形振りかまえよ≫
両親が亡くなってからはパパと菜摘姉ちゃんが何かと世話を焼いてくれたが、一緒に暮らそうという話は断った。両親が健在だろうといずれは自立しなければならないし、急にその時が来たというだけのことだと考えた。
───ひとりで生きられるようにならなくちゃ。経済的にも精神的にも。
住み慣れた家を手放して得たお金と保険金で、慎ましく暮らせば学生でも何とかなる。卒業して働けば一人でも生きていける。
必死だった。
身なりには気を遣ってもお金は使えない。仕事を成功させることに躍起になって、生意気と言われようが思ったことは何でも言った。
───強くなくちゃ。
仕事で会う女性達の美しさが時に眩しかった。だけどこれが私の生き方なんだと言い聞かせてきた。彼女達が強くないということではない。私はこうしなければ強くなれないのだと思っていた。
部屋に戻ってすぐにお湯を沸かす。菜摘姉ちゃんがくれた切り干し大根の煮付けのタッパーを冷蔵庫に入れ、ホイルで包んだ焼きおにぎりを皿に載せてテーブルに置いた。部屋が暖まってきた。インスタントのコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり。ストーブの上にやかんを置いた。冷え込む夜はこれがいちばんだ。
ベッドの下の収納抽斗からクッキーの缶を取り出してテーブルに着いた。隠しておいたおやつではない。ぱか、と小さな音を立てると溢れ出す───
東さんの目に映った私。
モノクロームのスナップショット。
彼はいつも、両手で包み込んでしまえるほどの小さなカメラを持ち歩いていた。そうして目についた物や何か、気の向くままにパチリと撮っていた。全てモノクロ写真だ。
スタジオのドアに手を掛けて振り向く私。
初めて彼が私を被写体に選んだ時のものだ。
「…生意気だったよなあ…」
独り呟いてくす、と笑った。
うさこちゃん以後、少しずつは言葉を交わすようになっていた。平行して何本かの制作を進める時、それらは殆ど同じスタッフで行われる。自ずと顔を合わせる機会も多くなる。チームという雰囲気が出来てくるのだ。
その中にあって、カメラマン東祐朗は異質だった。
無愛想。そのくせ強い自己主張。撮影に熱を帯びてくるほど周囲には冷め切る。
他のスタッフと意見が衝突するのは毎度のことだった。
だが、我が強いというのとは違う。話し合って納得すれば彼ははいと素直に折れた。主張する時の激しさと人を突き放すクールさを綯い交ぜにして表す彼に、誰もが戸惑っていた。派手さはないが端整な顔立ちも彼を冷たく見せていた。
かっこいいけど怖い。
ミオ、よく平気だね。
女性スタッフの彼の評価はそんなところだった。平気だね、というのは彼の主張に意見を述べるのは私の役目であり、要するに毎度喧嘩をしていたのである。私にしてみれば、それが私の仕事だからなのだが。
互いに納得いくまで話し合い(喧嘩腰だったが)、良い物を作ろうとする。むしろ一緒に仕事のしがいのある人だと感じ始めていた頃───生意気発言から半年近く経っていたろうか、とても暑い真夏の日のことだった。複数抱えていた制作の一本が行き詰まっていた。商品企画の人と一緒にあちこち駆けずり回り頭を下げて回ってくたくただった。どうしても上手くいかない。何度練り直してもダメ。一つが遅れると他まで遅れてしまう。どうしよう───全身がずしりと重かった。何やってる石崎、ぼやっとするな───幾度となく浴びせられる冷たい声───怖くて震え、身を縮めた。吐き気がしてぐるぐると目が回る。ふいに目の前が真っ暗になった。慌てて伸ばした手の先の何かが倒れた。ガシャンという大きな音に頭を殴られたような気がした。
その後はぼんやりとしか覚えていない。東さんの声と短い会話を交わした。どうした。暑い。気持ち悪い。吐き気か。……。頷いた。どこか痛いか。おなか。
声の主の気配が離れ、ややあって戻った。これ飲んで寝てろ。目を開けるとスタイリストさんが体を起こしてくれた。スポーツドリンクのボトルを見て、かくんと体の力が抜けた(とうに抜けていたのだが、そんな気がした)。脱水症状………わかってしまえば何てことはなかった。スタジオの隅で床に座り込み、ぼんやりと撮影が終わるのを見ていた。おつかれさま、石崎さんお大事に、とモデル達が帰ってゆく。
何も出来なかった───
現場に居て何も出来なかった。私が何もしなくても撮影は進み、仕事が片付いていった。抱えた膝に額をつけて目を閉じた。───私が何もしなくても。
片づけの済んだスタッフが次々とスタジオを出て行った。
≪おまえももう帰れ≫
……はい
腕時計を見て愕然とした。震える手で社に電話を入れる。遅くなってすみません、すぐ戻ります。───東さんが怒った顔で携帯電話を取り上げた。
≪東です。撮影長引きまして。ええ石崎さんがライトと一緒に倒れて壊してくれまして。このまま帰宅させます。ああー…。はい。はい≫
東さんは頷いて壁に寄り掛かり、するっと背を滑らせて私の横に座った。
≪そんな山手線じゃあるまいし≫
山手線?
≪多少遅れもしますよ。山手線だってドアに手挟まれば遅れるじゃないですか。ねえ?でもいつの間にかダイヤ通りに走ってるのが不思議なんですよ俺≫
はあ?
≪そうそう、そんな感じ。その調整は出来るでしょう。出来てますよ。僕は撮るだけですから。よくやってくれてますよひからびるまで。スルメになってますよ≫
スルメ?
東さんの横顔を見ると口の端に笑いが浮かんでいた。
≪脱水症状。うん、そう、水分取らせて休ませました。暑いですからねスタジオ。はい。今んとこ処置それだけなんで。戻るのはちょっと無理でしょう≫
ではおつかれさまでした、と電話を切った。戻らなくていいって、と言われて呆然とした。
すみませんでしたと頭を下げてゆっくり立ち上がる。足がふらついた。それまで必死で作り上げて来たものが崩れたみたいだった。石崎、と呼び止められた。彼は、もうちょっと休んでけば、と折り畳み椅子を起こした。首を横に振った。
≪何を意地になってんだよ≫
………
≪可愛くねーな≫
そんなのどうだっていいでしょう
≪どうだっていいんなら意地張ることねーだろ≫
だってそうしないと───
≪そうしないと何≫
………
そうしないと足元から全部崩れ落ちてしまいそう……。心の中で何度も呼んでしまいそうになるのをずっと堪えてきた。
お父さん。お母さん。
目がじんと熱くなった。
ひとりで生きなくちゃならないんだもの、形振りかまってられないの
≪ひとりで生きようと思うんなら形振りかまえよ≫
………?
言われた意味がわからなかった。目を瞬くと涙がぽろっと落ちた。……嫌だ、こんなの見られたくなかったのに。
この人には絶対に。
東さんは傍らのカメラバッグの上に放ってあったタオルを取って私の頬を拭った。微かに汗の匂いがした。肩を押され、強引に椅子に座らせられた。彼は荷物置き場の長テーブルに軽くお尻を載せて寄り掛かった。
≪石崎さん、化粧道具貸して≫
…は?
また唐突に何を言い出すのか。さっきからどうもおかしい。東さんじゃないみたいだ。ポーチを手渡す。
まさか東さんがお化粧するの?
≪うん≫
ええーっ!
≪バカ、おまえにするんだよ≫
…え?
≪この前、雑誌のメイクのページをやってさ。化粧する過程を撮ったんだよ≫
…うん
ヘアクリップを取り出し、私の前髪をぐっと引っ張って留めながら彼は言った。有無を言わさない気なのがわかったので身を固くした。
≪動くなよ。初めての手術をする医者の気分だ≫
…ははは…
≪見てると面白いね。顔って立体だろ≫
面白い、と言うのに顔は怒っている。でも手は丁寧に動かす。男の人に化粧をしてもらうなんて恥ずかしかった。
≪陰影を作るのな。この辺のとこなんか嘘≫
ふふ、うん。嘘
≪ここポイント。らしいぞ。いっぱい撮らされた。つまんねーと思いながら≫
手鏡を向けられた。
≪あーみんな騙されてる。何?小顔?≫
ははは
≪ああでも面白かった。女を撮るんなら自分でも出来た方がいいと思って≫
…ふうん?
≪石崎さん実験台≫
実験かい
≪これはどういうふうに使えばいいのかな≫
アイシャドウが五色もあってわからないらしかった。説明しながら自分でやってみせた。東さんは真面目な顔つきでふんふんと頷いていた。眉を整え、繊維入りのマスカラを見てニセ睫毛と言い、ビューラーで睫毛を上げるのをやりたがった。体を半分に折って背中を丸めて顔を近づける。
≪絶対動くなよ…≫
怖いよ東さん…
互いの顔が笑いでひきつっていた。
マスカラをたっぷりと付け、口紅を混ぜて色を作ったのを筆で唇に載せ、グロスで立体感を付けた。ヘアクリップを外して手櫛で軽く髪を梳く。
≪どうだ≫
東さんはふんぞり返って手鏡を私の顔の前に構えた。はあ、と鏡に頷いた。いつもと同じメイク道具なのに、手間暇をかけただけで随分違う。
≪ちゃんとすりゃきれいじゃねーか≫
………
≪おまえは女性をきれいにするためのページを作ってんだろ。なのにおまえがきれいじゃなきゃ説得力がない。自分をちゃんと見ろ≫
…うん
≪きれいだよ≫
そっけない口調だった。
≪明日は自分でやれよ≫
…うん
ありがとうございました、と立った。彼はこちらも見ずに片付けながら、うん、と言った。バッグを肩に掛けてスタジオを出ようとした時───
≪海音≫
みお、と彼は言ったのだった。
はいと振り向くと彼は見たことのない小さなカメラを構えていて、パチリとシャッターを切った。
≪おつかれ≫
そして彼は遠くから、拳を握った手を前に伸ばして薄く笑った。