「波動が様々な物に与える影響は実験によって既に確かめられているんだよ。音波で言うなら、耳に聞こえないある周波数の音をスピーカーから出して当てると火が揺れたり魚が昏倒したりする」
「…仁史君もそれで?」
 ラジオは「ふっ」と俯き、苦笑して顔を上げた。
「それなら三人とも倒れてるでしょう」
「あ、そうか」
「あれは立ち眩みの一種。血圧がいきなり下がり過ぎたの」
 私達は部屋の真ん中で、まるでピクニックのようにレジャーシートを広げて座り、雑炊の鍋を囲んでいた。
 片手鍋の。
 調理器具がこの鍋と包丁とまな板しかなかった。使っていないのが一目でわかる。スーパーへ買い出しに行ったものの、鍋一つ。全員仲良く病人食。当然カセットコンロなんて物がある筈もなく、鍋はパソコン誌の上に載せられている。椅子も足りないので室内ピクニックとなった。私とラジオの会話を和泉さんは黙って聞いていた。なぜ黙っていたかは省略する。
「でもどうして急に血圧が下がるの」
「それは……」とラジオは箸を置いて唇を噛んだ。「多分、共鳴を起こした時の周波が交感神経に影響を与えるもので……元々低血圧の僕だけ強く影響されたんじゃないかと思う」
 推測だけど、と彼は溜息を吐いた。
「そういえば私もその後、頭がくらくらした」
「うん」和泉さんがやっと口を利いた。雑炊のおかわりを茶碗によそっている。
「あの時、シャッターの格子を掴んだらびりびりと震動していた。地震とも違うし、耳鳴りと関係があると思った。けど本能的に危険を感じたのはやはり地震の経験があるからかな。咄嗟に頭の上の電灯が一番危険だと思った。君の言う精神の波動が原因なら、電球が割れたのはそれと関係があるんだろうか」
「和泉さんの意識が電球を割ったってこと?」
とラジオは水を一口飲み、どこか(私達の真ん中辺り)を見つめて考え込んだ。和泉さんは答えを待って黙々と食べている。私は思い出して「あ、」と言った。
「自覚のないサイコキネシス」
 二人が頷いた。以前六角屋で話していたことだ。ラジオは首を捻りながら、
「どうかな。考慮の必要はあると思う。でもその後にも共鳴は続いたと言ったね。二人は震動を感じていなかった、つまりそれは周囲の物体を強く震動させる程ではなかった、と考えると、あの時の共鳴がたまたま強い力を発生させたと考える方が自然だと思う。そこに意識が合わさって」両手の指先を軽く重ねる。「電球が割れたという考え方も出来るけど、共鳴の周波自体が一定しないから、共鳴の強さによって起こり得る二次的な現象と考えて良いと思う」
「…そうか」
 和泉さんは鍋を持って残った雑炊をかき集め、茶碗に盛った。
「もう一つ」
「何ですか」
「僕とミオさんの二人で居た時、つまり病院で共鳴が起きた時は…その、強い震動は起こらなかった。だがあの時は僕らの間に君が居た」
「僕が力を増幅させたってことですか」
「そういう考え方も出来るんじゃないかと」
「うん」
 ラジオは病院で出された薬を一つ一つ確かめて頷きながら、錠剤をぷちんぷちんと手のひらに載せた。
「でも話からして共鳴していたのは和泉さんとミオさん、二人の記憶です。僕自身は共鳴に加わっていない」
「…聞こえなかった?」
 和泉さんが訊ねた時、ラジオは薬を口に含んで水を飲んだ。目を伏せて飲み込む。
 彼なら───聞こえただろう。しかし彼は「聞こえませんでした」と答え、目を伏せたまま唇をきゅっと噛みしめた。
 ラジオが嘘をついた───
 それは和泉さんの記憶に触れてしまったことへの罪悪感からかもしれない。私もだ。正月に湯島で和泉さんに出会ったことを話せない。和泉さんもそれを彼に言えずにいる。だからそれで良いのかもしれなかった。
「記憶の共鳴がなぜ起きるのか、それを知るために二人の記憶を暴くようなことは僕はしたくありません。でも」彼は苦笑して続けた。「二人の間に共鳴を起こしやすい何かがあると思う。それが解決の糸口になるんじゃないかな」
 共鳴を起こしやすい何か───
 思わず顔を見合わせた。和泉さんは目をそらし、茶碗を置いて「ごちそうさま」と言った。
 ───解決するなんて簡単だ。近づかなければいい。
 私は鍋と食器を台所に運び、「これ片づけたら行くね」と彼らに言った。知らず溜息。ラジオは「えっ」と子犬のように追って来た。
「行くってどこに」
 おめめうるうるきらきら。
「うーん。一人だしカプセルホテルにでも泊まるよ。サウナもあるだろーし」
 投げ遣りに答えると、犬はいきなり「ミオさんっ」と抱きついてきた。
「ミオさんをそんなオヤジな目に遭わせるなんて出来ないっ」
「こんな目に遭わせるのはいいのか!」
「あ、何なら僕が外に泊まれば」
「うわあ和泉さん!ものすごくいかないでほしい!」
 出て行こうとする和泉さんのシャツの背中をはっしと掴んだ。
 彼は驚いたように目を見開いて振り向いた。
 ───謎の構図。
 あれ?
「二人とも行かない?じゃ、僕ちょっと横になるから」と、ラジオはニコッと手を離してベッドに戻った。
 ≪───のせられた……≫
 和泉さんと目を合わせて頷いた。




 結局、ラジオはすぐに寝入ってしまった。和泉さんが「友達の所に泊まる」と言うのを説得して、私が近くに宿を取ることにした。家主を追い出すわけにはいかない。タクシーを拾える所まで送ってもらうことになり、一緒に部屋を出た。
「逢坂君はミオさんに居て欲しいでしょう」
 まあ、おじいさん似周波治療器ですから。とは言わない。
「僕に遠慮しなくていいですよ」
「何か誤解してます?」
「誤解なの?…そうだな、二人は恋人同士という感じはしないね。姉弟というか」
「うん。その通り」
 ラジオは気づいている。
 私が和泉さんを怖いと思っていること。漫画を読んで気を紛らわせていても、どこかで、和泉さんの部屋に居るということに不安を感じていたこと───。だから彼は私を引き止めたがった。
 私がうさぎになると彼は私を抱き寄せる。
 東さんの代わりに。
「…なんだ。わかってくれてるなら良かった」
「うん」
 暫しの沈黙。今は気遣っているらしく、彼は穏やかだ。黙っている間に考えていたのか、ふいに「共鳴を起こしやすい何かって何だろう」と言った。
「共通点?」
「そんな感じだろうな」
 互いに家族構成や趣味、仕事などを挙げてみた。
「……共通点は茶道の経験と落語好きなところか……」
「関係なさそうですね」
「ないだろう」
 大通りに出た。駅に戻るタクシーが通るのを待って角に立った。
 ≪共鳴した記憶そのものを照らし合わせるしか───≫
「………」
 お互いに言いたくないのがわかって顔をそらした。空車の赤いランプが見えて手を挙げる。
「仁史君のこと、お願いします」
「……ん」
 タクシーに乗り込んでバタンとドアが閉まるとかすかな耳鳴りが止んだ。




 タクシーの運転手に素泊まりの出来る宿を紹介してもらった。仕事柄、初めての場所に飛び込んで何かを頼んだりするのには慣れている。昔ながらの簡易旅館。大阪のような大都会にもこんなひなびた宿がまだ残っていたのかと感心した。二階の小さな和室に落ち着いて、ラジオに旅館の名前と場所を記したメールを送った。
「とんでもない春休みになっちゃったな……」
 畳にごろりと寝転がった。
 ───『宿命』。
 空木秀二の描いた死。
 その絵を握り、何かを画策して空木の絵を集めようとする画商、櫂。
 高瀬真臣。
 共鳴する記憶。
 和泉諒介───
 大阪。
 自分がなぜ今ここにいるのかがわからなくなりそう。一枚の絵を見るために私達はやってきた。空木秀二という人に会うために。空木の世界に描かれているのはいつも『孤独』だ。私達はこんなにも彼を求めているのに。いや、彼が孤独を描いていたからこそ惹かれるのか───
 寝返りを打って俯せた。手を伸ばしてバッグを引き寄せ、手帳を取り出す。今日の出費を記録しておかなくちゃ。ぱらぱらとページをめくると、挟んでおいたカードが指で滑った。
 伊野さんが送ってくれたAIMの案内状だ。
 照明を集めた光の輪の中に飛び込んで、背筋を伸ばしてすっと立つ、裸の背中の後ろ姿。
 まるで───

 ≪彼は未来を予見していたようじゃありませんか≫

 自分と同じ目をした青年がそうすることを知っていたかのように。
 ………いくら何でも考え過ぎだ。構図が似ている、それだけのことだ。
 もし仮に、空木に予知能力があったなら、事故死は避けられた筈だもの。

 ≪死に向かってゆく、その生。激しく飛び散った水は破壊、血の赤は苦痛、墜落というさだめ≫

 ───東さん。
 病院のベッドの上で、逃れられない死を受け入れるしかなかった東さん………
 『宿命』。
 空木もそうだったというのか。
「………ふ」
 畳に額をつけて泣いた。




 ラジオを迎えに和泉さんの部屋へ。呼び鈴を鳴らすと和泉さんがドアを開け、こちらを見たラジオは「ミオさあん」と廊下を駆けて来た。
 犬まっしぐら。
 そんな言葉が頭を過ぎった瞬間、彼はがしっと私に抱きつき、「もう。いなくなっちゃうんだもん」と尻尾を振った。和泉さんは困惑の笑みで右に左にと視線を私達から外した。私は「子供か」と彼から離れようとし、………あれ、と思った。
 犬耳が垂れてる。
 私を抱く腕が震えているのだ。
 まだ完全に回復したわけではなかったのだ。制御するのにまた消耗してしまったのだろう。ついててあげれば良かった。たとえおじいさん似周波治療器でも。
「ごめんね」
「すんすん」
「なーにがすんすんだ」
 彼の後頭部をぺちんと叩いて、撫でた。
「具合悪かったなら素直にそう言えば良かったのに」
「…うん。ごめんなさい」
 私は太一が甘えて来た時にするように、彼の背中に手を回してとんとんと叩き、頭を撫でた。
「すみません和泉さん、玄関先で」
「はは…いや…」こっちを見ない。
「ほんとに太一そっくりね」
「太一って誰?」とラジオが耳元で言う。
「従姉の子で、今四歳」
「今、にじゅうっていうのが聞こえなかったんだけど」
「二十はつかないの」
「はははっ」と和泉さんが高らかに笑い、ラジオはパッと体を離した。
 ───震えが治まらない。
 しかしラジオは「ご迷惑おかけしました」とそのまま辞そうとした。「大丈夫?」と訊ねると「うん。早く帰って家で休むよ」と答えた。伊達眼鏡を掛けて鞄を肩に提げる。彼が倒れた時のことを考えると、その方が良さそうだった。
 和泉さんと私の間には共鳴を起こしやすい何かがある………
 それがラジオの体に影響を与えているのだと思われた。一人だけ強く反応して倒れてしまうくらいだったのだから。
 新大阪駅で指定席の切符を買い、見送ってくれた和泉さんと別れて新幹線に乗ってすぐ、私はそのことをラジオに訊いてみた。頭を寄せ合って小声で話す。彼は甘えて寄り掛かることはしなかった。
「ミオさんとは波長が合うっていつも言うけど、和泉さんとは逆なんだ。波長を乱される感じがする……」
 やっぱり、と頷いた。
 昨夜いろいろと考えるうちに、六角屋で初めて和泉さんと会った時にもラジオが倒れたことを思い出したのだった。その時に彼は「制御が難しかった」と言った。寝不足のせい、と今回と同じことを言っていたが、それだけではないかもしれない、それが共鳴を起こす何かではないか………と、そう考えていたのだ。
「いやな感じはないんだよ。ただ、制御が上手くいかなくなるだけ。…昨夜ね、僕が目を覚ました時、和泉さんは手紙を書いていたんだ。とても穏やかで、ちょっと楽しそうで。ラブレター?って訊いたら彼はフッ、って照れくさそうに笑って、『仕事の話だよ』って」
 ラジオはふふっと微笑んだ。
「見るとテーブルに資料広げて調べながら書いてる。なあんだ本当に仕事の話なんだ、って思ったけど、和泉さんはとても嬉しそうだったんだ。それは彼が本当に仕事が好きで、そして…手紙の相手は例の彼女だったんだけど、彼女が自分のやっていた仕事を引き継いだのを喜んでいて、彼女を案じながら手紙を書いている彼から発せられる波動はとても優しかった」
「…うん…」
「それで、彼は『君とミオさんは姉弟みたいだね。僕らもそんな感じなんだよ』と言った。制御のきかない僕はふわーっとした心地になって、そして少しさびしくなった」
「…どうして?」
「この優しい気持ちを受けとめてくれる人がそばにいなかったから」
「………」
「手紙を出せばその気持ちは届く。でもそれを自分の手で確かめられない……」
 彼の顔から少しずつ微笑が消えていった。遠い眼差し、悲しげに潤んだふうな瞳に揺れる小さな光。
 彼は長い睫毛を合わせてまぶたを閉じた。





2001.7.14