「あ、これこれ」
「ん?何が」
 思わず声を上げて足を止めた私の肘に、伊野さんのカメラバッグの角がごつんとぶつかった。痛い。肘をさすって振り返る。
「この前、AIMに来てくれた仁史君の友達の山崎君、覚えてる?」
「ああ、絵描くって言ってたな。これに出るのか」
 伊野さんが目の前の掲示板を指差した。豊かな緑を抱えた公園の中にある大きな美術館。掲示板には展覧会の告知ポスターが貼られている。
「すげえじゃん」
「それが落ちたのよ」
「あら」
 彼は苦笑いで振り向いた。いかにも先日床屋に行ったばかりのさっぱりと短い髪に混じる白髪がうららかな日差しにきらきら。しかしその笑顔はやんちゃ坊主のよう。伊野信吾、三十一歳。今、文字通り輝いていると評判である。ただし私の周囲限定。四角い眼鏡の奧の丸い目がちらと私を見て、またポスターを見た。
「そっかー。残念だったな」
「スランプだったみたい。でも高畠深介が認めるくらいの子なのよ、本当は」
「あ、知ってる。高畠深介。そうか、また頑張って欲しいよなあ」
 そう言いながら、伊野さんが自分の若い頃を思い出しているのがわかった。つまり彼にも似たような経験があるわけだが───今だって輝かしい受賞歴などはないのだが、写真家としての腕と人柄は周囲にも信頼されている。ここまで来るのにおよそ十年。山崎君だってこれからだ。私はふふと笑って「うん」と答えた。
 私達は公園の奧へと向かって歩き出した。今回も伊野さんの案内で撮影に備えてのロケハンだ。
「緑の匂いが気持ち良い時期になったねー」
「まあな、梅雨もまだなのに暑いよな。年々季節感がおかしくなってねーか?」
「あ、それは思う。地球が悲鳴を上げてるみたい」
「話の規模が急にデカくなったな」と伊野さんは笑った。
 それがつい昨日のこと。
 そうして翌日の今日、同じ時刻。私は同じ場所にいる。
 緊張の面持ちで美術館の中へと足を踏み入れる山崎君。どんな作品が入選したのか気掛かりなのだろう。その後に続くラジオこと仁史君は落ち着いた様子だ。山崎君が私まで誘ってくれたのは、この前、彼がスランプだという話をした場に私も居合わせたからだ。………それだけではないみたいだが。
 エントランスホールには大勢の人がいた。静かなざわめき。広く一般から公募している美術館主催の賞だけに、話し声の中にはどこかのお国なまりも聞かれた。
 広い展示室に入ると真っ先に目に付くのが、中央の太い柱に掛けられた絵。入口の正面にあたる。大賞を受賞した作品だ。二人は黙って見ていたが、やがてラジオが「きれいだ」と言った。山崎君は「うん」と答えた。
「これ見たら納得いく」
 それを聞いたラジオはふっと微笑んで歩き出した。山崎君はまだその絵を見つめている。写真展『AIM』でもそうだったが、彼らは各々のペースで観賞し、その間は喋らない。高校時代の同級生でつきあいの長い彼らは互いをよく理解していて、こうしてさり気なく離れるのもとても良い雰囲気なのだ。私も自分のペースで見て回ることにして山崎君から離れた。これだけ人が居ても彼らを見失うことはないだろう。二人とも、とにかく目立つ。
 人混みの上に金髪の頭が飛び出す180センチの長身、山崎隆之。
 いつも派手な服。今日はコバルトブルーの柔らかいシャツにブラックジーンズ。たったそれだけなのに、かえってインパクトがある。日本画の大家、高畠深介の愛弟子。鋭利で繊細な目線が人を惹きつけ、また突き放す。そんな雰囲気のある青年だ。
 そしてなぜか───
 よく見れば普通なのに不思議と目を引く存在感を持つ、逢坂仁史。
 いつも100%天然素材。白いTシャツにグリーン系チェックのシャツ、縦落ちのジーンズ。グレープフルーツの香り。100%愛着を身に纏う。二十五歳になったばかりの医学生。黒目がちの大きな目が印象的なファニーフェイス。伊野さんにフォトジェニックと言わしめた彼の持つ雰囲気は、一言で言えば、不思議な魅力。
 そんなわけで二人とも見つけやすいし、はぐれてもエントランスホールで会えるだろう。私のことは見つけにくいかもしれないけどな。
 ついでに私、石崎海音。特筆すべき特徴なし!
 周りの人に言わせると、猫っぽい顔なんだそうだ。特に目。そのせいか、きつい性格に見られがち。確かに、思ったことははっきり言う質だが。シンプルでシャープなデザインの服が好き。可愛いという言葉に縁はない。本日も黒の半袖ニットにストレートのジーンズでシンプルの極み。はぐれたら、見つけてもらうのは無理だろう。
 ───良かった。二人が目立つ人で。安心して見て回る。
 既成の枠にとらわれず、幅広く作品を募る賞である。展示作品も実に様々。あ、これきれい、とすぐに思える風景画もあれば、(私には)意味不明の抽象画もある。山崎君は日本画で応募しているし、大賞作品は迫力ある油絵だ。素人の私も、いろんな絵が見られて楽しい。
 壁伝いの順路に従って次の展示室に進む時、後ろを振り返った。山崎君が遠い。一点ずつ丹念に見ているのが微笑ましかった。ラジオは、と探すとこちらも少し離れて、次の部屋の真ん中の柱の前に立っている背中が見えた。細い肩、長くて華奢な手足。ああ、見つけやすい。
 ───あれ、今………
 誰かいなかった?
 私はもう一度後ろを振り返った。
 その人はすぐに見つかった。両手を軽くジーンズのポケットにひっかけて、少し顎を上げて絵を見つめている。ふわりと上体を揺らしてこちらを向き、歩き出そうとして私に気づいた。少し驚いたような顔。彼は横の絵をちらりと見て、その先の絵は見ずに真っ直ぐ歩み寄ってきた。
 こんな所で会うなんて───
 ギャラリー櫂の高瀬真臣。
 無視することも出来ず、私はその場で彼を待った。彼は私の前に立つと微笑して「先日はどうも」と言った。私は何と答えたものか迷って、無言で会釈した。
 先日は………平手打ち、喰らわしたもんな。
「ちょうど良かった。後で六角屋の方へ行こうと思っていたんです」
「……またお仕事でいらしたんですか?」
 六角屋の絵、空木秀二の『北天』を譲ってくれと交渉に来たのかと思って訊ねた。しかし彼は「いいえ」と答えて苦笑した。
「そんなに警戒しないでください」
 薄いブルーグレーのシャツ。麻とインのTシャツの白がさわやかだ。前に二度会った時と印象が全く違うのは気のせいだろうか。その時は絵のために明かりを絞っていたから気づかなかったが、こうして明るい所で見ると色素が薄く色白で髪も瞳も茶色っぽい。少しえらの張った輪郭は、笑うと丸顔に見える。割と童顔だ。そして───冷たくない………
「今日は私用です。この格好見ればわかるでしょう」
「…ええ」
 ちょうど良かった、って、何か用だろうか。
「外灯の修理費の請求に来ました」
「えっ!」
「ふっ、嘘ですよ」
 彼は顔をそらしてククと笑った。ふと真顔になって振り向き、「お怪我ありませんでしたか」と訊く。返す言葉もなく頷いた。
 ───どうして知ってるんだろう………
「店内の防犯カメラに、ウインドウの前にいたあなた方が映っていた」
 あら見てたのねえ、とか何とか。そんな歌が頭の中で回る。笑ってごまかし………ごまかせないか。顔がひきつった。
「彼は大丈夫でしたか。倒れて救急車が来たでしょう」
「…ええ…」
「ああ、本当だ」
 彼の見遣る方を私も見た。ラジオは展示室を奧へと進んで、こちらに横顔を見せて壁の絵の前に立っていた。
「もう一人、男性がいましたね。彼は?」
 その声に振り向いた。なぜそんなことを訊くのだろう。
「何でそんなことを訊くのかって顔ですね。言ったでしょう、防犯カメラの映像に全て残っていた」
「………」
 ガラスのように透き通った鳶色の瞳が私を真っ直ぐに見た。光を透かして輝く目に吸い込まれそうだ。私達を訝ってる………?
 あれは防犯カメラにどう映っていただろう───シャッターを下ろした櫂のウインドウ。その向こうから中を覗き込む私達。そこへ突然、頭上の外灯の電球が割れる。上から降ってきたガラスの破片に驚き、頭を庇う私達………揃って外灯を見上げ、ふいに倒れるラジオ………
 私と和泉さんの記憶の共鳴が引き起こした出来事───
「オーナーには電気系統の故障で負荷がかかり過ぎたんだろうと言っておきました。そんなことで電球まで割れるとは思いませんが、オーナーは納得してくれました。ご心配なく」
 そう言って目を細めると澄んだ瞳に影が差した。
 この人は………何が言いたいのか。
「この前のお詫びです」
 彼は小さく頭を下げて、エントランスの方へ歩き出した。私はその背中を呆然と見送った。
 今の話では要領を得ない。お詫びというのは───
 『北天』をバカにしたことか。空木が自分の死を予見していたようだと言ったことか。櫂が空木の絵を集めようとしていることか。………この前ってどれ。そして今回もわけのわからないまま放り出されてしまった!
 絵を見る気力がなくなってしまった。ラジオが展示室を一周して、こちらに近づいて来る。………と思ったら彼はくるりと向きを変え、すーっと歩いて中央の柱の前に立った。さっきも見ていた絵だ。気に入ったのかな、と近づいて隣に並んだ。協賛の新聞社賞か。
 気に入って見ているなら声は掛けないでおこう。そのうち自分から始めるだろう。クスと笑ってその絵を見た。
 淡いピンクを主体にしたエッチングだった。画面全体を走るたくさんの直線が交わって生まれる正三角形の連なりに赤茶色の影が覗く。万華鏡のよう………紅、紺、黄、白の点が光のように踊る。正三角形の角を中心に生まれるシンメトリックな模様は少しずつ形を変えて画面全体に広がり、様々なモチーフを描き出している。風や水の渦、伸びる炎、開いてゆく花、星の光芒、それらの小さな模様の連続が、徐々に姿を変えてゆき、先端で互いに混じり溶け合っている。細密に描かれた模様を追ってゆくうちに、それが大きな一つの模様になっているのに気づく。小さい模様の一つ一つがきれいだった。隣で深い溜息───私は何気なくラジオの顔を覗き込んだ。
 真剣な表情。かすかに眉を寄せ、唇をきゅっと結んで、大きな黒い目に映る照明の色が強い光を放って瞬いた。私は彼が何か言うかと思い、絵に向き直った。
 もう一度、画面中央の星を思わせる模様から連続模様を辿ってゆくと、万華鏡の模様は直線の交差する点から広がって、視線は画面の上で迷子になってしまう。けれど見づらいという感じはまったくない。むしろ絵に引き込まれるような感じがした。
 私は暫く絵の上をさまよった───そんな感じの果てに聞こえたのはラジオの再びの溜息だった。目が絵の中で迷子になってしまった───絵から視線が外せなかったと気がついたのは、まだタイトルを見ていないことに思い至ったからだった。絵の下のプレートを見て、どきん、と心臓が大きく鳴った。

  『記憶の地平』 高瀬真臣




「『北天』に似てる」
 駅の近くの喫茶店の二階。窓際の席から美術館のある公園の方を振り向いて、山崎君はむっつりとした。彼の言葉にラジオは「山崎がそう思うのはあれが高瀬さんの絵だからだよ」と即答した。
「確かに、中央の六芒星、そして中心から画面全体に模様が広がっていくという構図が与える印象は『北天』に似てるということ」
 ラジオは煙草の先で宙を差し、手を横にすーっと動かした。
「でも高瀬さんが六角屋に来た時、『空木秀二の絵があると聞いて来た』と言った。『北天』が目の前にあるのに、だよ。実際、『北天』は六角屋の壁のために描いた物で、どこかに出品して発表したことは一度もない。当然、彼は『北天』を見たことがなかったんだ」
 黙って頷く山崎君に彼は続けた。
「六角屋の間取りを抜きにして考えても、『北天』が空間を意識し、空間への効果を狙って描かれたのに対して、高瀬さんの絵はあくまで平面的」
 ───始まった。山崎君と目を合わせ、小さく笑った。絵を見てから今までラジオが黙り込んでいたから、ほっとしたのだ。彼は手のひらをこちらに向け、平たい物を撫でるように動かして両手を左右に離しながら、
「画面中央から外側へ広がっていく、それは『北天』の雪の結晶にも言えることだけど、重なる白い弧が作り出す円あるいは螺旋によって距離感が生まれる。一方、高瀬さんの絵は模様の連続の中に大小があって、小さい物同士、大きい物同士を繋いでいくとそれぞれに正三角形を生み出して、全体が六芒星の連続模様になってる」
「…気がつかなかった」と私。
「うん。それはカレイドスコープの鏡面である直線に従って描いていけば自ずとそうなるんだけど、『北天』が円の効果で絵と鑑賞者の間に距離感を作り出す物なら、高瀬さんの絵は直線の効果で画面が縦横に広がる錯覚をもたらす。鑑賞者との距離は変わらない」
「わかってるよ」と山崎君。続きを促す穏やかな口調だ。「どう思う」
「両者に共通しているのは『広がり』、空間を意識していない高瀬さんの方が無限」
「うん」
「模様の連続と変化で表現される時間とストーリーが高瀬さんの絵にはある」
と彼はようやく煙草をくわえて火を点けた。
「僕は好きだよ」
 ───そう。意外………だったのだ。

 ≪こんな絵はない方が良いのに≫

 『北天』を見て冷たく笑い、そう言った人が───
「…この前のこと、悪かったと思ってるみたいだったよ」
 二人とも、私が彼と話をしているところを見ていた。彼の『北天』への発言や櫂の外灯を割った出来事を知らない山崎君の前で詳しいことは言えない。端折ってそれだけ言う。山崎君はフッと苦笑した。
「ミオさんに殴られた時も、きょとーんとしてたもんな」
「…あ、うん。私のこと怒らなかったね…」
 案外いい人かも………とは口に出さなかった。彼は櫂の社員なのだ。コレクションのために空木秀二の絵を狙っている。油断禁物。
 喫茶店を出ると山崎君は例によって(無用な)気を遣い、用事があるからと言って、駅の構内で私達と別れた。彼がホームへの階段を下りるまで、後ろ姿を見送った。
「カラオケでも行って夕飯も一緒に食べようと思ってたんだけどなー」
「あいつも僕も、この前大阪行ったばかりで余裕なし」
「あ、そうか」
 どっちにしろ今回は山崎君の気遣いに感謝。先刻話せなかったことをラジオに言わなければならない。六角屋へ行くことにして歩き出した。
 櫂の防犯カメラに私達が映っていたこと。高瀬さんが櫂のオーナーに外灯の件をごまかしてくれたこと。それを『お詫び』と言ったこと。
 私が高瀬さんを殴って櫂を飛び出し、皆がその後に続いて一人残ったラジオは、そこに空木秀二の娘の梢子さんが居た事を彼に告げたのだそうだ。お詫びというのはどうやらその事らしい。けれど………
 そんなことで電球が割れるとは思わない───そうとも言った。
 ラジオはくすっと笑った。
「怪しまれてるね」
「あの人だって充分怪しいわよ」
「ふふっ。確かに。…やぶへびにならないように気をつけますか」
 彼はのんびりとそう言って、電車に乗り込んだ。あとは美術館で見た他の絵の話をぽつりぽつりと。良いと思う絵はいくつもあったけど───
「『記憶の地平』か。まさにそうだね。星は球体をしていて、地平線はループしてる。互いに繋がった模様はいつか元の場所に戻る。朝と夜が繰り返すように」
 日が昇り、沈む地平線のきらめきのように。
 まぶしい光。あたたかな色。
 意外だった。
 無限に広がる光と色彩に包まれる。
 高瀬真臣の絵は、優しくきれいだった。