六角屋に着いたのは日暮れ時で、どこも店じまいの早いこの辺り、学生街の隅にある地下の喫茶店には当たり前のように客がいなかった。
 一人だけ。
 戸口に背を向けて座っている。ショートヘアが引き立てる細いうなじ。振り向いて、一重のつぶらな瞳がこちらを見た。
 一階の森宮生花店の一人娘、若葉ちゃんが戸口の正面のテーブル席に着いている。古いレジスターがガシャガシャとロール紙を送り出し、マスターの遠山さんは片づけをしていた。ラジオが戸口で足を止めて訊ねた。
「あれ、もう閉店?」
「よう、仁史。…パソコも一緒か」
 遠山さんに頷いて、若葉ちゃんに微笑みかけた───つもりだったのだが。
 目が合ったかと思うと、彼女はぺこりとお辞儀をして「夕飯の支度があるから」と急いで出ていってしまった。………あちゃ。
 私の勘が確かなら、というか多分誰が見ても、花屋の娘はここにいる精神科医の卵に好意を寄せている。
 そしてとっても誤解している。
 かといって彼女を追いかけて、私と仁史君は気の合う友達だとか、彼は私をおじいさんみたいに思っている(亡くなった彼の祖父。私がジジむさいのではない)とか、言い訳するのも何か違うと思う。だけど………
 私は若葉ちゃんの笑った顔を一度も見たことがない。
 幼い頃に母親と兄を一度に亡くしてから、彼女は笑うことが出来なかったという。父親の森宮さんが言うには、
 ≪生きているものがやがて死んでいくのを見るのがつらかったんでしょうねえ───何にも、誰も、好きになるものかって顔をしてました≫
 その彼女が少しずつ心を開くようになって、好きになった人。
 ───ラジオ。
 人の心の声が聞こえてしまう能力者。聴覚を制御して聞かないように努めてはいるが、声となって聞こえなくても「そんな感じがする」と敏感に察知している。彼女にとって、自分への感情がどんな意味を持つのか、それを彼が考えていない筈はないのだ。今も困り果てた顔をして、それを手のひらで隠すように人差し指で眉間を撫でた。
 遠山さんに頼んでみようかな。若葉ちゃんに、今日は山崎君と三人で出かけていたんだって言っておいて、って。
 ふいにラジオが私を振り向いて、顔をしかめて小さく首を横に振った。………そんな感じがしたらしい。私も黙って頷いた。私自身が言い訳出来ないと思っていることを遠山さんに言わせるなんて出来るわけがない。
 ラジオはカウンター席のいつもの椅子を引くと跨いで、背凭れを抱えて座った。『北天』を真っ直ぐに見つめる。
 空木秀二と語らうように。
 私も横向きに椅子に座って背凭れに肩を寄せ、壁の夜空と雪の結晶をぼんやり見ていた。聞こえるのは遠山さんがコリコリと豆を挽く音と、お湯が沸くシュンシュンというかすかな音だけ。
 ───疲れたな………
 たくさん絵を見て疲れた。緊張して疲れた。いろんなことがあって疲れた。
 目を閉じると星の白い弧の残像。それが近づいたり遠ざかったりするような錯覚。
 やがて、ラジオがぽつりと言った。
「来る」
 外のドアの壊れたノブがガチャガチャと鳴った。続いてギッとドアの開く音。私は目を開けた。誰が、と訊くまでもない気がした。予感。やぶへびにならないように気をつけますか。ラジオはそう言った。きっとまた会わなければならないとわかっていた。
 絵の廊下から店に入ってきた───高瀬真臣。
「いらっしゃいませ」と遠山さん。高瀬さんは私達を見回した。
「お邪魔して構いませんか」
「どうぞ」
 彼はこの前と同じ壁際の席に着いた。ブラジルを注文して『北天』に目を遣る。ラジオがお冷やを運んだ。
「遠山さん、こちらが以前『北天』を譲って欲しいと訪ねて来た大阪のギャラリー櫂の高瀬さん」
「あ、そ」
 遠山さんは聞き流すように軽く答えた。高瀬さんは顔を上げ、「名乗りましたっけ?」と言った。
「高畠深介先生の所で友人がお会いしてます。櫂にも一緒にお邪魔しました」
「ああ、それで」と彼は頷いて立ち上がった。
「申し遅れました。高瀬真臣です」
「たかせ、まさみさん」
 遠山さんは豆を計る手を止めて目を上げた。くるりと背を向け、豆挽き機に豆をポン。スイッチオン。ガーッ。ペーパーフィルターに粉を受けてドリッパーにポンと収めた。そして「六角屋の遠山です」と名乗った。
「壁がなくなると困ります」
「わかりました」
 ───なんと。
 たった一言で交渉は終わってしまった。あんなに心配したのに!
 高瀬さんは微笑んで「壁じゃしょうがないですね」と椅子に腰を下ろした。遠山さんが「ひょっとして」とお湯を注ぐ手元を見ながら言った。
「高瀬真臣さん?十年前、M美大にいた」
 ふくふくふく。コーヒーの泡の静かな音は、静寂の音。
「どこかでお会いしましたか?」
「いや?一度も」
 かくん。私とラジオの頭が下がった。この、遠山さん独特のペース。ラジオは俯き、肩を震わせ笑いを堪えている。遠山さんはある有名な美術賞の名を挙げた。
「君、特別賞を受賞したでしょう。だから覚えてた」
「そうですか…」
 高瀬さんは苦笑した。
「空木さんも君の絵は気に入っていたし」
「初耳だ」
「俺も一回しか聞いてない」
 クッ、と高瀬さんは笑った。「そうでしたか」と『北天』を見遣り、溜息を吐いた。
「お会いしたかったですね」
 ───意外。
 意外の連続だ。本当に、この前と同じ人なのか。それとも、画商として取り繕っているのか。
「何で空木さんの絵を探してるの?」
 遠山さんはコーヒーを彼の席に運んで、本題に切り込んだ。そのまま彼の向かいに座った。私もラジオもカウンターに背を向けて彼に注目する。彼は背筋を伸ばしてあらたまった。
「美術館開設のための作品の選考と買収です。クライアントは文化芸術の振興をバックアップする一事業としています。私共は依頼を受けて絵画と彫刻をメインに現代美術家の作品を探していて、その一人に空木秀二がいるわけです」
 クライアントは有名な大手企業グループだ。それが、守屋さんが「値を争うことになる」と言った顧客───とてもじゃないが勝ち目がない。
「空木さんの作品は多くが個人所蔵で日の目を見ないことが残念です。ですから昨年の『空木秀二の世界』は大変意義深いものだったと思います。僕も行きました。作品を保存する上でも研究する上でも、四散した作品を集めて管理することは必要だと思っています」
「でもそれは…」思わず、口をついて出た。「守屋画廊でも考えていることです」
 高瀬さんは私に目を向け、静かな声で「現時点の守屋画廊では限界がある」と言った。
 確かに彼の言う通り、守屋さん一人の財力では空木の作品を集めて管理することは厳しい。だが守屋さんが「先のことを考える」と言ったように、彼は空木の作品の保存と研究を長い目で見て準備を進めているのだ。
 遠山さんがさらっと「それは建て前でしょう」と言った。
「エレクトロニクス産業のグループがヒューマニティ掲げて美術館を経営する、よくある企業のイメージアップだね。別にそれを悪いとは言わないし見に来る人はそんなこと気にしない。美術館に収められているというだけで見る人の絵に対する目も変わるさ。空木秀二の名はたちまち有名になる」
 フッ、と高瀬さんは片頬で笑った。ひんやりとした視線を遠山さんに返す。
「空木の評価が上がる。それは良いことではありませんか」
「空木さんは有名になることを望んではいなかったよ」
「彼を有名にしたくない、と仰るんですか?」
「うん」
 ───え?
 私は驚いて遠山さんを見た。
「空木さんの絵は持つべき人が持ち、見るべき人が見るんだ。美術館に収められたらそれがかなわなくなる」
「個人が独占して限られた人だけが見る物だということですか?」
「いいや?絵は誰の物でもないよ」
「矛盾していますね。それならより多くの人が彼の絵を見ることが出来る環境、美術館にある方が良いじゃありませんか」
「わかんないかな。───空木さん自身が言っていたことだけど」
 それまで余裕の笑みで話していた遠山さんが真顔になった。
「絵は自分の居場所を心得ている。櫂が『宿命』を手に入れたなら、それは今、あの絵が櫂にあるべきだからだ。これは君が、高瀬真臣だから言うんだよ」
「………」
 高瀬さんが身を固くした。膝に載せた拳をぎゅっと握って、遠山さんを見つめている。ラジオが「ツッ」と俯いた───同時に、ピシッと音を立てて高瀬さんの背後の壁のライトが一つ割れ、パラパラと破片が落ちた。皆が咄嗟にそちらを見た。
 一人だけ。───高瀬さんを除いて。
 彼は壁を振り向きもしなかった。財布から千円札を一枚抜いてテーブルに置き、「失礼しました」と立ち上がった。そしてようやく後ろの壁を振り向き、壊れたライトと床に落ちたガラスの破片を見た。私はラジオがまた倒れそうな気がして彼に手を伸ばし、肩をしっかりと抱いた。ラジオは一礼して出て行く高瀬さんをじっと見つめていた。私は高瀬さんを直視できずにラジオの肩をぎゅっと掴んでいた。彼は微笑して振り向き「もう大丈夫だよミオさん」と掠れた声で言った。
「ラジは…大丈夫?」
「何を仰るうさぎさん」
「あんたはカメか」
「ふふっ。まだ怖がってる」
 そう言われて、私はぱっと彼から手を離した。倒れるかもしれないと思った彼にしがみついていたのに気づいたのだ。彼は「遠山さん」と呼びかけながら立ち上がり、収納庫の扉を開けた。ホウキとチリトリを取り出す。
「彼が高瀬真臣だから、ってどういうこと?」
 掃き集めるガラスの破片がカチャカチャと小さく鳴る。
「うん?ああ…。高瀬君は十年前、M美在学中にさっき言った賞取って注目を集めた。期待の新人だったんだよ。ところがそれから半年経たないうちに」
 遠山さんは溜息を吐いた。
「姿を消した」
 カチャ…と鳴って、音は止まった。
「学校を中退して、引っ越しもして、誰にも何も言わずにいなくなった。関係者や友人が彼を探したけど、辛うじて家族には連絡を取っていて、探さないで欲しい、と。何があったのか誰も知らない。高瀬真臣はたった一枚の絵を残して消えた」
「………」
「これからという時に筆を折った彼ならわかると思ったんだ」
 ≪僕は『宿命』には絶望しか感じられない≫
 遠山さんの言う通り、絵が自分の居場所を心得ているなら………
 絶望は彼の側を選んだというのだろうか。
「それよりあいつ!わざとやっただろあれ!」
 遠山さんが割れたライトを指差した。ラジオは破片をチリトリに集めながらくすっと笑って「弁償してったからいいじゃない」と言った。遠山さんが本気で怒っているようには見えなかったので、私は力が抜けてしまった。
「二人とも何でそんなに落ち着いてるの…?」
「慣れかな」
「うん」
 そーかい。
 考えてみれば、ここには空木秀二や娘の梢子さん、そしてラジオと、世間で言う『超能力』の持ち主が集まっているのだ。今更一人くらい増えたって………
「…あ。まさか…遠山さんも…?」
「俺はね、ちょこっと霊感があるの。たまーに幽霊見えるよ」
「…はあ」
「でも見えるだけだよ」
「僕も聞こえるだけだし」
「俺ら物壊したり出来ないよな」
 うんうん、と二人は頷き合った。
 もういい。驚かない。
 がくりとうなだれた。「それにね」とラジオの穏やかな声。
「彼は手の内を見せてくれた」
「…バレてんのか、ラジ」
「さあ、どこまでわかってるかな」と破片をチラシで包んで捨てながら「防犯カメラの映像だけで誰がどんな能力を持っているかなんて特定出来るとは思えない」
「何だ、その防犯カメラって」
「いっけない」
 遠山さんに訊かれてラジオは舌の先をちょこっと出して苦笑した。




 人の精神から発せられている波動。
 それは誰もが感じ取っている。ただ認識出来るかどうかの違いだけ。
 ───それがラジオの自説。
 テレパシー、サイコキネシス、テレポーテーション………そんな話を何度かしてきたけれど、それらの言葉は彼の口からは「そう呼ばれる」という説明においてのみ、一度使われただけだ。彼は『超能力』という言葉を使わない。
 波動を認識出来ることや、彼が聴覚を制御出来ることなどが『超能力』と言えるではないか、とも思う。誰もが潜在的に持っている能力だとしても、それを発揮できることを『超』と言うのだから。
 つまり人には『潜在能力者』と『超能力者』とがあると言える。
 私でさえ───記憶が波動となって他者の波動と共鳴を起こすという体験をしている。けれどそれも認識出来なければ『何も起きていない』ということになる。
 自覚の有無で『超能力者』が決まるのであれば、私も超能力者ということになるが、ピンと来ない。ラジオが『超能力』という言葉を避けるのは、この辺りに理由があるのではないかと思う。
 櫂の外灯が割れた時、カメラに映っていたのは三人。
 私。
 ラジオ。
 大阪に住む和泉諒介。
 その中の誰が、頭上高くの電灯を割った力の持ち主なのか。
 私達は、私と和泉さんの記憶の共鳴が原因と考えている。
 それは潜在的な能力が直接引き起こしたのではなく、共鳴という事象によるもので、そう考えればやはり『超能力』とは別のものだと思うのだ。
 だが高瀬さんの場合は───
 意思的にライトを割ったなら、超能力と呼べる。
 そう話すと、ラジオは顔を曇らせて「うん」と頷いた。煙草をくゆらせ、深く考え込む。私は彼の答えを待った。遠山さんはいつものように、まるで聞いていないように(ちゃんと聞いているのだけれど)本を読んで、私達が話しやすいように気配を薄くしている。カウンターに立てかけた看板代わりのイーゼルと額入りのメニュー。
「彼はなぜまた筆を取ったんだろう。十年も絵をやめていて。…描いていても発表していなかっただけかもしれない。でもなぜ、また現れたのか」
「…『宿命』を見たから?」
「ううん。時期が合わない。櫂が『宿命』を落札するより前に応募している筈だもの」
「そっか…でもそれじゃまるで…」
 まるで『宿命』の方があの絵を描いた高瀬さんに引き寄せられたようだ。
 ラジオは組んだ両手に額を付けて「うん」と言った。手の影の下で瞳の色が淡く揺らめく。
 空木秀二と同じ。そう言われる目の輝き。
 高瀬さんなら思うだろう───
 彼が能力者だと。
 もう一度、ラジオは「うん」と言って目を閉じた。