あれからずっと、耳の奥の、パンという破裂音が離れない。
 仕事の手を休めて息を吐く時、あるいは眠りの中で───弾け、飛び散るガラスの破片が無数の光を放つ。それはほんの一瞬に私の脳裏を駆け抜け、後にはただ、背筋の寒さだけが残った。
 高瀬真臣、とキーを打つ。予想はしていたが、ウェブでは今回の受賞と十年前の受賞作のタイトルが判ったのみだった。
 ───割れたライト。
 ≪防犯カメラの映像に全て残っていた≫
 その言葉は挑戦的にも思えた。同じライトを割ることで───彼は何を言いたかったのか。




 あの日、六角屋を後にして暫くラジオは沈黙していた。駅が見える頃、ふいに彼は「明日ひま?」と訊ねた。
「僕とデートしない?」
「…へっ?」
 思わず復唱して訊き返してしまった。「デート?」
「僕とじゃ不満?」
「……」
 心臓がどきどきするのを感じながら、どう返そうかと考えた。そして、思い出したので言ってみた。
「…私には女性的な魅力は感じないって言ったくせに」
「そうでした」とラジオは苦笑して小さくハ、と笑った。
「言い直そうか。もう一度、高瀬さんの絵を見に行かない?」
「ああ、そういうこと…」
 私は前髪をかきあげ、ふと気付いた。「ちょっと待て、言い直すんかい」
「あはは。ごめん」
 ラジオはいつもの明るい笑みを見せた。それに少し安堵する。
 ───なんだ、どきどきして損した。
「つきあってもらってもいいかな」
「よきにはからえ」
「ありがたき幸せ」
 目が合って、互いにそれがおかしかったので、私たちは同時にぷっとふいた。
 もしかしたら───ラジオは先刻の、私の高瀬さんへの不安感を除こうと「デート」という言葉を使ったのかもしれない。そのことに思い至ったのは、独り、部屋に戻った時のことだった。




 翌日、待ち合わせの駅から美術館までの道々、昨夜調べた高瀬さんの事を話した。ラジオは「僕も同じ」と小さく頷いた。
「今回のような一般公募で点数も半端じゃないし、十年も前だもの。特別賞で名前が載ってるのが幸運なくらいだよ」
「そうよね…」
 溜息を吐いて足を踏み出す。エントランスから展示室へと人波を泳いだ。
 『記憶の地平』。
 あたたかな色彩の広がりが私に触れてくる。六角の光芒を受けて辺りに広がる影は生の躍動に満ちている。これが彼の記憶なのだろうか───ラジオが絵を見つめたまま「ミオさん」と呼んだ。
「…僕らの遺伝子には太古からの生命と営みの情報が記されてる。花に鳥にそして人にと分化しながら、細胞という原始の姿から何度も生まれて死ぬのを繰り返して長い年月を経て来た。僕らはどこから来てどこへ行くのだろう、その問いかけと答えを繰り返し、生まれ続けるのが、絵画だと僕は思う。古代の壁画から現代美術まで、生活の記録や祭事の祈りも生への希求と賞讃と、自問自答なんだと」
 自問自答───
「野宮君が『水からの飛翔』を見た時に、この水はどこなんだろうと思ったと言ってた。空木はあらゆるものの挟間だと言ったって」
 あらゆるもの、と彼は両手を軽く挙げ、目の前の見えない壁に触れるようなしぐさをした。「人と人、人と物、物と物との」と言葉を切る度に何かに触れる。
「挟間の見えざるものを空木は水と表現したけれど、それは流れ、波打ち、動き続けるものの象徴で、物質が震動し波動が───あ、ごめんなさい」
 波動が、と見えない壁を横に滑らせた手が隣に立っていた女性にぶつかった。彼女は肩を竦めて「いえ」と俯いた。ラジオが私を振り向いて「やっちゃった」と苦笑い。
「話に夢中になるからよ。…すみません」
 私も彼女に頭を下げた。俯いたまま、黙って頷いていた彼女がゆっくりと顔を上げた。
「あの…、高瀬さんですか?」
 え?
 思わず後ろを振り返った。高瀬さんが来てる、まだ東京に居たのか───一瞬、そんな気がした。けれど人々の中に高瀬さんの姿はなかった。目を戻すと、彼女の視線が捉えているのはラジオだった。
「高瀬真臣さんですか」
 か細く、けれどしっかりとした声で、彼女は『まさおみさん』と言った。
「違います」
 その答えに、彼女は落胆したように「すみません」と目を伏せた。ラジオが「どうしてそう思われたんですか」と訊ねた。
「絵の解説をしていらしたから」
 ラジオと顔を見合わせた。鳩が豆鉄砲を喰らったような目でこっちを見る。私もそうだったのか、お互いに「え?」と声が洩れた時には笑いがひきつっていた。
「すみません、失礼しました」と彼女は深く頭を下げて、早足で絵を離れた。ラジオが「あ」と一歩踏み出し、追いかけようとして、やめた。彼女は人波を縫ってエントランスの方へと去って行った。
「…どうしたの、ラジ」
「うん、高瀬さんの知り合いかと思った…。でも僕と間違えたし」と彼は絵を振り返り、その下のプレートを指差した。
「名前を『まさみ』って読めなかったし」
「したり顔で解説なんかしてるから作者と思ったんでしょうよ」
 ラジオは苦笑して、「そんな顔してた?…うん、僕もそう思ったんだけど…」
「けど?」
「さっき彼女に、腕を掴まれるかと思った」
 腕を───私は先刻彼女が「高瀬さんですか」と言った時、手を軽く前に伸ばしかけていたのを思い出した。すると、か細い声が必死なものだったように思えてくる。そう言うと、ラジオは「うん」と頷き、「出ようか」と促した。
 美術館を出て公園の方へゆるゆると歩きながら、ラジオは「高瀬さんを殴った時の事、覚えてる?」と訊いた。
「ミオさんが出てって、彼はどうして殴られたかわかんないって顔でびっくりしてたけど、山崎が『ミオさん』って呼んで追いかけたじゃない。その時、彼は動揺した」
「…動揺?」
「うん。そんな感じがした」
 ───ラジオが言うならそうなのだろう。私は黙って頷いた。
「…さっきね、彼の絵の前で話していた時」
「うん」
「僕が『ミオさん』って言ったら彼女、振り向いたんだ…」
 え───?
「もしかしたら彼女も『ミオさん』なのかも」
 ラジオは宙を指差して、「これは仮の話だけど」と声を落とした。
「彼女の名前が『ミオ』さんだとして、高瀬さんはその名を聞いて動揺した。つまり知人……特に親しい人に『ミオ』さんがいたと考えてみる。現在の知人ならあんな風に動揺───困惑と言うべきかな、しないと思うんだ」
「困惑。……そんな感じがした?」
「うん」とラジオは断言した。「現在の知人でなければ、過去の知り合いということになる。ここで思い出すのが遠山さんが言っていたこと。……そこ、入ろうか」
 駅前に出る階段をとんとんと降りて、彼は信号の向こうのコーヒースタンドを指差した。「うん」と同意して青信号を渡った。オリジナルブレンドを2つ買って、店の隅の、立ち飲みのテーブルにコーヒーを置いた。ラジオが灰皿を取って来て「それで続きだけど」と話し始めた。「もうミオさんも思い出してるよね」と黒い瞳が横にちらりと動いて私を見た。
 高瀬真臣の過去───
「十年前の……失踪……?」
「うん」とコーヒーを一口飲んで、彼は顔をしかめた。私も一口啜って、六角屋のコーヒーがいかに美味しいか、改めて思った。
「じゃあ、さっきの彼女は、もしかしたら十年、高瀬さんを探していたのかな」
「そこが微妙なんだ。『まさみ』という名を知らないし、顔だって多分知らない。だから僕と間違えた。だけど……」
「うん」私はコーヒーの味をごまかそうと砂糖を入れた。
「彼女がもし、高瀬さんの知り合いだとして、高瀬さんを覚えていない理由が一つ、考えられる」
 そう言うラジオの顔が苦痛に歪んだように見えた。私はまたどきりとして、身じろぎも出来ずに次の言葉を待った。
「───彼が彼女に、自分のことを忘れるような暗示をかけた」
 暗示───
「……でも、なぜそんなことを……?」
「もしもだよ…?」
とラジオは目を伏せて、
「僕が、一番大切な人の前から姿を消さなきゃいけなくなったら…僕もそうすると思うんだ」
 彼はまぶたを開いて、遠くを見るような目つきをした。
 斜め前に立つ彼が急に遠くに居るように思えた。そんな私の不安をかき消すように、彼は声のトーンを上げて、「まあ僕なら、一番大切な人は手放さないけどね」と微笑んだ。
「心配した?」
「……もう、からかってばっかり」と私は彼を軽く睨んで、甘いコーヒーをまた啜った。
 けれど───
 もし彼女が、高瀬さんにとって『一番大切な人』だったら……?
 ラジオなら「手放さない」と言った。
 本来なら彼も『手放したくなかった』のではないか───
 彼女の、意を決して話しかけた「高瀬さんですか」という声を思い出すと、胸が痛んだ。彼女のことを、高瀬さんに知らせたい。でもどうすれば……?
 長い沈黙だった。ラジオは何を思っていたのか、私には判らない。思い切って、私から言いだしてみた。
「……高瀬さん、まだ東京にいるかな」
「どうだろう。……ミオさん、彼女のこと、気になるんだね」
「うん。それでね、思い出したんだけど、高瀬さんの名刺、山崎君が持ってるでしょ?確か携帯の番号も書いてあったと思うんだよね」
 ラジオは黙って何度も頷きながら、こちらの期待してなかった答えを返した。
「彼とは関わらない方がいい」
「───どうして!」
「………」
 こちらをまっすぐ見つめる視線に射抜かれて、私はコップを両手で握った。ラジオは溜息を一つ、吐いた。
「僕らも記憶を操作されるかもしれないよ?その能力が彼にはある。確かめた訳じゃないけど、昨日の電球の時もそう、彼は自分が『能力者である』とデモンストレーションした。言わば脅しだよね。遠山さんの言った『君が高瀬真臣だから言うんだよ』って言葉に対して電球を割った。彼の過去に関わろうとしたら、何をされるか判らないんだ」
 今度は私が黙る番だった。
「正直に言えばね」とラジオは煙草をくわえて火を点けた。「僕だって気になってる。あんなすがるような目で見られて彼と間違われて。封じられた記憶が戻りつつあるのかな。あの絵のせいで。『記憶の地平』。あれが高瀬さんの記憶の風景なら、記憶を共有した筈の『一番大切な人』もあの絵から記憶を取り戻すこともあるかもしれないね」
「……だから……知らせたいの……」
 やっとのことでそれだけ言った。
 もし、高瀬さんと彼女が、互いに『一番大切な人』だと思っているのなら───
 大切な人を失う悲しみは私もよく知っている。
 だから高瀬さんは彼女の記憶を封じたのかもしれなかった。
 けれど彼らは生きている。再会出来る。
 なのに二度と逢えないなんて、そんなの悲しすぎる……
 ふいにラジオが溜息を吐いて「あーあ」と言った。
「うさぎさんにはかなわないなあ」
 そう言われて、私は目に溜まっていた涙を指先で拭い取った。
 ───いやだ、そんなつもりじゃなかったのに。
「山崎に訊いてみるよ」とスマホをポケットから取り出した。
「……もしもし、僕だけど。うん、今、ミオさんとデート中」そう言って軽く笑い、「高瀬真臣の携帯の番号判る?」
 暫しの沈黙。ラジオは手帳とペンを鞄から取り出して番号をメモした。「ん、判った。サンキュ……え?今度話す。今、急いでるから。じゃあね」
と電話を切って、「いちかばちか」と苦笑いしながら、メモした番号に電話をかけた。それを見ている私は緊張して、心臓がぎゅっと締め付けられる思いがした。
「お忙しいところすみません、高瀬さんですか。昨日、六角屋でお会いした逢坂と申します。今まだ、東京におられますか?……」
 ラジオはひとつ頷いて、手帳に「いる」と書いた。
「急なお願いなんですけど、今日これからお会いする時間はありますか?…話したいことがありまして。『ミオさん』のことです…はい。すみませんがよろしくお願いします。はい。では六角屋で。失礼します」
 通話を終えて、トンとタップして電話を切ると彼は「はあ」と深い溜息をまた吐いた。
「『ミオさん』の名前は強力だね。帰りの新幹線、遅らせるって」
 複雑な気分だった。
 私のことではないけど、名前が同じというだけで、高瀬さんには重大なことなのだ。
「今日は六角屋は休みだから、ちょっと使わせてもらおうね」と彼は合鍵を出して見せて、微笑んだ。それが少し寂しげに見えるのは、私の気のせいだろうか。




 六角屋に着くと、ラジオは珍しく店内の明かりを全て点けた。二、三人の時はいつもカウンター席の明かりしか灯さないのに……
 『北天』。
 空木秀二の大きな瞳がそこにあった。
 ───どうか見守っていてください。これから起こることを……