金木犀の香りが秋を運んで来た。それまではいつも通り忙しく、六角屋からも足が遠ざかっていた。
「今度、和泉さんが僕の部屋に泊まりで東京に来るよ」と、ラジオからメールがあったのはそんな時だった。
 また『彼女』の事で相談があるのだろうか。それほど気にかけているのに、自分の気持ちを否定するのはなぜだろう───同じ疑問が、また脳裏をよぎった。
 メールの最後に「ミオさんも一緒に飲みに行かない?」と誘いの一文。話を聞いてみたい気もしたが、邪魔かな、とも思った。「和泉さんが良いって言うなら」と返信した。すぐに返事が来て、「和泉さんはもうそのつもりだよ」との事だった。それなら行く、と答えて、………本当に良いのだろうか、と不安になった。
 ───共鳴する記憶。
 和泉さんと居ると波長を乱されると言うラジオ。
 ラジオが私を誘ったのは、波長を平常に保つ為かもしれない、そう思い直して、日曜日を待った。
 待ち合わせ場所に現れた和泉さんはスーツ姿で、大きな紙袋を手に提げていた。結婚式の引き出物だという。それで東京に来たのね、と納得した。
 二人並んで、ラジオを待つ。
 耳の奥に───聞き取れないほどの微かな音がする。ピーンと張り詰めた、耳鳴り。痛い───ちらりと横目で和泉さんを見ると、彼も目だけ動かしてこちらを見た。
「またか」
「そうみたいですね」
 ラジ、早く来て………
 地下鉄の改札の向こうに、ラジオの姿が見えるとホッとした。その時───
 ラジオの瞳に、あの光が宿るのが見えた。
 きっと何かを感じている。私と和泉さん、私たちにはわからない何かを。
 彼は駆け寄って来て、「お待たせしました」といつもの笑顔を見せた。「行きましょう」と先に歩き出す。「どこへ行くの?」と訊くと、「最近見つけたちょっと怪しい店。洋風の立ち飲み屋?みたいな所。ちゃんと席もあるけど」と、地上へ続くエスカレーターに乗った。
 駅前広場を見下ろすビルの2階へと階段を昇ると、薄暗い店だった。立ち飲みのスペースの他に椅子席もあって、各テーブルに小さなランプが灯っていた。「ここ、セルフだから」と注文カウンターに並ぶ。ラジオはいつものソルティドッグを、和泉さんはロックのラム酒。私は無難にビールを頼んだ。世界各国のビールが並んでいて、少し迷ってドイツビールを選んでみた。お腹も空いていたので、皆それぞれホットサンドを付けた。トレイを持って、空いている席を探すと、一番奥が空いていた。話をするにはちょうど良いと思った。
 ラジオと二人、和泉さんと向かい合って座った。彼は「ラジオ君には話してあるけど。ミオさんにも心配かけているようだから」と語り始めた。
「あれからね、彼女が『落ちる』───空間を歪めて移動する事はなかったんだ。つい先日までは」
「…また…落ちたんですか…?」
「うん。僕も落ちた」
 どういう事だろう………?
「そこは真っ暗な闇で───姿は見えなかったけど、彼女がそこにいた。やみくもに手を伸ばしたら彼女に触れて…怖かったよ」
「……」
「彼女をつかまえて、大丈夫と言い聞かせていたら、僕はいつのまにか自分の部屋に戻っていた。あれは…これまでのケースと違ったから、戻れるかもわからなかった。部屋に戻った時に、彼女の恐怖がよくわかったよ」
 グラスの氷をカラと鳴らしてラム酒を少し舐めるように飲む和泉さん。ラジオは「これは僕の解釈ですが」と続けた。
「和泉さんがかけた『もう落ちない』という暗示が強すぎて、どこか…和泉さんの前や故郷かな、そこに出る事が出来ずに、空間の歪みにとどまったんじゃないかと思う。そして助けが必要だったから、和泉さんを呼び寄せた」
「……」和泉さんは無言で頷いた。同じように理解していたのだな、と思った。
「和泉さん、」とラジオが静かな声で言った。
「彼女にはあなたの存在が必要なんです。側にいてあげられませんか」
「…ラジオ君には言ったよね、彼女は男性に恐怖を抱いていると」
「はい」
 初耳だった。真顔で和泉さんを見つめるラジオの横顔を見て、視線を和泉さんに戻した。
「彼女は僕を怖れているよ。今はその感情を無視して僕を信じてくれているけど」
「……」
「本当の僕を知ったらどうなるかわからない」
と言って、和泉さんは小さなため息をもらした。
 本当の和泉さん?
 それは───
「彼女の前では自分を偽っている、という事ですか?」と私は訊ねた。
「そう。彼女が怯えないように」
「偽りでも彼女を守ろうとしているのは本心だと僕は思う。それは偽りじゃないですよ」
 ラジオの言葉に、「どうだろう」と彼は自分を鼻で笑った。
「いずれにせよ、僕は彼女を守りきれない。それが出来るのはトモだけだ」
 和泉さんはグラスのラム酒をくーっと飲み干し、深いため息を吐いた。
 本当の和泉さん。
 それはここに居て暗い瞳をしている彼のことなのかもしれなかった。




 その翌週の事、仕事帰りのコンビニのレジで財布を開き、お札を出した時だった。紙幣の間からするりと顔を出した紙片があった。
 展覧会の入場券の半券だ。
 おつりを貰ってレジを離れながら、何気なく半券を取り出すと、会期が目についた。───明日までだ……木曜か、と気付いて、私は外に出るとすぐにスマホをバッグから出して、急いでメールを打った。ラジオ宛である。
 明日の展覧会最終日に、もう一度美術館へ行かないか、と誘ってみた。
 返信の代わりに電話の着信音。『逢坂仁史』と表示されている。通話ボタンを押して「ラジ?」と出た。
「もしもしミオさん?…ふふっ、同じこと考えてた」
 笑いを含んだ声。「同じこと?」と訊き返すと、「僕も行こうと思ってた。一人で行くつもりだったけど」
「同じこと考えてる?」と私。「多分」という返事。
 あの『記憶の地平』が見られる最後のチャンスだ。きっと、彼女───『ミオさん』も来る筈だ……
「でもミオさん、仕事は?」
「急ぎのは終わったから……なんとか都合つけるよ」
「空振りするかもしれないよ?」
 ……だから一人で、と言ったのか……
「とにかく、行きたいの」と言うと、少しの沈黙があって「判った」と答えが返った。
 駅の改札口で待ち合わせることに決めた。「じゃあ、明日」という声が重なった。




 翌日、私は乗り換えの駅で花束を買った。紅色とピンクの薔薇に小花をあしらってもらった。花が萎れないよう、下に向けて持つ。会社へは「体調不良で病院に行く」と嘘をついた。ちょっとどきどきする。……知り合いに見つからないとは思うけど……もう、今日しかないんだ、と自分に言い聞かせた。
 待ち合わせ場所には先に着いた。次の電車で来たらしいラジオが改札に向かって歩いて来る。その左手には───白とイエローの薔薇の花束が握られていて、彼も私に気付くと、苦笑いで近づいて来た。
 開口一番、「本当に同じこと考えてたね」と笑って、彼は腕時計に目を遣った。「ちょうど開館だね。僕らが一番乗りかもしれないよ」
 そう言ったが、やはり最終日だからか、平日なのに早くから人が集まっていた。初日───高瀬さんと出くわした日───と比べれば、がら空きに近かったが、絵の作者やその関係者が多いようだった。
 そして───
 彼女もまた、同じ思いだったのか、開館から三十分程で姿を見せた。
 ラジオと顔を見合わせる。頷き合って、『記憶の地平』の前に立つ彼女に近づいた。
 「あの、」とラジオが声をかける。何と話すかを、待っている間に決めておいた。そして「僕が言うよ。僕は≪ラジオ≫だからね」と言った。
 人の心の声を伝えるから、ラジオ。いつもの『よく喋って、よく歌うからラジオ』というのは、本当の≪ラジオ≫としての役目を隠す為だったのだ。
「失礼ですが、『ミオさん』ですか」
「……はい」
 彼女はラジオの顔を見てもピンと来ないようだった。ラジオは予定通りの言葉を続けた。
「覚えてらっしゃいますか、以前ここで、僕と高瀬真臣さんとを間違えましたよね」
「ああ、あの時の……その節はすみませんでした」
「いいえ」
「まさみさん、っていうんですね」
「はい」
とラジオは優しく微笑んだ。ここで私も一歩前に出てラジオと並んだ。「あの時、一緒だった、石崎海音さんです」と私を紹介する。彼女は頭を軽く下げて「相沢美緒子です」と名乗った。
「僕は逢坂仁史といいます」とお辞儀を返し、そのまま私を振り返り、視線を合わせた。私たちは下に向けて持っていた花束を上に返し、両手で抱える。ラジオが……少しの間を置いて言った。
「これはあなたに、高瀬真臣さんからです」
「………」
 彼女は花束を交互に見て、次に私たちの顔を交互に見た。
「…どうして私に?高瀬さんが?」
「あなたが高瀬さんを探していると彼に言ったら、これを渡すよう言付かりました」
 これは嘘だったが……本当のことのような気がした。
 彼女は呆気に取られながら、花束を受け取って抱えた。
「……やっぱり、思い違いじゃなかったんですね……」
「……混んで来たから、少し絵から離れましょうか」とラジオは彼女を促した。彼女は黙って頷き、絵の並ぶ壁際から少し離れたスペースに置かれたソファーに三人、並んで腰を下ろした。
「思い違いじゃないと言うのは…?」
 ラジオの問いに、彼女は「この展覧会のことはテレビのニュースで見たんです」と語り始めた。
「その時に、高瀬さんの絵が映って……この絵も、作者も知っている、と思ったんです。だけど思い出せない……高瀬さんの顔も、あの絵に描かれているのが何なのかも、見たことはある筈だと思うのに…思い出せないんです」
 私とラジオは頷いた。何も言わず、まずは彼女の話を聞こう、と打ち合わせていた。
「絵を見れば判るかもと思って、何度も来ました。けれど思い出せないんです…ただ、感じるんです」
「感じる?」とラジオ。
「はい」と言って、「いつか全てを思い出す……と、誰かが言ったような気がするんです」
 ラジオは「そうですか」と小さく答えた。
 私は全く違うことを考えていた。
 ラジオのメールの署名にいつも付いている、彼の座右の銘。
『今わからないことはいつかわかる』
 何だか似ている───
「あの、高瀬さんのお知り合いなんですよね?私は…会うことが出来ますか?」
「それは…」とラジオが目を曇らせた。「今はまだ会えないと思います。彼も深い事情があるようですし…でも」
 ラジオの瞳に一瞬、光が瞬いたのを私は見逃さなかった。
「いつか…とおっしゃいましたね。その『いつか』は必ず来ると思います。その時に、会えるでしょう」
 そして彼は精一杯、優しく微笑んだ。それは彼女の為の、彼の精一杯の『今出来ること』だった。
「彼はあなたを覚えているから、花を贈りたかったんです。それは判ってください」
「……はい」
「今日で最後ですから……ゆっくり、絵を見てください。邪魔をしてすみませんでした」
 言いながら立ち上がるラジオに合わせて、私も立ち上がった。
「お会い出来て良かったです。彼の気持ちを伝えることが出来ました」
「いえ、こちらこそ…わざわざありがとうございました」
 そう答える彼女の目は潤んでいた。
 望みを果たした私たちだったが───本当にこれで良かったのかと、小さく疑問を感じていた。




 ≪僕が、一番大切な人の前から姿を消さなきゃいけなくなったら───≫

 高瀬真臣。
 和泉諒介。
 二人の共通点───大切な人の側に居られない、と言う。
 その理由は謎のままだ。




 美術館を出て、「本当にこれで良かったのかな」と思ったままを口にした。ラジオは「本当を言うと、僕にも判らない」と答えた。
「今、高瀬さんが彼女に会えないのは、彼女が忘れている何かを隠したいからだよ。それを暴く権利は僕らにはない。ただ、彼が彼女を思った時に…」と頭上に手をかざし、「薔薇が降った。彼は『こんなものが降るとは思わなかった』と言ったね。きっと彼の深層心理には、彼女への愛情があると思ったんだ。それだけは伝えたかった、それはミオさんも同じでしょう?」
「…うん」
「だったら、これで良かったんだよ。時間もいつまでも二人を引き裂いてはおかないと思うよ。誰かが言ったように、『いつか全てを思い出す』んだから」
 いつか全てを思い出す───
 それはまるで呪文のように私の胸に刻まれた。





2014.7.2/2017.10 修正加筆/2022.3.2 修正加筆