結局、ラジオに会える木曜日を待てずに、翌日の夜には件のコミュニティサイトを覗いてみた。9時過ぎならいるかな?と思ったけれど、ラジオの部屋も覗いて、誰もいないのか……と、ラジオに「今、何してる?」と一言メッセを送ると、すぐに「夕飯食べたところ」と返事が来た。「話したいんだけどチャットいい?」に「了解」と短く答えがあって、再び部屋を訪ねるとラジオのアバターがいた。

  海音:こんばんは
  ラジオ:こんばんは
  海音:伊野さんから話聞いた?
  ラジオ:聞いたよ
  海音:どう思った?
  ラジオ:うーん…

 しばしの沈黙。私は彼の返事を待った。

  ラジオ:伊野さんには「考えさせて下さい」って言ったけど
  ラジオ:山崎に相談したら「良い話じゃないか」って言われた
  海音:山崎君が?
  ラジオ:奴が言うには
  ラジオ:「おまえは感情移入が激しいから
  ラジオ:大勢の患者を診るのは無理だ」って

 以前ラジオが山崎君の事をこう言っていたと思い出した。
 ≪あいつは優し過ぎるから、悲しむような気がして───≫

  海音:うん。それで?
  ラジオ:ミオさんもそう思う?

 さすが長い付き合いの山崎君だ。鋭い指摘。彼の言う通りだと思った。『思うよ』と答えた。

  ラジオ:実際に病棟実習でね
  ラジオ:その事は痛感してた
  ラジオ:病院は…苦しい所だよ

 そしてまた沈黙。やけに長く感じられた。ラジオはどんな風に苦しかったのか……それは言えないようだった。
 大阪で倒れて入院した時に言っていたっけ……
 ≪病院は寂しい所だよ≫
 そうして、疲労して苦しんでいた様子を思い出した。茶化してごまかしていた事も。

  海音:ラジはどうして医者になろうと思ったの?
  ラジオ:えっとね…
  ラジオ:僕みたいな人が居たら、助けになりたかった
  ラジオ:だけど実際、何も出来ないとわかった
  ラジオ:勝手だけど
  ラジオ:僕自身のこの耳の事を知りたくて医学部に進んだんだって
  ラジオ:実習で思い知らされた

『思い知らされた』の言葉が重かった。

  海音:勝手じゃないと思うよ
  海音:助けになりたいっていう志があるんだから
  ラジオ:それは僕が僕をごまかしていたんだと思う
  ラジオ:本当は違った事に、後から気づいた
  ラジオ:僕の耳が普通だったら
  ラジオ:医者になろうなんて思ってないよ、きっと

 そんな───
 自分の能力に否定的なラジオを見るのは初めてだった。
 何か発言しなくては、とは思うが、言える事などなかった。それが伝わったのか、ラジオはまた話し始めた。

  ラジオ:そんな風に、将来に対して迷っていた時に
  ラジオ:伊野さんからの話があって
  ラジオ:山崎にも言われて
  ラジオ:飛びつきたい気もしたけど。笑
  ラジオ:今、自分の本当にやりたい事が判らないんだ

 何と答えたものか悩んで、『うん』としか言えなかった。『笑』の文字が切ない。自分を嘲笑っているように見えた。

  ラジオ:山崎にも伊野さんからも
  ラジオ:じっくり考えろって言われてるから
  ラジオ:そうするよ
  海音:うん

 それ以上は言える事もなかった。『じゃあミオさんおやすみ』と続いた。私も『おやすみなさい』と一言だけにとどめて退室した。




 秋は深まり、気温はもう真冬並みだ。来年のバレンタイン商戦に向けて、今日はスタジオでの撮影。チョコレートなどの静物はそちら専門のカメラマンがいるが、私はデートスタイルの撮影で、伊野さんとのチームで動いていた。フェミニンな服が可愛い。伊野さんが指示を出し、場を盛り上げながら撮り、アシスタントのひかる君が熱心にそれを見ながら手伝っていた。───いつも通り。
 撮影を終えて、トレンチコートを羽織りストールを巻いていると、伊野さんが声を掛けてきた。
「ミオ、今日はこれで上がりか?」
「うん」
「一杯、どうだ」
と伊野さんも革ジャンを着ながら、何やら言いたげに誘った。───ラジオのモデルの件を聞きたい。多分その話だろうと思って「うん」と頷いた。
 スタジオはグルメの街として知られているエリアの端にあった。「どこにしようか、美味いもん食いてーな」と伊野さん。
「それなら、」と先日テレビで紹介されていた飲み屋に行ってみる事にした。日本酒が美味しいらしい。肴も美味しそうだったと話しながら歩いた。霧雨。空気が冷たい。「顔が寒い」と伊野さんが笑った。
 テレビの効果で店は客でいっぱいだったが、平日だからか何とか三人、滑り込みで入れた。まずは飲み物を頼んで乾杯。「お疲れ様です」と皆、笑みがこぼれた。
 ひかる君はラジオの件を知っていた。伊野さんが言っていた通り、撮影の時にまでスカウトマンが押しかけていたからだ。
「…で、仁史君から返事はあったの?」
「ああ、昨日な」
 ……という事は、一週間以上、ラジオは悩んでいた事になる。「それで?」と続きを促した。
「事務所の人の話を聞いて考える、って」
 ───なんと。ラジオがモデルの話を前向きに考えているらしい。
「ほら、あいつ…、T美の山崎君?彼が説得したってな」
「山崎君が…」
 ラジオには医者は無理だと言い切った山崎君。彼ならモデルも強く勧めただろう……
 刺身や唐揚げなどが運ばれて来た。店員がテーブルに肴を並べる間の沈黙。
 ≪今、自分の本当にやりたい事が判らないんだ≫
 パソコンの文字だったが、ラジオの苦悩が伝わった一言だった。
「…自分を試してみるのも一つの手としてアリだ、って言われたそうだ」
 自分を試す───
「自分を試せるのも学生のうちかもしれないっすね」と、ひかる君。
「そうだな」
 伊野さんは頷いて、暖房か熱燗で暖まったのかスンと鼻を鳴らした。
「仁史ももう二十五だろ?ひかるより上か?」
「はい、そうっすね」
「決めるなら、もう決めないとな。ミオは何か聞いてるか?」
「うーん…」と冷酒をぐい呑に注ぐ。
 『病棟実習で自分の勝手だと思い知らされた』という言葉は言いづらかった。
「…実習で…何か感じるところはあったみたい…迷うような、ね」と言葉を抑えた。
「そっか…」
 伊野さんは深いため息を吐いた。「まあ、後は事務所との話し合いだな」
「うん」
「仁史がモデルになったら俺に撮らせて欲しいな…」
「ちゃっかりしてる」クスッと笑いが洩れた。伊野さんも「はは」と力なく笑った。




 雨は本降りになっていた。傘を差して長い坂を下って、地下鉄入り口の前で伊野さんとひかる君と別れた。私はもう少し歩いて、JRの駅から帰る。階段を降りてゆく二人の背中に手を振っていると───
 ピーン…と耳の奥で音がした気がした。
 やだ、耳鳴り───

 ≪たまたまではなく、ミオさんと和泉さんには、共鳴を起こす何かがある≫

 まさか───
 心臓をぎゅっと絞られる感じに、私はもと来た坂道を振り返った。
 スーツ姿に透明なビニール傘を差した人物が、少し離れてこちらを見ていた。
 ───和泉さん。
 東京に来てたのか、と、ぼんやりと的外れな事を考えた。その時───

 ≪それは本当のおまえじゃないんだから≫
 ≪僕は君が本当の由加だと思ってる≫

 耳鳴りが強くなっていく。───耳が痛い。

 ≪いかないで、大阪≫
 ≪いかないで、東さん…≫

 ───バチッ
 斜め前の店の看板が音を立てて、灯していた明かりを消した。
 私と和泉さんの間に立つ街灯が、パンと言ってガラスが割れ───
 通行人が「わあっ」「きゃあっ」と悲鳴を上げていた。
 通りがパニックになっていた。パン、パン、パン、と街灯が次々に割れていく。降ってくるガラスの破片に驚いて逃げる人々。その中にあって、私と和泉さんだけが、呆然と互いを見つめ合っていた。よく見ると和泉さんの眼鏡が曲がっている…また場違いな事を思った。
 もうガラスの割れる音も聞こえない。破片が飛び散るので割れているのがわかった。聞こえているのは───わんわんと鳴る空気の振動だけだった。
 不意に、和泉さんが駆け寄って来た。私の手首を掴むと「ここを離れよう」と言って大通りへ走る。引っ張られて足がもつれた。彼が私の手を強く引いた。
 大通りにはタクシーが行き交っている。手を挙げてタクシーを止めると、ドアの開いた後部座席に私を押し込み、次いで彼も乗り込んだ。「家はどこ」と訊かれて答えると、運転手に「お願いします」と言った。
 重い沈黙……
 和泉さんの横顔を見ると、眼鏡の弦が曲がっていた。セロハンテープでぐるぐる巻きにとめている。
「…眼鏡…どうしたんですか」
「え?…ああ、これ…間違えて折ってしまった」
「曲がってますよ」
「うん。さっきもみんなに…ああ、取引先の人だけど…笑われたよ」
「直しましょうか?」
「え?」
「私、得意なんです。そういうの」
 ───おかしな事を言っているな、と思った。
 さっきの事を言いたくない……それは二人とも同じだと感じていた。