私の部屋に着いて明かりをつけると、蛍光灯がやけに眩しかった。タクシーの中は薄暗かったから……目を瞬いた。「どうぞ」と和泉さんを振り向くと、彼も眩しそうに目を細めていた。
 キッチンのテーブルを挟んで椅子が二脚。一つを勧めると「お邪魔します」と彼は会釈して座った。ストーブをつけて、奥の間へ道具箱を取りに行き、蓋を開けて接着剤やセロハンテープなどあるのを確かめて戻った。向かい合って座る。
「眼鏡、貸してください」
「……」彼は無言で眼鏡を差し出した。
 ぐるぐると巻かれていたセロハンテープを剥がす。
「わ、真っ二つ」
「直らないでしょう」
「まっすぐに付けるくらいなら出来ますよ」
 私は手を動かしながら訊ねた。
「喧嘩でもしたんですか?」
「え?」
「眼鏡が折れるくらいの」
「…ああ、違うよ」彼はフッと苦笑した。「自分で叩き壊した」
「え?」と今度は私が言って顔を上げた。
 ───東さんの座っていた椅子。
 そこに、今は違う人がいる。
 不意に胸が詰まった。心の動きを悟られないように、私はまた視線を眼鏡に落とした。
「…今日は接待があったんだけど…」
「はい」
「相手は悪くないんだ。その親玉が嫌いでね」
「親玉?」
 手元に目を凝らして弦の割れ目をぴったり付けて指で押さえ、空いた手でセロハンテープを取った。───私が見ていないからか、彼はのんびりとした口調で怖い事を言った。
「いつか復讐したくて」
「…復讐…?」どきりとした。
「僕が今の会社にいるのは、そいつを失脚させる為だよ」
 言葉を失って、ゆっくりとセロハンテープを巻いた。「でもね」と彼は静かに続けた。
「前の会社と今の会社と、同じ企業グループの傘下で、結局はそいつの持ち駒に過ぎないんだ、僕は。簡単に言えばラスボスだね」
 そう言って何がおかしいのか、クッと笑った。
「何が一番腹が立つかって、そいつが───」
と彼は言い淀んで、右手の指先でキュッと目頭を押さえた。
「父親だって事」
 ───父親。
 テープを巻き終えて、眼鏡が曲がっていないか確認した。そうでもしないと怖かった。
「出来た?」と彼は手を伸ばした。眼鏡を渡すと、彼はゆっくり眼鏡を掛けて、「お、まっすぐだ。器用だね。ありがとう」と、穏やかに微笑んだ。
 まるで別人のように。口調は同じなのに、先刻と今とのギャップが大きく、私は戸惑った。
 長い沈黙の間が空いた。
 微笑む和泉さんは優しげな瞳をしていた。───これが、偽りだと言うのだろうか。
 その笑顔から目が離せなかった。目を逸らしたら、もっと怖い事を言いそうで。
「それで…ね、今日の接待も父親のセッティングだと思ったら腹が立って、眼鏡を持った手で、こう…ガツンと、壁を叩いてしまった。それで折れちゃったって次第」
「……」頷くしかなかった。
「それを由加───彼女に見られてね」
「…はい」
「彼女はまた落ちそうになった。その、空間の歪みにね」
 そう、呟くような小声で言った。
「僕から逃げ出したいほど怯えたんだね。───落ちなかったけど。澤田…ああ、トモね、あいつがいるから…」
 『澤田』と言った時、彼の瞳の色が揺れた。……泣きそうなのかと思った。
「あいつの存在が、彼女を空間の歪みから守ったんだろう」
 ≪いずれにせよ、僕は彼女を守りきれない。それが出来るのはトモだけだ≫
 和泉さんが以前言った通りになった、という事か……
 でもそれじゃ───
「…でも、それじゃ…、今まで和泉さんがしてきた事は…」
「───何だったんだろうな」
「……」
「僕にもわからないんだよ」
 痛い。…胸が痛かった。
 微笑む和泉さんの発する波動は、痛くてたまらなかった。
「先月、こっちに来た時…元同僚の結婚式だね、あの後…」
 彼は眼鏡を外してテーブルに置いた。見つめていると視線を逸らされた。
「彼女と話してるうちにね…父親の事もどうでもよくなって、その…ね、愛しいと思って…。これまで彼女に触れないようにして来たのに、キスしてしまった。その事を…彼女は『忘れるから』って言ったんだ。前のようにね…いい友達のままで…なんて、後戻り出来ると思う?」
 彼は頼りなく眉を下げ、それでも口元は微笑んで…目を細めた。

 ≪失いたくなかった≫

 ───そう、聞こえた。気のせいだったかもしれないが、そう感じられた───和泉さんの波動は。失いたくないから偽っていた……のだろう。穏やかな笑顔で。

 ≪そんなふうに泣かないでよ≫

 ───ラジオ。
 ラジオの思いがよくわかった───私は知らず、言葉にしていた。
「…そんなふうに泣かないで」
「…え?」と和泉さんがこちらを見た。
 左目からぽろりと涙が落ちるのが自分でわかった。
「…どうして君が泣くの?」

 ≪どうしてラジが泣くの…?≫
 ≪ミオさんが泣いてるからだよ≫

「和泉さんが泣いているからよ」
 そうだ───和泉さんは泣いている。笑顔の下の、その心で。
 この人は私と同じ───
 うさぎなんだ。
 強く頼もしい獅子のような力で彼女を守り続けて、だけど心には父親への復讐心を隠して。たった一人で───生きて来た。
 強くならなくちゃ、一人で生きなくちゃ、と意気がっていた私を、東さんは『うさこ』と呼んだ。私の弱さを見透かして。
 この人も同じなんだ。うさぎなんだ……
 私は立ち上がって彼の傍らに立ち、彼の頭を胸に抱き寄せた。いつか夜道でラジオが私を抱きしめたように。アルバートが身を寄せたように。
 そうせずにはいられなかった。
 ふわりと香る、懐かしい匂い。───東さんが好きだった匂い。
 私達が共鳴を起こす理由がわかった。
 わかった、と思った瞬間、私はそれまで痛く感じていた波動から解放されて、足の力が抜けて床にへたり込んだ。涙が止まらない───
 大きな手のひらが頬に触れて涙を拭った。
 和泉さんは椅子から降りて床に膝をつき、私の泣き顔を覗き込んだ。
 そして───
 彼の暖かな…涙に濡れた唇が私の唇に触れた。




 明け方、目を覚ました。
 隣に、眠るひとがあった。
 閉じた瞼の縁の睫毛の思いがけない長さ。すっとした眉の形。やわらかく流れる、髪。
 それらの黒い流れの先に青白いなだらかな広がりがあった。
 部屋は明けてゆく空の淡い光を湛えた水の底のように、青く、静かだった。私はそっと手を伸ばし、指先で軽くその頬に触れてみた。
 ゆっくりと指を滑らせる。
 頬の稜線から首筋へと下って肩をカーブする。鎖骨に触れて手を止めた。
 肌の下の確かな感触。
 なつかしいにおい。あたらしいにおい。───まざりあった、そのひとのにおい。
 そのにおいとあたたかさに頬を寄せて目を伏せると、そのひとはかすかに声を洩らして、私がいるのに気がついた。
 大きく重い手のひらが、そっと私の頭に載って、髪を軽く撫でた。
 すると、再び静かに眠りが寄せて、私の意識は水に溶けるように消えた。
 次に目覚めた時、そのひとは私に背を向けて、袖口のボタンを留めていた。ゆっくりと振り向いて目覚めた私を見つけると、頼りなく寂しげに微笑み、深くやわらかな囁くような小声で、おはよう、と言った。
 そうして上着を手に立ち上がり、枕元にあった眼鏡をかける。わずかに、痛みを堪えるように目を伏せて、何か言いかけ逡巡しているようだった。上着に袖を通す広い背中。その隙に床に落ちた服を拾い上げた。ブラウスの袖を探る手が縺れる。ふいに振り向いたそのひとは私の肩に手を置いて顔を寄せた。
 肩と唇に伝わる体温。
 それが、───ゆっくりと、離れた。
 寒かった。和泉さんは、静かに部屋を出ていった。