街はクリスマスカラーに彩られていた。もみの木のエバーグリーン、真っ赤なリボン、ゴールドのプレゼントボックス。街路樹にはイルミネーション。吐く息が白く流れてゆく。イルミネーションを携帯で写真に収め、笑い合う声。
 ───雑踏に居る時ほど、孤独を感じる、と言ったのは確か若くして亡くなった歌手だったか。
 涼やかな香りのあたたかい胸。私を抱きしめた腕の力、皮膚の質感までも───思い出して、内心「うわ」と、巻きつけたストールに顔半分を埋めた。
 ショーウィンドウの前で足を止める。ぼんやりと映る自分……その後ろを人影たちが行き交っている。

 ≪もし海音がうさぎになったら、おいで。抱いてあげる≫

 東さん。
 もうどこにも行かないと思ってた。東さん以外の人なんて、考えられないと思ってた。なのに───
 恋しくて。
 目がじんと痛くなった。あれは……彼にとって、過ちだったのだろうか。
 雑踏の中は、寂しかった。彼はもう大阪に帰っただろう。遠い───溢れそうな涙を必死に堪えた。六角屋ももう閉まっている時間だ……行き場がない。行ったところで誰にも話せない。
 寂しさを暖めるように手をトレンチコートのポケットに入れて、歩き出した。菜のはなへ行こう。何も話せなくても、あそこは暖かい───
 電車を乗り継いで菜のはなに着いた。誰かがカラオケを歌っている声が聞こえている。ドアを開けた。
「いらっしゃい。…ああ、ミオ!」と菜摘姉ちゃんの明るい声。ホッとした。
「こんばんは」
「もう、全然来ないから心配してたのよ」
「ああ…ごめん…」
 菜摘姉ちゃんはじっと私を見ていたが、
「…忙しいの?疲れてるみたいだけど」
 ストールを取ってコートを脱いで、「まあ…忙しかったかな」と答えた。カラオケを歌っていた人の「こんばんは」がマイク越しに響いたのがおかしくて、「こんばんは」と答えながら笑った。───やっぱり、ここは良い。カウンター席に着いた。
「そういえば太一に似た子はどうしてる?」
「忙しいみたい」
 私もだけど。菜摘姉ちゃんがチキンライスを作っている。「オムライスにする?」と訊かれて「うん」と頷いた。
 賑やかな笑い声、カラオケを歌う声。それを聞いて黙っていた。
 オムライスが出来上がって、目の前に置かれた。菜摘姉ちゃんは、「元気の出るオムライスよ」と微笑んだ。「ありがと」とつられて私も笑顔になれた。「ん、めっちゃ美味しい」
「…無理してない?」
 姉ちゃんの一言が突き刺さった。
「……」
「ミオは昔から何でも一人で抱え込むから」
 もぐもぐとオムライスを食べて黙っていたが、それを飲み込んで、「大丈夫」と言った。
「伊野さんとか…太一に似てる子とか…相談相手もいるし」
 嘘のような、本当のような、曖昧な答えを返した。「なら良いけど。…お酒にする?」と姉ちゃんは心配そうな顔をした。私は「ラム酒、ロックで」と笑顔を作った。
 和泉さんが飲んでいたのを真似したくなったのだ。
「ちょっとにしときなさいよ、強いから」
「はーい」
 顔を見合わせてふふっと笑った。大丈夫。笑っている、私は。
 甘いラム酒が冷たくて心地いい。グラスを揺らして、氷のカラと鳴る音を楽しんだ。
 ≪───後戻り出来ると思う?≫
 後戻りなんて、出来ない。なかった事になんて出来ない……
 胸の痛みをラム酒の甘さで慰めた。




 そういえばラジオのモデルの件はどうなったろう。
 気になってはいたが、話しかける事はしづらかった。和泉さんとの事を見抜かれてしまいそうで。六角屋にも行けないまま、1週間が過ぎた。忙しいのが救いだった。仕事に熱中していれば、余計な事は考えずに済む───ラジオの事は余計ではないが。一度、メッセで声をかけてみようか、と思ったが、和泉さんとの事を思うと……胸を締めつけられた。今はまだ彼と普通に話せない、そう思ってメッセを送るのはやめた。
 ラジオから電話があったのは、そんな頃だった。
 帰宅してドアに鍵を挿すと、その向こうで電話のベルが鳴っていて、慌てて部屋に飛び込んだ。「はい、石崎です」と出ると、ラジオだった。
「ミオさん?ラジオです。こんばんは」
「こんばんは。…どうしたの?家に電話なんて珍しい」
「携帯にかけると邪魔しちゃう時もあるじゃない?」
「ああ、そういう事…」
 私は前髪をかき上げて、目の前の壁のカレンダーを見た。「今大丈夫?」と訊かれて「うん」と答えた。
「モデルの件だけど」
「うん」
「やってみる事にした」
「…そ…そうなの?」
 半ばわかっていたような、意外でもあったような、複雑な心境だった。
「ただ、もうすぐ卒業だから、本格的に活動するのはそれからにしてもらった。急ぎで一つ、オーディションがあるんだけど。学生のうちに一つは仕事してみて、って言われて…『学生』の肩書きが要るみたいでね」
と、彼は苦笑したらしいフッというため息をもらした。
「じゃあ…医者にはならないの?」
「うん」
 決めたのか───
「ごめんね、せっかく湯島のお守りくれたのに」
「ううん、それはいいの。ただ…」
「ただ?」
「頑張ってたのに…もったいないなって…」
「親にも言われたよ。でも、説得した。それでこんなに日にちがかかって、返事が遅れてみんなに迷惑かけたけど」
「みんな?」
「伊野さんにも、ミオさんにも」
「私は迷惑じゃないから…それは大丈夫。ラジは…考え抜いて決めたんだよね?」
「うん」
「後悔しない?」
「うん」
 即答だった。ラジオの事だ、充分に考え抜いたんだろう。
「ラジがモデルになったら、撮らせて欲しいって伊野さん言ってたよ」
「うん、もう言われた」と言ってクスと小さい笑い。
「僕も撮られるなら伊野さんがいいな。…ところで」
「うん?」
「僕のこと避けてた?」
「…え?」
 そんな感じがしたのだろうか。図星のような、違うような。
「ううん。忙しいだけ…もうすぐ師走だし」
「そう…よかった、気になってたんだ」
「ごめん」
「ううん。じゃあ、また六角屋で」
「うん、またね」
 先に電話をかけたラジオが通話を切るのを待った。なかなか切らない……和泉さんを思い出して痛む胸を悟られないように、私からそっと受話器を置いた。
 バッグから手帳を取り出し、栞代りに挟んだハガキを見た。
 『写真展AIM』。差出人は伊野さんだ。会期と場所の案内の下に小さな文字。
 伊野信吾『決心』。
 裏返すとラジオの後ろ姿。シャツを脱いだ裸の背中、細長いジーンズの足。素足の手前にスニーカーとシャツが落ちている。たったそれだけの写真。
 空木秀二の『宿命』に似た一枚……
 この時から、彼の決心はさだめだったのだろうか。
 ため息が出るほど美しいショット。きっと、彼ならモデルとして大成するだろう───
 ハガキを手帳に戻して閉じた。




 師走ともなればカタログ春号の製作がスタートする。私が担当するファミリー向けファッションのブランドも立ち上げて1年。売れ行きは上々で、去年より商品の種類も増えていた。めまぐるしく過ぎる日々。六角屋へ行こうと思ったのは、土曜日だった。週休二日は確保されていた。その分残業が続くけれど。木曜日になんて、寄れる余裕もなかった。ドアノブの壊れた戸を引いて、この感じ、懐かしい、と思った。大袈裟だけど。
「よう、パソコ。久しぶりだな」
 変わらない遠山さんも懐かしかった。他に客もない午後のひととき。
「ご無沙汰してます」
「座れよ」
 カウンター席に着くと氷水のグラスが置かれ、遠山さんは葡萄柄のカップを棚から取って、モカを淹れる準備にかかった。
「ラジオの事、知ってる?」
「どれの事?」
 他に何かあるのか?と思いながら「モデルになるって話」と答えた。
「聞いたよ」
 報告済みか。頷くと、「医者以外の道があって良かったな」と遠山さんは言った。
「言わなかったけど、あいつの耳と性格じゃ無理だと思ってた。すぐに自滅すると思って」
「自滅…」
「あんなに人の心がわかって、それで同調しちゃうんだから。心身ともにぶっ壊れると思って心配だった。制御が出来るったって、限界見えてたしな」
「限界…」
「なんだよ、さっきからおうむ返しに」
「あ、いや…遠山さんもそう思ってたのかって…」
 私だけがラジオを理解していなかったような気がした。
「今日来るんじゃねーか?オーディションだって言ってたし」
「あ、今日なんだ」
 何度も頷きながら…『学生』の肩書きが必要だって言ってたな、と思い出した。彼ももう二十五歳だ、モデルデビューとしては遅い方だ。だから『学生』を名乗れるうちに、という事か……。差し出されたコーヒーカップを手に取って一口啜った。久しぶりの美味しいコーヒー。
 ───和泉さんと初めて会ったのもここだったな……こんな風に誰もいなくて……
 つい、思考が彼を思ってしまう。それを追い払おうと軽く頭を振って、椅子の背もたれに腕を乗せて後ろを振り返った。
 空木秀二の『北天』。
 遠山さんが背後で静かに折りたたみ椅子を起こして座るのがわかった。
 回転する星々の弧が中央の赤い星を遠くに追い、また近くに引き寄せる。雪の結晶はそれに合わせて呼吸するように離れては近づいて来る。距離感が狂う───いつか梢子さんが、山崎君のシャツを見て言ってたっけ。ふ、と笑いが洩れた。そしてもう一つ思い出した。ラジオが言っていたのだ。
 ここは、私たちの目の中で伸び縮みする空間なのだ、と。
 絵の廊下の方からドアの開く音がして、入り口を振り向いた。静かな足音に続いて、ラジオが姿を見せた。私を見つけて「あれ?ミオさん」と驚いた顔をした。ぴんと立った犬の耳とふわふわと振るふさふさの尻尾も久しぶりに見た。
 彼は笑顔で近づき、手にしたギターケースをカウンターに寄せて置くと私の隣の椅子に座った。この感じも懐かしい……まるで時が戻ったようだ。
「オーディションだったって?」
「うん」
「ギターなんてどうしたの」
「特技を披露しなくちゃいけなかったから」
 なるほど。
「お守りみたいな物だしね」
「お守り?」
「めちゃくちゃ緊張した」と言ってククと笑った。
「でもギター弾いてるうちに落ち着いて。歌も歌ってって言われたから歌ったよ」
「何の曲?」
「オフコース」
「古いな」と遠山さん。
「この前ちょうど和泉さんとオフコースの話になったから」
 ラジオはケースからギターを取り出し、ぽろろん、ぽろろん、とチューニングを合わせた。
 彼には言えない。和泉さんと……
 緊張を気づかれないようにコーヒーを啜った。
「では聴いてください。『愛を止めないで』」
「やめろ」と遠山さんが笑った。
「こんな感じでね」とラジオは弾き始めた。イントロが終わったようなのに、歌わない。アルペジオでコード進行してゆく。やがてストロークに変わり、ワンコーラスで演奏が終わった。
「歌わないのかよ」
「やめろって言ったの遠山さんでしょ」
 そう言いながら、またジャンジャンと弾いた。
 愛を止めないで、と始まるサビのフレーズ。たったそれだけ、だが胸に刺さる出だしの歌詞が優しさに溶けてゆく…そんなフレーズを歌ってギターを傍らに置いた。優しい微笑。
「ミオさん。…泣いていいんだよ。僕の前では」
 そう言われた途端───
 堪えていた涙がぽろぽろと落ちた。
 遠山さんの手が伸びて来て、私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。六角屋は……静寂に包まれた。