月曜日。バレンタイン当日、定時で上がって伊野さんの事務所を訪ねた。アポは取ってあったので、伊野さんは待っていてくれた。
「よう」
「おう」
 短い挨拶を交わして、保冷バッグをテーブルに置いた。「座れよ」と促されて従う。私はチョコの包みを二つ出した。「これが伊野さんので、こっちはひかる君の」
「ひかるの方がでけぇじゃねーかよ」
 当のひかる君は、既に帰っていた。明日渡しておいて、と頼んだ。
「伊野さんのはお酒のアテにと思って…アーモンドチョコなの。小さいの!」
「そうか。サンキュ」
 そう言いながら、もう包みを開けている。チョコを一粒取って口に入れ、冷蔵庫を開けて缶ビールを出してグラスと一緒にテーブルに置いた。
「あ、まだ寄る所あるから…お茶ある?」
「好きなだけどうぞ」と冷蔵庫の戸をまた開ける。私は緑茶のペットボトルを取ってソファに戻った。向かいに伊野さんがどかっと座った。「で、寄る所って仁史んとこか」
「ああ、まあ…そうかな。いつも会う喫茶店で会えたらね」
「約束してんじゃねーのか?」
「してないけど…」
「おまえら、まだ付き合ってねーのか」
「まだも何も…仁史君は私のこと何とも思ってないしさ。私だって…」
「例の奴か?」
 伊野さんは唇についたビールの泡を親指で拭って、私を上目遣いに見た。
 ───言えない。
 チョコの写真を送ったとか。どさくさ紛れにメアドを交換したとか……
 そんな些細な事が嬉しい自分とか。
「俺はな、仁史とおまえ、お似合いだと思ってる。あいつにならおまえを任せられると思う。だからずっと前……仁史の走り去る写真を撮った後な、『東を安心させてやれ』って言ったんだよ」
 そんなに前から?
 驚いた。
「だって、その頃はまだ伊野さん、仁史君の事もよく知らなかったじゃない」
「だから電話で直に話した時に思ったんだよ」
 そう言って、いつもの癖───手のひらを首の後ろにまわす仕草をした。あ、言葉を選んでいるな……と思った。
「まあ、直感だな。だからその……気になる奴?そいつがおまえを迷わせてるなら、やめとけって言う。人を惑わす中途半端な奴なら俺が認めない」
 そしてまたビールを一口飲んで、「東の代理だ」と言った。
 ───中途半端。
 ≪後戻り出来ると思う?≫
 彼女にキスした事を『忘れる』と言われて、後戻り出来ないのは、そのただ一度のキスの重みを感じているからだ。彼女から離れる事にしたのも、トモさんがいたから───彼女に必要なのは彼だと思ったからだ。
「和泉さんはそんな人じゃないよ…」
 気づいたらそう呟いていた。
 私との事は、今は宙に浮いているかもしれない。けれどそれをそのままにしておく人じゃない。それは昨日のチャットで謝ってくれた事や「僕の為に泣いてくれた君を、愛おしいと思ったのも本当だよ」と心を曝け出した事からも感じられた。
 何より、彼女を大切にしていた。
 だから私との事で彼女を裏切ったと言って身を引いた───
「あれ…?やっぱり中途半端なのかなあ…?」
 私は苦笑して俯き、伊野さんからの視線を前髪で遮った。
 あれは和泉さんにとっては過ちだったのだから……
 伊野さんがすっと立ち上がって、私の隣に腰を下ろした。私の頭に手を回して肩に抱き寄せた。
「泣いてもいいぞ」
 その言葉につられて涙が落ちた。
「伊野さんも同じ事言うのね…」
「ん?」
「…仁史君にも言われた。私、そんなに泣き虫かな」
「自覚ねーのかよ」伊野さんはフッと鼻で笑った。
「東さんにも…言われたっけ…」
「ああ、言ってたな」
「ごめん、もう大丈夫」凭れていた頭を伊野さんの肩から離した。頬についた涙の跡を拭って、「もう行くね」と席を立った。
「仁史によろしく言ってくれ」
「うん」
 事務所の扉を開けると小雨が降っていた。




 電車で移動する間に、小雨は雪に変わっていった。駅で折りたたみの傘を開く。白くチラチラと光りながら落ちてくる雪は、傘を差さないラジオが空を見上げて雪をぱくんと食べたのを思い出させた。駅から脇道に入り、公園を抜ける近道。いつも通りだ…雪だけがうっすらと植え込みに積もり始めていた。階段を降りて、まっすぐ六角屋へ。入り口の階段の所に看板を置くイーゼルがなかった。遠山さんだけでも居るかな…と思いながら、階段を降りた。
 六角屋の扉を開けると、ギターの音とラジオの歌声が聞こえた。
 昨夜、和泉さんがチャットで話していた曲だ───歌詞でわかった。一部引用でそこしか話さなかったけど、こんな切ない歌詞だったのか……和泉さんはどんな思いでこの曲を選んだのだろう。
 私は絵の廊下に立ち止まり、それを聞いていた。ギターの音が止んで、私はようやく、廊下を歩いて店の入り口に立った。ラジオと、カウンターの内側の遠山さんが振り返る。
「よう、パソコ」
「ミオさん。こんばんは」
「こんばんは。…今の歌、何?」
「オフコースの『Yes-No』だよ」と言いながら、傍らにギターを置いた。「最近、オフコースがマイブームでよく弾いてるんだ」と言ってクスと笑った。
「そう…」
「昨日、和泉さんと話したの?掲示板にカフェにいるってあったけど」
「うん」と答えながら何もない風を装って隣の席に座った。察しのいいラジオのことだから、何か感じているかもしれなかった。遠山さんが黙って私のコーヒーを淹れにかかる。私は保冷バッグから二人分のチョコを取り出した。
「これ、遠山さんに。こっちはラジね」
「ありがとう」と微笑むラジオの笑顔が眩しい。自分の中身が真っ黒な気がした。
「雪になったね」
「うん」
「不思議な力を宿した結晶が無数に降ってくる……」
 そう言って、ラジオは冷めたコーヒーを啜った。
 彼のおじいさんが言っていたんだっけ。結晶には不思議な力があるんだよ、と。
 私は訊いてみた。
「不思議な力って、どんな力…?」
「……」
 ラジオは煙草を取り出して、火を点けた。ふぅ、と煙を吐き出す。
「僕の知る限りでは……空間を歪める事かな……。雪の結晶に封じ込められた力があるとして、手のひらで雪を受けると体温で溶けるじゃない」
「うん」
「その溶けた水にも不思議な力は残っていると思うんだ。砂糖を舐めて溶かすようにね。僕はむしろ、結晶にと言うより、結晶が溶けた時にその力は発現するんじゃないかと思ってる」
 そう言って後ろを振り返った。空木秀二の『北天』に視線を投げる。
「あの大きな結晶には、きっと空木秀二が封じ込めた想いが存在するんだ……」
 私も『北天』を振り向き、その言葉を噛み締めた。




 今日は珍しく、ラジオが傘を持っていた。「ギターが濡れるから」とギターケースを右肩に背負い、傘を差した。右寄りに斜めに持つ。左の肩に白い雪がぽつぽつと載った。それを見て、視線を正面の道に戻すと───
 ほんの数秒のことだ。なのに、先程まで誰もいなかった道の先に人が立っていた。
 高瀬真臣。
 どうして───
 彼も私たちを見て驚いているようだった。辺りを見回し、やがて納得したように、虚ろな目で何度も頷いた。彼は傘を持っていなかった。私は彼に歩み寄り、傘を差しかけてやった。
「何してるんですか、こんな所で」
「…『北天』を見に来たんだと思います」
 ───と、思います?
「他人事みたいに何を…」
「無意識に願ったのでしょう…『北天』が見たいと」
「六角屋はもう閉まってますよ」
「合鍵あるよ」とラジオが言った。「どっちにしろ、ここじゃ話せないから六角屋を借りよう」
 そう言うと、彼はくるりと踵を返し、森宮生花店の戸を叩いた。「遠山さん」と呼ぶと、戸の向こうのカーテンが開いて遠山さんが顔を出した。
「店を借りていい?」
 遠山さんは戸を開けて、高瀬さんの姿を認めると「うん。いいよ。自由に使って」と言ってこちらに会釈した。遠山さんは席を外してくれるらしかった。
 六角屋に戻った私達は、まずタオルで濡れた上着の肩や髪などを拭いた。そしてラジオがコーヒーを淹れた。高瀬さんがいつも座っていたテーブル席に、向かい合って座った。
「今日はどうしたんですか。出張ですか?」とラジオが口火を切った。
「いいえ…」
 高瀬さんはまだ呆然とした様子で、ゆっくりと『北天』に目を遣った。
「ああ、そういえば…」と振り向き、「美緒子に僕からだと花束を渡したそうですね」と悲しげな目をした。
「どうしてそれを?」
「美緒子から聞きました」
 私は思わず、砂糖を掬ったスプーンを持つ手を止めた。
「彼女は僕の事を、ほぼ思い出していました。なぜ───あんな事をしたんですか」
 ラジオが「それがあなたの望みだと思ったからです」と答える。私は『遠山ブレンド』に砂糖を入れてかき混ぜながら、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせていた。
「あんな絵を描かなければ良かった」
 彼は以前と同じ事を言った。
「でも、描かずにはいられなかった───違いますか」
 ラジオが低い声で尋ねた。高瀬さんは思いがけない事を言った。
「僕も忘れていたんです。あの景色を。だから……」
 彼はカップに手を添えて、コーヒーを飲むでもなく、目を伏せた。
「あの景色が頭に浮かんだ時は、描かずにはいられなかった」
 ≪確かに───そう、僕は空木秀二と同じ物を描いたんだと思います。彼も僕も、同じ物を、記憶を形にとどめたかったのかもしれません≫
「でも、思い出してはならない事まで、彼女は思い出していました。だから僕は今、ここに居るんです」
 思い出してはならない事───
 やはり、高瀬さんは美緒子さんの記憶を消していたんだ……
「それは何ですか?」とラジオはストレートに訊いた。
 高瀬さんは答えられないようだった。ラジオがまた直球を投げた。
「結晶の持つ秘密ですか」
「……」
 目を見開いてラジオを見ていた高瀬さんは、ふっと小さく溜息を吐いた。
「どこまで知ってるんですか?」
「多分あなたと同じくらいには」
 二人は見つめ合い───いや、睨み合っていたのか───それにしては、二人の瞳は潤んで悲しげだった。「…話してもらえませんか。知りたいんです」とラジオが言った。
「後悔しますよ」と高瀬さんはまた『北天』の方を見た。