限りなく続く音-1

 石垣の連なる細い坂道を、水着の子供が駆け降りてゆく。八枚並べた正方形のタイルに描かれた風景画の中で、手前のタチアオイの隙間を時折誰かが横切ってゆく。朝から強い日差しは窓の外を白く霞ませて、わずかにこぼれた光の破片がこの部屋の床に落ちて息絶えていった。
 光の中で何かがきらきらと音もなく舞っている。あれは埃だと父は言ったが、私は虫だと思っていた。眼に見えない小さな小さな虫が空気中を漂っている。
 私はベッドの中からそれを見ていた。
 身動きもせず虫たちの動きを眼で追っていると、廊下を駆けて来る軽い足音がして、いきなり部屋の戸がぱんと大きな音を立てて開いた。
「起きろちなつ、いつまで寝てんだよ」
 飛び込んで来たいとこの草太が部屋の空気を割って、虫たちは散り散りに逃げた。草太は私の視線が自分に向けられていないので「何見てんの」と窓の方を見た。私はそれには答えずにベッドの上に起き上がった。
「そうたのそうは騒音の騒」
「え?」
「出てってよ、着替えるんだから。それから勝手に入らないでよ」
「何だよ、何怒ってるんだよ」
 草太は唇を尖らせて出て行った。六年生にもなって、女の子の部屋にいきなり入って来るなんて、何て無神経なんだろう。頭の悪い証拠だ。
 草太に初めて会ったのは、半年前の祖父の葬儀の時だった。
 初めて会うのは草太だけではなかった。草太の両親、つまり叔母夫婦と会うのも初めてだったし、何より私は自分にそんな親戚がいることすら知らなかった。
 斎場で祖父が焼かれている間、親戚たちは控え室でお茶を飲みながら談笑していた。子供と呼べる年齢なのは私と草太の二人だけだった。これは誰だろう、と母の後ろから草太を眺め回していると、草太はニッコリと笑って私に近づき、「ジュース買っていいって。行こうよ」と手のひらの二百円を見せると私の手を強引にひっぱった。
 思えば草太は最初からこうだった。私の空気をかき乱す。
 控え室から少し離れた自販機の前で、私はようやく「あんた誰」と訊ねた。彼は短く「草太」と答えて、私の手を握りしめたまま「ねえ」と私を真顔で見た。
「おじいちゃんが死んだのに、どうしてみんな笑ってるの」
「え?」
 私は草太の顔を初めて間近で見た。まつげの濃い大きな目の縁に、涙の乾いた跡があった。お坊さんの読経の間も、焼香の時も、草太は大粒の涙をぽろぽろとこぼしていて、私は(誰だか知らないけど男のくせにみっともない)と思ってそれを見ていた。
「俺あそこにいたくない。ちなつもここにいようよ」
と草太は言って、自販機に百円を入れるとコーラのボタンを押した。私は「どうして私の名前を知っているの」と訊いた。
「お母さんから聞いてたから。俺と同じ五年生のいとこがいて、千夏っていうって。ハイ」
 ハイ、と言いながら草太は私に百円を差し出した。私は自販機のジュースの缶を眺めて、どれにしようかと迷った。草太は本当に戻る気はないらしく、傍らの長椅子に腰をおろすとコーラをごくごくと飲んだ。
「…コーラ飲んで怒られない?」
「何で?」
「コーラは歯が溶けるから飲んじゃだめだってお母さんが言うもの」
「えーっ、ちなつはコーラ飲んだことないの?」
「うん」
「バカ、そんなの迷信だよ。今飲んじゃえ。誰も見てないもん、だいじょうぶだよ。俺、黙っててやるよ」
 迷信というのとは違う気もした。よく知らない草太といういとこと二人きりなのは少し嫌だったが、ずっと飲んでみたかったコーラを飲むチャンスを見過ごす手はなかった。私はどきどきしながらコーラを買って、草太の隣りに腰掛けた。初めてのコーラの炭酸は草太のように突然で戸惑った。
「ねえ、おじいちゃんて、ちなつにも怖かった?」
「私にも?」
「お母さんが怖い人だって言ってた」
 そう言って少し俯いた草太は先程の真顔に戻っていた。
「怒ってばっかで怖かったよ。でもお父さんたちはおじいちゃんを嫌いなんじゃないよ。長生きしたし幸せだったし、苦しまずに死んで良かったねって言ってたよ」
「ふうん…」
 草太は残りのコーラをごくんごくんと飲み干して、軽いげっぷを一つした。「行儀悪いよ」と私が言うと、「しょーがねーじゃん、コーラ飲むと出るんだもん」ともう一度、今度はわざとげっぷをしてみせた。祖父は行儀にうるさい人だった。(だからコーラを飲んじゃいけなかったのかな)と思った。
 私は水着の上にワンピースを着た。朝食の後で草太と泳ぎに行く約束なのだ。廊下をぐるりと廻って居間の障子を開けると、奥に座った草太が「おせーよ」と睨んだ。父の席にいる草太。朝早くに出勤する父とは夕飯で一緒になるだけだ。いつもは空席の朝の食卓に、見慣れぬものが入り込んでいる。私は落ち着かない気持ちで草太の向かいに正座した。母がご飯をよそってようやく食事が始まった。草太はあじのひらきをおいしそうに食べながら言った。
「朝からごはん食べられるなんていいなあ、俺んちなんていつもパンだよ。朝は俺一人だもん」
「…草太君ちは共働きだものね」と母がゆっくり答えた。私は食事の時に大きな声で話す草太に驚いていた。祖父がここにいたら「飯の時は静かにしなさい」と怒っただろう。そう言うと、草太は黙り込んで、おかわりを二回して、ごちそうさまと頭を下げて立ち上がろうとし、「足が痺れた」と言ってごろりと転がった。



 くねくね曲がった細道を、草太と二人、浜へ向かって降りてゆく。目覚めて見ていたタチアオイの絵の中をくぐって、波音の源を目指す。民宿や海の家の看板の並ぶ向こうに水平線が見えると、草太は「早く行こう」と私の手を握って駆け出した。
「海が近くていいよなあ。毎日泳げるじゃん」
 砂浜にビニールシートを広げ、二人で四隅に砂を載せていると、草太は昨日ここへ着いた時と同じ事を言った。私は「毎日なんて泳がないよ」と答えた。草太は「俺なら毎日泳ぐよ」とニコニコした。草太は埼玉に住んでいる。よっぽど海が珍しいのだろう。単純な頭だ。
 海はいつもここにある。何かの確信のように。そして絶えず波音を響かせている。時に静かに、時に叫びを上げて、変わらず一つを訴え続けているのだ。私は海が嫌いだった。草太の遊び相手にあてがわれなければ泳ぎに来ることなどなかった。
 あの日、結局叔母が呼びに来るまで、私たちは自販機の横の長椅子に座っていた。コーラの炭酸が飲むたびに胸につかえて、なかなか飲み終えることができなかったのだ。叔母は私たちを見て「あらまあ、すっかり仲良くなったのね、良かったわ」と勝手に決めつけた。父も「夏休みに遊びに来るといい。海があるよ」などとまるで海が自分の物のように言って、今回草太を呼び寄せたのだった。
 私がワンピースを脱いで水着になると、草太は目を丸くした。
「俺、どこで着替えればいいの」
「海の家で脱衣所を借りれば?」
「やだよ、金取られるじゃん。いいや、ここで」
 そう言ってTシャツを脱ぎ捨てた。
「やだ、恥ずかしいじゃない」
「ちょっとダケヨ。アンタも好きネエ」
 草太はビニールシートの上に寝転がって、加藤茶の真似をしながら短パンのウエストのゴムに手をかけた。慌てて背を向けると、アハハと笑って「嘘。あそこの車の陰ではきかえようっと」と立ち去る気配がした。やっぱりバカだ、草太なんて相手にしていられない。私は海に向かって駆け出した。
 ここの波は少し高い。平泳ぎで顔を上げて浮かんでいると、ふわりと持ち上げられ、がくんと落とされる。波が近づくのが見えるたび、その高さを目で測って待つ。この浮遊感だけは嫌いじゃなかった。波の冷たさは孤独と親しい。
「ちなつー」
 波の頂上から振り返ると、草太が顔に波をもろにかぶるところだった。
「わあ、塩っからい!」
 草太はペッと舌を出し、片手で顔をごしごしこすった。
「あそこのブイまで競争な」
 そう言うと、もう先に泳ぎ始めた。草太の泳ぎはがむしゃらだ。がむしゃら、というのは、波が近づこうが調子を変えずにぐんぐん泳ぎ、波をかぶってばかりいたからだ。高い波にひっくり返るのが見えて、(本当にバカなんだから)と草太に近づき、腕をひっぱってやると、水面に顔を出した彼は「あーっ、びっくりした!」と大声で言って笑った。浜の方から監視員が拡声器で私たちを呼んだ。「あー、ブイに近づいてる人ー、二人ー、危険ですからー、戻ってくださいー」。見るとブイまであと十メートルくらいだ。
「何だよケチ、ブイまでいいんじゃないのかよ」
 浜を睨んで唇を尖らせた草太はこちらを振り向き、「なあ」と笑顔を見せた。つられて私も笑みを返すと、浜へと並んで泳ぎだした。草太は私の速さに合わせて泳いでいた。
 脱衣所を借りる分を惜しんだ小遣いで、私たちはかき氷を買った。ビニールシートに並んで座り、海を見ながらかき氷を食べた。日差しが腕や脚をちりちりと焦がし、それを癒すように潮風がひんやりと撫でてゆく。いちご味の氷が喉を滑り落ち、私は外から内からじわりとしみる何かを感じて目を伏せた。管理事務所のスピーカーから流行りの歌が流れていた。その歌を聴いて、草太は「トシちゃんとマッチとどっちが好き?」と訊いた。私は心地よい感覚を破られたことに(そんなのどうでもいいじゃん)と思って「ヨッチャン」と答えた。
「俺ってマッチに似てるって言われる」
「ふうん」
 それもどうでもよかった。
「ひょろっとしててすぐ頭に火がつくとこが」
 思わず吹き出した。
「何だ、そっちのマッチかあ」と仰向いて笑った。草太は私の手の紙コップを覗き込んで「もう水になっちゃったね」と言った。何気なく「飲む?」と訊くと「うん」とコップを奪って赤い水をごくんと飲んだ。その瞬間、私の耳に波音が戻って、今まで聴こえていた音がかつてないものだったことに気がついたのだった。




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