限りなく続く音-4

 息を切らし汗を流して登った山の林を抜けると視界がひらけた。どこまでも広がる空と海ばかりがそこにあった。見下ろせば漁をする船が波に揺られている。トンネルでくぐった山を隔てた所にある小さな漁港から沖に出た船だ。私たちは手をつないだまま、岬の突端に立って崖下を覗き込んだ。
「危ないよ草太」
「うん。だいじょうぶ」
「怖くないの?」
「怖いよ。でもちょっと平気」
「うん」
 草太の言うことが、今度はわかった。私も同じ気持ちだったからだ。
 揺らめく海面が光を撒き散らし、私たちの目を眩まし吸い寄せようとするのを、切り立った崖の縁で見ている。
 危ういのは足元ではないのかもしれなかった。
 つないだ手が私たちを地の果てに留めていた。だから、怖いけれど、怖くなかった。
 私たちは平らな岩の上を歩いて、浜辺の方を向いた。草太は「ここからだと、ちなつのうちは見えないね」と空いた手を目の上にかざして山の方を見た。
 いつかは海の近くに住みたいと考えていた父が現在の家を買って移り住んだのは、私が生まれてまもなくのことだった。だから私は覚えていないが、後に聞いた話によれば、海が好きな父は私に「豊かな自然のある所でのびのびと育って欲しい」と考え、祖母も亡くなって独り身になった祖父にも「老後をのんびりと過ごせばいい」と言って、同居を勧めたということだった。祖父がどう考えたかは知らないが、父の「豊かな自然云々」が私にとって本当に良いことなのか、私自身は疑問に感じていた。それは父の理想だったが、日々に目にする海は、そこにあるだけで私を圧倒した。
 何者にも動かし難い絶対的な存在に幼い頃から漠然と気がついてしまった私は、世界に怯えて暮らしていた。
 祖父は海のように、家での絶対者だった。小言も多かったが、自らにも厳しい人だった。波間を泳ぎ、全身で海を感じる時、私は自分の孤独と海の懐の深さをいつも思う。海では誰も独りきりだ。けれど海は独りを包み込む。冷たく深く。祖父は私と二人きりになると優しかった。祖父は海の人だった。
 それなら、荒れた海の遠い沖まで泳いで行きたい草太は、独りになりたいのだ。そして独りを抱きとめて欲しいのだ。
 暑い日差しを避けて四阿のベンチに腰掛ける時、私たちはようやくつないだ手を離した。私は水平線に目を遣ったまま「草太」と話しかけた。
「おじいちゃんは、草太のこと嫌いじゃなかったと思うよ。会えてたら、きっと、草太にも優しかったよ」
 祖父は海の人だったから。
 草太も海を見つめて「うん」とだけ答えた。



 そこは波音もかすかで、訪れる人もなく、私たちは小声で話をすることができた。
 聡子叔母さんという人は、初めて会った時の印象の通りの人物らしかった。
 葬儀の席で、喪服に身を包み化粧を控えて親族の一番後ろにいても目をひく、鮮烈な存在感。それは自身が抑えようとしてもどうにもならないほどの激しさで、草太に語った言葉によれば、
「自分でもどうしようもなく人を傷つけてしまうことがあるものなのよ」
 それが理由なのか、厳格な祖父の許では生きるのが難しいと感じた叔母は家を飛び出したのだという。叔母と祖父が最後に交わした言葉が「もう親子とは思わない」だったため、叔母も帰るに帰れなかったということだった。
 叔母は兄、つまり私の父とは年に一度くらい連絡を取っていたそうで、祖父が倒れたことも知っていた筈である。それでも戻らなかったのはなぜなのか、それは草太も知らないと言った。私が草太や聡子叔母さんのことを知らなかったのも、祖父が叔母の話を禁じていたからだと葬儀の後で父から聞いた。
 どうしてこんなふうに壊れてしまったのだろう。
 叔母の言う「どうしようもなく傷つけてしまう」そのむき出しの形に思えた。
 草太は潮風に揺れる前髪を掻き上げて、日に焼けた鼻の頭を指先でこすった。
「…二年半くらい前?その頃って…」
と少し考えていたが、「ああ、そうか」と呟いて苦笑した。
「なあに」
「うちの親ってさあ、再婚なんだ。その頃はチチオヤがまだ前の奥さんと別れてなくってさあ」
「……」
「そんなのおじいちゃんにバレたら、また『おまえなんか娘じゃなーいっ!』って追い返されちゃうよね」
 そう言って、草太はハハハと笑った。笑いは最後に力が抜けて、真顔になった草太はぽつりと「だからおじいちゃんは、ハハオヤのことも、その子供の俺のことも嫌いだったんじゃないかって」と言って目を伏せた。
「でもさ、おじいちゃん本当は優しかったんでしょ。きっと俺のこと知ってたら、好きだったよね。ちなつが言うんだもん、きっと」
 目を閉じたまま、草太は嬉しそうに微笑んで言った。
 私たちの髪を揺らし、頭を頬を撫でる風は、海から、祖父の方から吹いていた。



 それから私たちは磯へ下りて、蟹を捕まえたりして遊んだ。草太は何もかもが珍しいというように、岩の間を行ったり来たりし、崖下の窪みを指さした。
「あそこ行こうよ」
「だめだよ、潮が満ちたら帰れなくなっちゃうよ」
「そっか」
 日が高くなってきた。私たちは岩の上に並んで座り、なま温かい潮溜まりに素足を浸して、漁港近くで買ったコーラを飲んだ。草太はお金を持って来なかったので一本しか買えなかったが、いつか祖父と桃を分けたように、私たちは一口ずつ、交代でコーラを飲んだ。炭酸が胸につかえてむせる。
 草太には、祖父との思い出がない。私がずっと独り占めしてきたのだ。
 そう言うと、草太はにこっと笑った。
「うん、だからちなつが教えてよ。おじいちゃんのこと」
 そこで祖父と桃の話をして聞かせた。草太は目を細めて、うんうん、と聞いていた。
「おじいちゃんは、ちなつが悔しいのも分けて、自分の分にして持ってったんだね」
 草太のその言葉に、突然、私の目から涙がぽろりと落ちた。
 お葬式の時にさえ、泣くことができなかった。
 祖父のことを知らなかったのは私の方だ。草太は何も言わずに立ち上がり、こちらを見ないふりで岩伝いに歩いて、背を向けて海を眺めていた。
 私を理解してくれた祖父。
 祖父を理解できる草太。
 わかりあえずに最期の時まで会えなかった祖父と叔母。
 海はひとりぼっちを抱きとめて、何かを叫び続けていた。
 私は両目をこすって、「草太ァ」と背中に呼びかけた。
「コーラ飲んだこと、お母さんには秘密にしてよ!」
 草太はにっこり笑って、きゅっと結んだ口にチャックを閉める仕草をした。
 昼頃戻った私たちに、泳がなかったことを知った母は「どこへ行ってたの」と訊ねたが、「その辺案内してた」としか答えなかった。
 真っ暗なトンネルを駆け抜けた時から、私たちは離れなくなった。夕飯まで、二人で漫画を読み、テレビを観て、特に何を話すでもなく、ただ一緒にいた。
 夕飯の前に仏前にご飯を供える。草太と二人、手を合わせた。
(おじいちゃん、ちょっとでいいから幽霊になって、草太に会いに来てください)
 いとこだからなのか、わからない。ただわかったのは、私たちが似ているのは、私たちがそれぞれに孤独だったからということだった。




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