限りなく続く音-5

 真夜中、私は足音を忍ばせて草太の部屋へ向かった。寝付けなかったのだ。草太も同じようで、明かりを消した部屋で目を開けていた草太は、障子のはめ込みガラス越しに私を見つけると布団の上に起き上がった。私は無言で障子を開け、畳の上を這って草太の枕元に座った。
「何しに来たんだよ」
「出た?おじいちゃんの幽霊」
 庭木が風にざわめいた。私たちは顔を寄せ、声を落としてひそひそと話した。
「出ねーよ。…出るわけねーじゃん。ちなつ、本気にしたのかよ」
「……」
 草太の呆れた口調に、何も言えなくなってしまった。草太は私の困惑を見てとって、「本当はさあ」と枕を抱え込んだ。
「幽霊なんて見たことないし、本当にいるなんて思ってねーもん。でも、もしかしてって、何となく思っちゃっただけだよ」
「…おじいちゃんに会えたらいいな、って?」
 私が言うと、草太は目を丸くして私を見て、ふいに俯き「ヘヘヘエ」と笑った。
「すげえな、ちなつ、俺のことわかっちゃうんだな」
「え?」
 顔を上げた草太はニコニコして「ちなつもおじいちゃんに会いたいんだろ」と言った。思ってもみなかったが、言われてみれば、その通りだった。私はこくりと頷いた。
「今、何時」と草太はスポーツバッグの上に置いた腕時計を取った。暗い部屋に腕時計のグリーンのバックライトが淡く点った。
「おばけタイムまであと二時間くらいあるな」
「草木も眠る丑三つ時ってやつ?」
「そうそう」
 顔を見合わせてクスクスと笑った。私たちは祖父の幽霊を待ち伏せすることにした。
 奇妙なことになったものだ。
 私たちは部屋の奥、押入の横の壁に寄り掛かって並んで座った。部屋は家の北側にあった。左の壁には西向きの窓があり、右は隣の部屋へ続くのを襖が仕切っている。正面には四枚の障子、その向こうの廊下には明かり取りの小窓があるきりで、外灯の光がわずかに差していた。私が廊下の明かりを点けずに忍んで来られたのもそのためだ。
 幽霊を待ち伏せするには、ずいぶんと無防備な部屋だった。
 祖父といえど、幽霊はやはり怖い。
 私たちは万が一に備えて(待ち伏せするのに、万が一に備えるというのもおかしな話だ)、幅の狭い壁に背中をつけて寄り添い、窓や障子のはめ込みガラスの方を注意深く見た。時折、草太の手元がポッと緑に光る。
「ヒマだなあ」
「シッ、黙ってなさいよ」
 どのくらいそうしていたのか、確かめてみると、草太の時計によれば三十分待ったことになる。始めはスリルと期待で興奮気味だった私たちも、次第に退屈になってきた。草太はため息をついて、抱えていた両脚を投げ出した。
 耳を澄ますと、かすかに話し声が聞こえる。
 がっかりしている草太に言えることが見つかって、私は少しほっとした。
「ねえ、お父さんたち、まだ起きてるみたい。だからおじいちゃんも出て来れないんだよ。もうちょっと待つ?それとも…」
「そうか、出て来られないんだ」
 振り返った草太の顔が目の前にあった。先刻のような、期待に満ちた顔をしていた。
「ねえ、おじいちゃんのお墓のあるお寺ってさ、結構近かったよね」
「お墓ァ?」
 思わず声を上げた私の口を、草太が手のひらで塞いで「バカ、シーッ!」と言って動かなくなった。私も耳を澄ます。心臓がどきどきした。部屋に近づく者の気配はなかった。ようやく草太が手を離し、私たちはホーッと深く息を吐いた。
「ちなつ、道案内してよ」
 大声を出すこともできない状況と唖然とするあまり、私は口を半開きにしたまま黙っていた。こんな時間にお墓に行くなんていやだ。
 しかし草太は真剣そのものだった。「頼む、この通り」と手を合わせられて、お墓になった気分だった。



 玄関から外に出れば両親に気づかれてしまう。私の部屋の窓をそっと開けて、裸足で庭に下りた。幸い、私たちのビーチサンダルはタチアオイの足下に洗って干してあった。サンダルをつかんで裸足のまま、夜露に湿った土を踏んで、裏木戸へとまわった。音を立てないよう、ゆっくりと戸を閉めると、私たちは一目散に駆け出した。ペタペタペタ…という足音がやけに響くようで、(見つかりませんように)と祈りながら全速力で走った。
 結局、私たちは息が上がって走れなくなるまで裸足のままでいた。駅への坂道の手前で立ち止まり、電信柱に寄り掛かって一休みをしてサンダルを履いた。駅まで長い急勾配が続く。私たちはどちらからともなく、手をつないでいた。言わなくても、怖いのが互いにわかっていたのだ。
 駅前まで来ると、草太は「思ってたより遠いね」と言った。私は「あの時は車で来てたから近く感じたんだよ」と答えた。駅前の角には、寺の名とそこまでの距離を記した大きな看板が立っていた。歩けば一時間近くかかるだろう。そう言うと、草太は「じゃあ、ちょうど丑三つ時に着くわけだ」と言って笑った。
 寺までの道は舗装されたとはいえ、山道であることにはかわりなかった。ずっと上り坂だ。右に左にと大きくカーブし、曲がるたびに町が遠く広がりを見せていった。
(小さな町だ)
 海と山とに囲まれて、これ以上ひらけようもない町が、夜の闇に沈んでいる。
 ここがもう、墓場なのかもしれない、そんな気がしてきた。
「うわあ、すげえ、見ろよちなつ」
 何を見ているのかと振り返ると、空を見上げていた。「ほら」と指さし、伸ばした腕をゆっくりと動かした。
「天の川」
 草太は天の川を指でたどって、海の方へと腕を下ろした。
「俺、初めて見たよ」
 星々は町で見るよりも大きく見えた。町では見えなかった小さな星も見える。星は空を埋め尽くすほど輝き、その分だけ空は黒々とした闇であることがわかった。
 草太は再び伸ばした手を頭上にかざした。
「宇宙に触ってるみてえ」
 私は「うん」と答えて、草太の真似をして手を伸ばした。宇宙にぽつんと浮かぶ惑星で、生まれ、死んでゆく。間違いなく、ここは墓場だった。
 やがて私たちは寺にたどり着いた。山門の前を通り過ぎて、墓地の塀伝いに歩いた。さして高くもないブロック塀に囲まれた墓地に容易く忍び込む。墓場の中の墓場だ。
 私たちは息を殺して、墓石の立ち並ぶ間をゆっくりと歩いた。祖父の墓の位置はわかっていたが、暗くて一度間違えた。私が「ここ」と小声で言うと、草太が時刻を確かめた。そして二人で手を合わせてから、墓の前にしゃがみ込んだ。
「出るかな」
「わかんねえ」
「本当に出たらどうしよう…」
「バカ、何しにここまで来たんだよ」
 私たちは頭を低くして身を寄せ合った。つないだ手に力がこもった。考えてみれば、祖父ではない幽霊がいくらでも出てきそうではないか。しかし、それを口にするのは怖かった。本当になりそうだったからだ。
 顔を上げれば、私たちを取り囲む墓石が、満天の星空を支える柱のように立っていた。私は草太とふたりきり、宇宙にぽんと放り出されたように感じて心細くなった。「おじいちゃん」と呟きをもらして、私は泣いた。
「おじいちゃん」
 草太も墓に呼びかけると、声を殺して泣き出した。
 私たちは、こんな所で、一体何をしているのだろう。
 こんな宇宙にふたりきりで。




← index || next page →