限りなく続く音-6

 もと来た道を引き返しながら、草太は自分のことをぽつりぽつりと話した。祖父の墓の前で泣いているうちに、いろいろと思い出すことがあったのだろう。
 泣いた後には、必ず穏やかな静寂が訪れる。それがなぜなのか私にはわからないが、私はこの時初めて、(やみくもに泣いてもいいのかもしれない)と思った。泣き疲れて深く息を吐けば、自分の中が空っぽになる。喜びも悲しみも、憎しみさえ隔てなく同じものになり、それはこの世でもっとも軽いもののように、ふっと消えてしまうのだ。それは一時のことだけれど、私たちは空っぽになって、ようやく思い出したのだった。
 祖父はもう、どこにもいない。
 宇宙へとむき出しの地表に足をつけて、私たちは生きてゆかねばならない。
 膝を抱えて俯いた草太に、そっと「帰ろう」と声をかけた。草太は黙って立ち上がり、私もその後に続いた。それから私たちはしばらく黙って歩いていたが、ふいに草太が幼い頃のことを話し始めた。



 物心ついた頃には、草太の家族は聡子叔母さんだけだった。なぜ自分には父親がいないのか、説明されたところで理解できず、ただ『居ない』という現実を受け入れるだけだった。
 草太が父親以外の『居る筈の家族』の存在に気づいたのは、それから更に数年の後だった。親の親、祖父母である。
「ぼくにはおじいちゃんとおばあちゃんはいないの?」
と訊ねた草太に、叔母は
「おばあちゃんはもう亡くなったけど、おじいちゃんは生きてるわよ。でも、お母さんとおじいちゃんとは別れてしまったから、もう会えないの」
と答えた。
 この時には、両親が別れたために、自分には父親がいないのだと理解していた。
 草太にとって『別れ』とは父と母の別れと同義だった。だから、草太にとって祖父は『居ない』のだ。父親の不在と同様に、草太はその事実を受け入れた。
 聡子叔母さんの現在の夫である叔父が草太の前に現れたのは、草太が二年生の時で、昼間聞いたように当時は妻のある身だった。仕事が縁で知り合ったという叔父は、帰宅する叔母とたまに一緒にやってきて、夕飯などをともにすることが多かった。草太は(お父さんがいたらこんな感じだろうか)と思った。
 お父さんがいたら。
 しかしそれは、叔父に父親の役割を振るものではなかった。
 草太にとって、父親はあくまでも『居なくなった人』だったのだ。
 それを決定的にしたのが、祖父が倒れる少し前の、叔父の離婚騒ぎだった。前の奥さんに、叔父と叔母との関係が知られてしまったのだ。奥さんは叔母の家を訪ねてきて、最初は高圧的に「夫と別れる気はない」と宣言し、次いで卑屈になって脅し、最後には「夫を奪わないで」と泣き崩れた。
 聡子叔母さんは、自分を罵る言葉を黙って聞いていた。別れを迫る言葉には頑として首を横に振り、最後に「申し訳ありません」と深く頭を下げた。叔母が言ったのは、そのただ一言だった。それを草太は次の間から終始見ていた。
 どんなに責められても揺るがない母親の背中の向こうに、崩れてゆこうとする一つの世界があった。叔父はその世界の人だった。
 やがて家族となった叔父を、草太はそれまでとかわらず名前で呼んでいた。反抗心から父親と認めないのではなく、ただ『余所から来た人』と割り切っていたのに過ぎない。そんな草太に、叔父はどう接して良いのかわからないようだった。
 祖父の死の知らせを受けたのもそんな折だった。
 『居ない』筈の祖父が、死者として草太の前に現れたのだ。



 駅までの最後のカーブを曲がると、遠くにお寺の看板が見えた。祖父の眠る場所の名前を記した、大きな筆文字だ。どこにもいない祖父がいるとしたら、あそこだった。
 祖父は草太の前に、その筆文字の迫力そのままに『居る』のだ。死という、もっとも動かし難い存在感をもって。
「人はいつか必ず別れるものだって、小さい時から感じてきた。それなら、家族や友達がいても、人はひとりきりなんだ。ひとりから始まって、ひとりで終わる」
 草太のかすれた声が、夜の静寂に吸い込まれていった。私は訊ねた。
「始まりと終わりの間には、何があるの?」
「間?」
「そこでは、ひとりきりじゃないんでしょう?私にはおじいちゃんがいてくれたもの」
 今はいないけれど、という言葉を呑み込んだ。草太は「うん」と頷きながら振り向いて、微笑んだ。
「今はちなつもいるし。ちなつといると、いろんなことが怖くなくなってく。今もいちばん言って欲しかったことを言ってくれた」
と目を駅舎に向けて、「来て良かった。本当は俺、びびってたんだあ」と笑った。
「どうして?」
「こっちじゃ俺の方が『居なかった人』じゃん」
「あ、」
 その言葉に、私は昨日の朝の喧嘩を思い出して、(ひどいことを言った)と思った。
「草太、…ごめんね。昨日、おじいちゃんは草太のこと知らないなんて言って」
「何で?本当のことじゃん」
 駅前の三叉路を海の方へと曲がる。父の言ったことを思い出した。
 『草太は素直ないい子だな』
 私の言葉に草太はあの時、傷ついた顔をしていた。それを本当のことと受けとめる素直さ、強さ。
 草太といると恐怖が薄れていくのは、草太に嘘がないからだ。
 草太の中には、真実が汚されることなく、ありのままにある。
 だから私は安心していられるのだ。
「…私、ひとりでいれば楽なんだと思ってた。おじいちゃんが死ぬまで、そばにいてくれてたことに気がつかなかった。一緒に暮らしてて、それが当たり前だったんだもの」
(だけど、草太にはそうじゃなかったんだ)
 俯くとサンダルの爪先が歪んで見えた。私は足元に涙をぽとぽとと落としながら、「ごめん、ごめん」と謝り続けた。
 草太にだったかもしれないし、祖父にだったかもしれない。
「いいよ、謝らなくても。枕でぶたれたのは痛かったけどさ。俺もぶったし。放ったらかしなんて言って、ちなつのせいじゃないのに八つ当たりだよな。ごめんな」
 坂道を下るにつれ、海が家並みの向こうに沈んで見えなくなってゆく。
「…私たち、みんな、ひとりぼっちなんだね」
「うん。ひとりぼっちだよ」
 私は草太の手をきゅっと握った。草太がその手をちらりと見て、顔を上げた。
「俺たち、いとこなんだから、ずっと一緒だよ」
「ずっと?」
「血がつながってるもん」
「うん」
 そして、手がつながっていた。




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