限りなく続く音-9

 目覚めると、白い天井に光が四角い形に映っていた。それが時折揺れる。軽く首を動かすと、開け放した窓辺でカーテンが風に揺れていた。
(朝だ)
 だが、私の部屋ではなかった。ここによく似た部屋を知っている。そこに居たのは、祖父だ。病院だとわかって、私はほっとした。
(良かった、助かったんだ)
 だから草太も助かったのだとばかり思っていた。
 草太の死を知らされて、私の思考は麻痺した。
 草太が海から引き上げられた時にはもう息がなかったこと、海に投げ出された時に岩に頭を打ちつけたらしいこと、私たちが崖下で発見される前から海での捜索が行われていたこと、何を聞かされても、草太が死んでしまったことへの言い訳に聞こえて、痺れた頭に虚しく響くだけだった。
 草太は棺に入って帰っていった。
 翌日、草太の通夜のために、両親と私は浦和にある聡子叔母さんの家へ行った。団地の一戸の、2DKの狭い部屋で、私たちはそこに泊まった。叔父と叔母は、事故を知って駆けつけた時よりずっと落ち着いていた。団地の集会所で通夜と葬儀が行われた。
 祖父の葬儀の時のように、涙は出なかった。
 悲しいのに、泣けなかった。現実を受け入れるだけで精一杯だった。
(どうしてそんなに早く、草太が居ないことを受け入れられるのだろう)
 すっかり小さくなった草太を両手に抱えて歩く叔母の背中を見ながら、私は不思議でたまらなかった。祖父が亡くなった時には、両親も私も、祖父本人も、その時の覚悟ができていた。だが草太は違う。突然、海に奪われたのだ。
 草太はようやく自分の部屋に戻った。シールを貼った学習机とその脇に立てかけた古いバット、机の上には王貞治の印刷のサインと途中で放り出された夏休みの宿題、本棚の教科書と『ひみつシリーズ』、傷のついた箪笥と隅に穴の開いた襖。
 そこは草太の海だった。
 独りきり、どこまでも夢を泳ぎ、深い安らぎを得て眠る、草太だけの世界だった。
 皆で祭壇に手を合わせた後、叔母がお茶をいれた。私に湯飲みを差し出しながら、「…本当に、」と小さく言った。
「千夏ちゃんだけでも無事で良かったわ」
「…叔母さん」
 私は湯飲みを受け取らずに訊ねた。
「どうして、おじいちゃんと仲直りしなかったの?」
「……」叔母は目を見張った。
「おじいちゃんはどうして叔母さんと仲直りしなかったの?」
 そして、私は両親を振り返った。
「どうして、お父さんもお母さんも、二人をそのままにしておいたの?」
「千夏」
「おじいちゃんが叔母さんを許していたら、草太は淋しくなかったのに。みんな、草太をひとりぼっちで死なせて!」
 許さない、絶対に許さない、と繰り返し叫んだ。
 溢れた涙は怒りの涙だった。
 私は泣き叫んで座布団を振り回し、お茶がこぼれ、皆が「千夏」と口々に呼んで私を取り押さえた。
 許さない。
 絶対に許さない。
 私は草太の手を放してしまった。
 草太をひとりぼっちで死なせてしまった。
 私は私を、絶対に許さない。



 車が山を越えると、町並みの向こうに海が見えてきた。
 その時、私の胸に広がったのは、やはり郷愁だったのだろう。もう何年、海を見ていなかっただろうか。
 私は大学進学を機に家を出た。東京の大学に進んで、一人暮らしを始めた。この故郷の海から離れるために、そして祖父の居た家から離れるために。
 草太の命を奪った海も、草太を孤独にした私たちも許せなかった。許さないと決めていたのだ。
 そうして、あの頃の私が生きた時間より長い時が流れた。
 あれから二十年。
 車を運転しているのは、六年前に結婚した私の夫だ。後部座席では息子が眠っている。息子は生まれて初めての海が楽しみで、昨夜はなかなか寝付かなかったのだ。
 この家で両親に会うのも結婚した時以来だ。父は孫の顔を見るなり抱き上げて、「よく来たな、オモチャいっぱい買ってあるぞ」と居間へ連れ去ってしまった。薄くなった髪や、痩せて出てきた頬骨が、祖父に似てきたな、と思う。しかし露骨に孫に甘いところは厳格な祖父に似なかったのか、そういう時代なのか。母は夫に気を遣って「遠かったでしょう、ゆっくり休んで」と労い、私たちを招いて先に家に入った。夫の後に続いて玄関の戸をくぐる時、軒先の風鈴の音がチリリンとあの頃のままに私を迎えた。
 居間では父が床いっぱいにオモチャを並べ、まだ眠そうな息子のご機嫌を取っている。私は台所でそれを横目で見て、テーブルにコップを並べて麦茶を注いだ。母が菓子器をその横に置いて息子を呼ぶ。わざとやっているのだ。お菓子と聞いて振り向いた息子を、父は膝にのせて捕まえた。
「…毎年夏が来ると、草太君を思い出すわね、どうしても」
 母が小声でぽつりと言うのに、私は「うん」と頷いた。母は「あの子もあんなわんぱくになるのかねえ」と息子を振り返って笑い、私に「海に入る時は、絶対に絶対に、気をつけなさいよ」と厳しく言った。
 今の私にはわかる。皆が草太の死で自分を責めていたこと。
 叔母は、祖父と和解していれば、と。
 母は、もっと早くに草太を探していれば、と。
 その場に居なかった父も、草太に満潮の時刻を教えていれば、また、もう少し早く帰宅していれば、と。
 そして叔父は、血のつながりなど気にせずに、もっと草太と話し合っていればと、それぞれに悔やんでいた。
 皆、悲しみを胸の海に沈めて、毎年夏を迎えている。
 それが、残されて生きる者のつとめなのだ。
 私が「お父さん、おじいちゃんに似てきたね」と言うと、母は「はげ方が同じ」と笑い、私の顔をしげしげと見た。
「千夏は昔っからお父さん似だったけど、今はどっちかって言うと、聡子さんに似てきたわね」
「え、そう…?」
「それなら、おじいちゃんも聡子さんと間違えるかもね」
と母は言って、麦茶を一口飲んだ。
「おじいちゃんが一時危なくなって、入院したでしょう。あの時、おじいちゃん、周りのことがわからなくなっちゃって、私を聡子さんと間違えたことがあったのよ」
「へえ…?」と私は菓子器のチョコレートをひとつつまんだ。
「私の顔見て、『聡子、よく帰って来てくれたなあ』って。『すまなかった』って私の手を取ったの」
 口の中に甘い味が広がった。私は「それで?」と頷きながら訊ねた。
「だから私、『私こそ、許してください』って言ったの。そしたらおじいちゃん、にっこりしてねえ。これはもう死んじゃうと思って。ほら、おじいちゃんが笑うなんてさ」
 私たちは「うん、うん」と頷き合ってクククと笑った。口から喉を通って、甘い味は胸を満たしていった。
 女性の社会進出が進んだ現代、『シングルマザー』と呼ばれ、偏見の眼差しで見られることも少なくなってきたとはいえ、未婚の母が生きるのはやはり厳しい。まして私たちが生まれた三十年も前の田舎町では、世間の風は冷たかっただろう。乳飲み子を抱えて働くことが、どれだけ大変か。祖父はただ、聡子叔母さんの幸せを願っただけだったのだ。
 叔母もまた、愛した人の子供を、授かった命を、ただ守りたかっただけだ。
 憎しみもなく、愛する者のために傷つけ合うことしかできなかった祖父と叔母。
「ああ、千夏、まだおじいちゃんにご挨拶してないでしょ」と言われて、私は慌てて麦茶を飲んで口の中のチョコレートの味を消した。「行ってくる」と立ち上がると、母は「ちゃんと千夏って名乗るのよ。聡子さんに間違われないように」と言って麦茶のコップを盆に載せた。
 夫を呼んで、二人で仏間へ行く。時を止めたように何一つ変わらない部屋で、時の流れる音を聴くように鈴を打った。
(おじいちゃん、千夏です)
 手を合わせながら思う。
 人はどうして、許し合うのが難しいのでしょうか。
 時の手助けを借りて、ようやく癒されながら、生きていくのでしょうか。
 いつか何もかもが跡形も残さず消え去ってしまうのでしょうか。
 誰が私を許してくれるのでしょうか。



 翌朝、皆で揃って海へ向かった。明け方に降った雨が道路を濡らしている。日が昇ると、蝉たちが一斉に鳴き始めた。また暑くなりそうだ。父が空を見上げて「また降るかもなァ」と言い、「大丈夫ですよ」と夫が答えた。
 監視所には『注意』を意味する黄色い旗が立っていた。少し波が高い。息子が波打ち際へ駆け寄るのへ、母が「気をつけてよ」と繰り返した。私と夫はパラソルを立てて、シートを広げた。父が息子につききりでいるから大丈夫だろう。夫は昨日の運転の疲れがまだ抜けないのか、日焼けローションを塗ってシートに横たわると、あっという間に鼾をかき始めた。
「千夏もあれから海に入らないねえ」と母が言った。
「うん。…でも、今年は泳ごうと思って」
「そう」
 波音はずっと変わらない。おそらく、これからも変わらないのだろう。
 永遠に響く海の言葉。
 それが何を叫んでいるのか、知るのがずっと怖かった。
 日がさっと翳って、ぱらぱらと雨が落ちてきた。波打ち際で遊んでいた息子と父が慌てて戻ってくる。飛び起きた夫が雲の流れを見て「すぐに止みますよ」と言いながら、息子の体をタオルでくるんだ。程なく、雨は上がった。息子が父の手を引こうとする。父は「今日は水が冷たいわ、体あったまってからな」と息子を座らせた。
 雲がどんどん流れて、真っ青な空が広がった。私は太陽の熱を受けて、顔を上げた。
 太陽の周りを、丸い虹が囲んでいる。
 私はそれを指差して、息子の名を呼んだ。
「草太、見てごらん、丸い虹だよ!」
 草太が虹を見上げて目を細めた。
 名前を呼ぶたびに、あの夏がよみがえる。
 絶え間なく降り注ぐ蝉の鳴き声、波の上を渡る潮風、風に揺れる梢のざわめきと家を満たす風鈴の涼やかな音色、「ちなつ」と私を呼ぶ草太の声。
 あの夏は海のように終わりなく私を呼び続けるだろう。だから私も呼び続けよう。
 その名を。
「草太、一緒に行こう」
 私は草太の手を取って、海に向かって駆け出した。




ここまで読んでくれたあなたに、心からありがとう。 佐倉蒼葉


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