左回りのリトル-1

 テーブルを囲んで時計回りに自己紹介をした。僕が「野宮柾です」と軽く会釈をして終わる筈だった。熱くなった鉄板にお好み焼きのタネがじゅうっと大きな音を立てた時、向かいの席の彼女が僕に「あの、」と小声で言った。
「こちらは?」
「え?」
 彼女の視線の先は僕の隣の空間だった。壁いっぱいの長いソファ、壁に掛けられた小さな絵を照らす間接照明の丸い明かりだ。僕の戸惑いを受け取って、彼女は困った時の仕種か手のひらを額に当てた。
「何?」
「何でもないんです」
 そう言って軽く首を横に振り、曖昧な笑みを見せて烏龍茶のグラスに手を添えた。
 変わった子だな、というのが彼女の第一印象だった。
 僕は大学近くの駅ビルの画材店でアルバイトをしている。僕は休みだったが、前日に「明日から見習い社員が入ってくるから、歓迎会をやるよ」と店長に呼ばれていた。それで閉店時間に店に顔を出すと、短い髪を真っ赤に染めた彼女が真剣な顔でメモを取っていた。店長がレジ締めの手順を教えている。僕はお疲れ様ですと声を掛けるだけにして、店の奥からシーチングを抱えて出てきた山崎に軽く右手を挙げた。山崎の手から布の束の半分を取って目で彼女を示しながら「新人?」と尋ねた。
「そう」
「派手だなあ」
「そう?」
 僕は棚のフォトスタンドを一通り倒した後で山崎を振り返った。
「でもないか」
 彼はひよこ色の短い髪をつんつんと立たせていた。
 作業をすべて終えて、彼女が僕の前に立ち、「ウツギです」と名乗った瞬間、店の明かりが一斉に消えた。




 山崎が大きなお好み焼きを器用にひっくり返す。店長はウツギさんに本社の上司について知恵を授けている。ウツギさんは殆ど口を開く事もなく、頷きながら聞いていた。僕はお好み焼きにソースを塗り、山崎が横を行く店員に「マヨネーズ、ください」と言った。
「空の木って書くの、珍しいよね」
 話題がようやく彼女の事に移った。
「そうですね、あまりいませんね」照れ笑い。───先程、彼女は空木梢子と名乗った。
「だいたい宇津救命丸の宇津」
「宇津井健の宇津」
「誰ですか、それ」と僕。
「若いから知らないか。百恵ちゃんのお父さんだ」と店長。山崎がアハハと笑った。空木さんは表情を変えない。昔のドラマの話だという。それから彼女が僕と同い年だという事、ここに来る前は半年くらい何も仕事をしていなかった事がわかった。
 お好み焼き屋から駅へと戻り、店長とバス停で、山崎とJRの改札で別れ、僕らは地下鉄の乗り場まで一緒になった。暗いウインドウにシャッターを下ろした店が続く通路は閑散とし、広く明るく見えた。
「今日は約束があったんじゃないですか?」
 不意に彼女が訊いた。がらんとした通路に響きそうだった。
「何もないけど」
「でも、今すぐ会いたい人がいるでしょう」
 その断定的な口調に、突然胸が締めつけられた。その通りだった。
「遅くなっちゃってごめんなさい、すぐ電話したらどうかな」
「いや、いいんだ」
 軽い眩暈を覚えながら僕は首を振った。「どうして?」
「このくらいの」と彼女は両手で自分の二の腕の辺りを差した。「ストレートの髪の人が野宮君の横に見えていたから」
 何を言い出すんだろう?
「空木さん」
「そら」
「え?」
「私」
 彼女はセロリのようにすっと背筋を伸ばして立っていた。
「みんな、空って呼ぶから」
 そう言って空は右手を差し出した。「よろしく」と訳もわからぬまま握手をすると、彼女は僕の横の何もないところへ「あなたも」と言った。
「見えるの?」
「あなたは?」
「見える訳がない、何が、」見えているんだって?まさか、幽霊とか。
 夏にテレビに現れる怪しい霊能力者が言うようなもの。写真にうつった白い影のようなもの。彼女に見えて、僕に見えないもの。
 焦燥が頭上へ落っこちてきた。
「それじゃ、私はこれで」
「待って」と僕は呼び止めた。空はきょとんとした顔で僕を見た。
「待ってて、ここにいて。頼むから」
 僕はステンカラーコートのポケットからスマホを取り出した。空の言うストレートの髪の、美久の名前を押す手が震えた。三回の呼び出し音の後で、ふっと通話が繋がった。
「はい」
「…美久?」
「……」
「……」
 互いの戸惑いが伝わった。長い沈黙が続いて、僕はようやく事態を呑み込んだ。美久は抑えた口調で尋ねた。
「どうしたの?」
「いや、」僕は空を振り返った。空は両手で耳を塞いで僕をじっと見ていた。「ちょっとした、手違い」
「手違い?」
「うん。美久に何かあったかと思った」
「……」
「そんだけ。それじゃ」
 僕はもう自分がなさけないような気持ちになって慌てて電話を切った。
「空木さん!」
「彼女、怒ってた?」
「どういう事だよ」
 僕は乱暴にスマホをコートのポケットに突っ込んだ。
「きみは一体どういうつもりなんだ」僕の大声に、酔っぱらいがじろりと睨みながら通り過ぎる。空は僕の方など見ずに「あ、消えた」と言った。




 深夜まで営業しているハンバーガーショップで、僕らは壁を睨んでいた。
「壁に面したカウンター席って、不健全だと思う」
「人を驚かす突飛な発言をする神経の方が不健全だ」
「どうしてって訊いたのはそっちでしょう」
「きみには配慮というものがないのか」
「人と話している時に思考が余所へ行ってる人よりはまし」
 横目で空を見ると彼女も横目でこちらを見ながらフライドポテトをつまんで口にくわえた。もっともだ、と僕は思った。だが、あのお好み焼き屋は美久とも何度か行っており、思い出さずにはいられなかったのだ。僕もコーラのストローをくわえて黙り込んだ。僕らの間に空席が一つ。
 空は僕と同じ地下鉄沿線に住んでいた。何も言わず帰ろうとする彼女に僕は納得のゆく説明を要求した。その結果、空の降りる駅で途中下車とコーラとポテトで一戦交える事になったのだ。彼女はポテトを食べるでもなくくわえたまま、僕の様子を窺っている。僕はストローを噛みしめた。と、彼女は人差し指でポテトを口に押し込み、もぐもぐごくんと飲み込んで、「最初は、」と壁に向かって話し始めた。
「野宮君の連れだと思った。今日お休みだったから、デートか何かで、その後にわざわざ私の歓迎会に来てくれたんだと思った。だけどよく見たら、ああ、人じゃないなって。そうしたら時々消えるのね、それでこれは野宮君が映してるんだと思った」
「僕が?」
 何の話をしているのだろう。横顔の空は目を閉じて、誰と話しているのかわからない、そんな感じだ。もやもやとした物が胃の底の方から持ち上がってくる。
「確証はないけど」
 もやもやがすーっと引いた。
「何だよそれ」と僕は前髪を掻き上げ、そうか僕は不安だったんだ、と気がついた。空はまるでこれから何もかもを言い当てようとしているかに見えていたのだ。
「でも、見えないものが見えるって、きみは」
 問いかけのつもりでもなく僕がぽつりと言う。空はまた片手を額に当てて短い吐息をつき、「ごめん、私にもよくわからない」と俯いた。




 終電の時刻を回って、僕らは一駅ぶんの距離を歩いて部屋に戻った。僕と、美久と。
 電話に出たのが美久なら、空に見えるのは誰なのだろう、と僕がその特徴を尋ねると、彼女は鞄から手帳とペンを取り出してさらさらと似顔絵を描いてみせた。
 ふっくらした輪郭、遠くを見るような大きな目。空は顎の小さいほくろまで描いた。美久だ、と僕は息をのんだ。
「あの時『今すぐ会いたい人』って言ったでしょう。幽霊とかじゃない、野宮君が映してるんだって」
 空の言う意味がわからない。
「例えば」と空は椅子をくるりと回してこちらに向き直り、僕の隣の空席に視線を落とした。「彼女、今、電話してる」
「電話?」
「さっきの、野宮君と話してる時のイメージ。そしてそこから動かない。野宮君の、彼女に関する最新の記憶」
「つまりきみが見てるのは」
「野宮君だってこと」
 そんなやりとりを何度も思い返しながら歩いた。わかったような気がするだけで結局わからない。僕は「絵、うまいね」と間の抜けた答えを返したきり、何も言えなくなってしまった。
 ただわかるのは隣に美久がいる、それだけだった。




 寝不足の頭を抱えて学校へ行った。来週には試験だというのに、僕は窓際の席に座る美久の頭を確認した途端、睡魔に襲われた。
 わからない事だらけだ。
 何もかもが。
 目を開けたまま眠っていたんだろうか?ざわめきと、教室を出てゆく人波の中から、美久がちらりと僕を見た気がした。昨夜の電話が、ひと月ぶりの会話だった。
「おーい」
 視界を遮る何かがひらひらと動いた。河野が僕の目の前で手のひらを動かしていた。
「大丈夫かー」
「大丈夫ですよー」
「見事な条件反射」拍手。
 彼はグリーンのリュックから数冊の本を取り出して僕の前に置いた。「借りてたやつ」と言いながら、もう一冊を取り出した。
「返すの遅くなったから、これはおまけ。野宮、こういうの好きだろう?」
 銀座の画廊の展覧会のパンフレットだった。
「日曜に見てきたんだけどさ、結構良かったよ。じゃあな」
「サンキュ」
 河野の背中を見送りながら、美久と行ったんだな、と思った。パンフレットの表紙は数人の作家の絵のコラージュだったが、どれも美久の好みだった。こういう形で、美久と逢った事を僕に報告するのが河野らしい。
 どうするのがフェアなのか、僕も河野も手探りしている。
 遠慮しているのか?
 迷ってるのか?
 僕は本を鞄に押し込んで教室を出た。ひと月前の美久の言葉が耳に蘇った。




 駅の中を通らずに線路下の地下道を抜けた。駅ビル脇の通用口で店内スタッフの身分証を見せ、首から提げる。従業員用のエレベーターは灰色で薄暗い。乗り合わせた女の子はコートの下にもう春の鮮やかな色の服を着たちぐはぐさで、少し寒そうに両手で自分を抱いている。僕は一人六階で降りた。
「おはようございます」
「おはようございます」レジの横で在庫表をチェックする丸山さんが答えた。丸山さんは昨日は早番で帰り、空の歓迎会には欠席した。結婚しているのだ。長く勤めていて本社からもお呼びがかかっているが、家事はなるべく自分でしたいからと家に近いこの店にいる。僕は出勤表を確認した。店長、本社、会議14時〜。山崎、休み。冬期セールが始まったばかりの隣の百貨店に客足が流れる。洋服などの店に比べれば差は少ないが、やはり雑貨などの商品は売れない。
「空ちゃん」
「はい」
「私、明日遅番だから、朝の納品チェックしたらこれに付けてね」
「はい」
「野宮君も来たし、1番お願いします」
「はい」と僕が答えた。1番は休憩の事だ。丸山さんはいったん店の奥に隠れてエプロンを外し、小さいバッグを手にして僕らに軽く頭を下げて出ていった。
 客が「すみません」と空に声をかける。棚の上の、手の届かないマーカーセットを指差して話している。僕が接客を代わった。狭い店でも夕方になれば二人では慌ただしい。閉店までの休憩は一人ずつ取り、僕らはほとんど言葉を交わさなかった。




「今夜は冷えるわねぇ」
 通用口を出て丸山さんが言った。
「二人とも風邪ひかないようにね。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
 僕と空が同時に言った。帰りの電車が同じなので並んで歩き出す。「もう慣れた?」と僕が訊くと、空は「うーん」と考えた。
「仕事は慣れたと言うか、丸山さん親切だし、何とか。でも野宮君には慣れない」
「え?」
「人数増えてた」
「増えた?」思わず立ち止まる。
「野宮君がお店に入ってきた一瞬だけ。すぐ消えたけど、背の高い、見た目体育会系」
 河野?
「前代未聞。あれ、未見かな」空は真顔だ。
 僕が黙り込むと空はまた歩きながら右手を額に当てて少し考えていた。
「こんなふうにはっきり見える事って殆どないんだよ、本当は」
 僕が答えないのも構わず続ける。
「だって人の気持ち見えまくってたら空間に隙間がないよ」と苦笑する。「波長が合うのかな」
「最悪」
「うん」
 空は僕の皮肉をすとんと受けとめた。罪悪感が刺す。僕は言う。
「見えるのは、気持ちなんだ」
「ちょっと違う。でも多分そんなもの」
 地下道を抜けて坂をゆっくり登りながら、空は白い息と一緒に吐き出す。
「丸山さんには誰かの気配がする。多分ご主人だと思うけど、ふわっとしてるのがわかるだけ。そういうの、多分野宮君も知ってると思う」
「僕が?」
「その人の雰囲気ってあるでしょう。丸山さんの雰囲気がふわっとしてるの、ご主人いるからなんだよ。信頼とか、愛情とか」
「……」
「何て言うのかな、世界の安定。安心感。その基盤がご主人」
「ああ、そういう事か」
「そう。だからね」と、そこで彼女は言葉を切って、僕を見た。
「私には野宮君がかなしく見える」
 パソコンの量販店の音楽、甲高い笑い声、走る車、足音とざわめき、雑多な音が響き合い混濁する駅前で、空の声だけが切り抜かれたように聞こえた。この子の前では無駄な抵抗はやめようと思った。駅の地下へ続く階段を降りる。
「何も訊かないんだね。…訊かなくてもわかるか」
「わからない。訊きたい時だけ訊く」
 顔を見合わせた。互いに困って笑った。
「何か訊いた方がいいのかな。うーん」
「別にいいよ」
 空は学校がある方を指差して「野宮君ってR大でしょう。大学ってどんな所?楽しい?」と尋ねた。話題を変えようと気を遣っているんだな、と思った。
「やらなきゃ確実に落ちこぼれる所。楽しさは半分くらい。空木さんは?美術系の学校とか出てそうだな」
「私は高校で、二度目の一年生の途中でやめた」
「どうして?」
「びょーきで入院してた…」
「そう、か、」
 何かがひっかかった。考え込んで周りが見えていなかった。自動改札の前で慌ててパスケースを出す。空はもう改札の向こうで笑っているような泣きそうなような顔で僕を見ていた。それが何かに似ていると思いながら追いつく。
「そうだ、空木さん、ブースカに似てるって言われない?」
 え?と目を丸くするとますます快獣ブースカに似た。「うわあ、そっくり!」と言うと空は赤い髪をくしゃっとつかんだ。
「昨日山崎君もそう言った。ブースカって何?」
「うん、うん」
「ブースカって何ってば」
「大丈夫、かわいいから」
「何で笑うんだろう」
 ホームに降り立って、ふと河野に返された雑誌にブースカが載っていた筈だと思い出した。取り出してページを繰るがブースカは見つからない。横から覗き込む空が小声で「ブースカ…」と呟いたのがおかしかった。
 雑誌を鞄に戻す時、河野に貰ったパンフレットが目についた。美久。持っているのが辛い気がした。僕はそれを空に見せた。
「空木さん、こういうの、見る?」
 空はその表紙をじっと見つめていたが、「これ、もう見た。野宮君も行ったの?」
「いや、友達が行って、それで」
「見なくていいよ」
 なぜと訊こうとしたが、空はもう僕の方を見なかった。

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