左回りのリトル-8

 37度8分。河野は「俺のおかげだ」と言った。
「ごめん、寝てないんだろう」
「いい、着替えさせるので転がすのにさんざん蹴ったから」
 それじゃ空さんごゆっくり、と河野は頭を下げて出ていった。
「今の人」
「見た事あるでしょう」
 実物ではなかったけれど、とは言わない。僕は額の冷却シートをはがした。
「こんなの貼っつけるような奴。憎めないよね」
 笑うと咳が出る。空は扉を振り返った。
「この前見た時と雰囲気が違った」
「うん」
「野宮君も」と言われて笑みを返した。久しぶりに聞いた河野の笑い声、穏やかに話せた事、息を切らせてやって来た空。
「何かぐるぐる回ってるよ」
「大丈夫?」
「うん。回ってるのは大きな螺旋。何だろうな、これ。とても気持ちがいい」
 お茶でもいれよう、と起きあがった。ずっと寝ていたからか背中が痛い。空が心配したが、動いた方が楽なのだと答えた。
「今日、山崎君が挨拶に来た。全然話せなかったけど」
 空は正座した膝の上で組んだ両手を見下ろして言った。お茶をいれて戻る時、河野が持ってきた雑誌が目についた。それを取って空の傍らに座り、空木秀二のページを開いて彼女に見せた。
「この『空と歩く』って、よく見えないんだけど」と、僕は絵の中の人物の足元から後ろへ伸びる黒い線を指さした。「これは?」
「この絵、見た事ない」
「知らないの?」
「守屋さんなら知ってるかも」
 今度訊いてみる、と空は言って雑誌を手にした。初めて見る絵と父の履歴、作品への評価。短い記事を熱心に読んでいた。
「この本どうしたの」
「河野、さっきの彼が持ってきた」
 美久から預かって、とは言わなかったが、彼女にはもう見えているんだろう。それが彼女を怯えさせてしまわないように、と静かに願ってみた。
「父の絵が好き?」
「うん。空と出会わなかったら、きっとこんなふうにいろいろ知りたいとは思わなかったかもしれないけれど」少し疲れて目を閉じた。「『水からの飛翔』は胸に深く残ったと思う」
 そう言いながら、美久と同じ言葉を選んでいる事が痛かった。
「前の家のアトリエで、父が『水からの飛翔』を描いている間、父は絵の中に誰かを見ていた。私が父の前に立っている時も」
 空は絵のように目を閉じた。
「いつも父は誰かを思い出していた。私は子供の頃からそれを感じてた。母がまだ家に居た頃から、母と別れた後にも、ずっと変わらず同じ人への思いが父の中にはあった。静かに、水が広がるように」
 声は彼女を中心として細波が立つように広がって、『水からの飛翔』と彼女が重なって見えた。今にも飛び立ってしまいそうだ。僕は片手を彼女の頬に当ててくちづけた。唇を離すと彼女はゆっくりと濡れた目を開いた。
「とても静かで、だけどそれはあの絵のようにざわめく事があった。一度だけ、ぼんやりと誰かが見えた事がある」
 空の目が僕を射抜く。
「母じゃなかった」
 僕は触れていた手を放した。
「私は絵じゃない。彼女と重ねないで」
「きみも」見つめ返す。「僕と空木秀二を重ねている」
 空は鞄を手にして立ち上がった。僕も立ち上がると軽い眩暈がした。壁に手と頭をついて彼女の顔を覗き込んだ。
「確かに僕は今、きみと美久を重ねている。だけど間違えたりはしない」
 僕はふうと息をつき、背中で壁に寄り掛かって座り込んだ。
「それだけ。もう遅いから、気をつけて」
「…お大事に」
 扉が静かにぱたんと閉まる音を聞きながら、河野、僕も同じだ、と思った。




 翌日も僕は部屋で寝ていた。夕方には熱も下がり、散歩がてらに買い物に出たりした。十時のニュースを見ている時に電話がかかってきた。「山崎」といきなり簡潔に名乗る。わかりやすい奴だ。
「野宮、明日バイト休みの日だったろう。俺様が会ってやる」
「会ってください、の間違いだろう」
「まあ聞け。おまえ空ちゃんに、空木秀二の『空と歩く』の話をしたんだって?で、空ちゃんが画廊の守屋氏に尋ねたところ、『空と歩く』が高畠サンの所にあったんだな、これが。世間から忘れられて久しい一枚ではあるが、空木が親友に贈った記念碑的作品てな訳だ。そんな物に興味を持つ若者がいるとは、と高畠サンがおっしゃるので、何の事かと尋ねてみれば、ちょっとあんた聞いてくださいよ、俺様の家来、野宮柾の事だったのだ」
「殿様か近所のおばさんかはっきりしろよ」
「高畠サンは、山崎君の友達なら、見せてやってもいいとおっしゃっている」
「会ってください」
「そう言うと思った」山崎は笑った。「この話を逢坂の横でしなければならないのが不運だった。奴はもうその気になってる」
 少し遠くで声がする。「暇な山崎につきあってるんだから、これくらいの特典がなくちゃね」
 山崎は高畠氏の住所と最寄り駅を言い、午後七時と指定した。急いでメモを取る。
「晩飯は上寿司と俺が今決めた。せいぜい腹空かして来い」
 逢坂の笑い声を聞きながら「空は」と尋ねた。
「仕事だよ」
「そうか」
「露骨にがっかりしてんじゃねーよ」
「いや、」思わず溜息が出る。「そんなんじゃないんだ」
「……」山崎は少しの間を置いて「まあいいや。遅れるなよ」
 電話を切った後で「暇な山崎」という言葉を思い出した。まだ次のバイトを決めていないのだろう。
 あんな事があった後で、会わない時間が長いと怖くなる。
 河野を避けていた時のように。
 山崎が頭を下げて辞めていった時のように。
 だから変わらない二人が嬉しかった。
 僕も変わらずにいられるだろうか。




 高畠氏の家は閑静な住宅街にあった。松の枝が覗く門、手入れの行き届いた庭の奧に優しく古びた日本家屋。玄関で僕らを迎えた高畠氏は、銀縁眼鏡の奧の目を細めたにこやかな男だった。みしみしと鳴る廊下を通って奧の間の障子を開ける。広い和室に大きな座卓。部屋に不似合いな山崎がぐるりと見渡し、壁にかけられた絵に目を留めた。僕と逢坂もつられてそれを見る。僕はその絵を知っていた。
「高畠深介だ」
「そりゃあ、本人の家だから」山崎が答える。「知らなかったの?」と逢坂。
 高畠深介といえば日本画にうとい僕でも名前を知っているくらいの大家だ。もっと老齢の、厳しそうな人物だと思っていた。その高畠深介は、盆にお茶を載せて「まあ、座りなさい」とにっこり笑った。
「先生、有名なんだか無名なんだかわかりませんね」
 山崎にそう言われても高畠氏は「そんなもんだ」と笑うだけだ。奥さんは足が悪いのだという。挨拶もできず失礼するよ、と言われ恐縮した。
「それで、最近空木に執心だというのはどちらかな」
「こいつです」山崎が僕を示す。野宮です、と頭を下げた。高畠氏は僕を観察するようにまっすぐ見た。画家の目は鋭く、僕は視線を逸らす事もできず見つめ返した。ふいに彼の目はやわらかく細くなり、山崎を振り返った。
「これが空の彼氏かね」
「は?」
「ただの仕事仲間です。それから『彼氏』のアクセントは前です」山崎がニヤリと笑った。
 勘のいい逢坂が最初に笑い出した。「野宮君、はめられてる」
 山崎はアハハと笑いながら足を崩した。
「先生はおまえに会いたくて、それで呼んだんだよ」
「守屋から『空と歩く』を見たがっている人がいるって聞いて君だと思ってね、山崎君に訊いたんだ。一度君には会ってみたかった」
「なぜですか」
「空から聞いていたからだよ」
 高畠氏はお茶を一口啜った。
「あの子は小さい頃からいろいろあって、心を閉ざすような事も多かった。それが双月堂に入ってから、ずいぶん表情も変わるようになって、君たちには感謝してるよ」
「高畠先生も彼女を『空』と呼ぶんですね」逢坂が尋ねた。
「ああ、あの子をそう呼んでいたのは空木だよ」
「不思議ですね。空木さん自身も『空』の字を持つのに」
 僕は隣の逢坂を見た。彼は続けた。
「彼もそう呼ばれていたのではありませんか」
「私は彼を『空』と呼んだ事はないよ」
「そうですか」
 皆黙り込む。高畠氏の言い回しは、誰かが空木秀二を『空』と呼んでいたという事であり、それは空が感じとっていた『誰か』で、口にする事はできないものだと感じさせた。
「さあ、『空と歩く』を見せてあげよう。空木秀二の原点だ」
 高畠氏に促されて僕らは立ち上がった。渡り廊下の向こうの離れは増築したもので、母屋の雰囲気を壊さないよう設計された外観と、仕事場としての機能性を追求した内装のバランスが見事だった。奧には雑然と置かれた物が不思議な調和を生んでいるアトリエが見える。手前は大学教授としての仕事をこなすための書斎だった。
 『空と歩く』は書斎にあった。高畠氏に先に入るよう勧められ、僕、山崎、逢坂と順に部屋へ入り、空木秀二の原点と向き合った。




 雲が薄くかかる青空を、誰かが歩いている。
 丈の長い上着を着た人物は影のようで性別は判らないが、フロックコートなら男性だろう。画面右端寄りに、右方向へと歩いてゆく。
 微かな罅のように見える、遠い鳥の群。
 彼の足元から画面の左へ伸びる、彼の歩いた跡は水溜まりなのか細波が立っている。
 それが『空と歩く』だった。僕は第一印象を口にした。
「『水からの飛翔』に似ていますね」
「空と水を空木は好んで描いていたからね」と高畠氏は答えた。
「いいえ、同じ物を描いたように見えるという意味です」
「同じ物?」
「違うのは、この絵の人物が空木秀二本人だと思える事ですが」
「では、『水からの飛翔』はどう思う?」
「この前逢坂君が言った事ですけど」と前置きして、
「刺のように突き刺した強烈な存在」
「個人の記憶と視線の中を漂うようなものでもありますけど」と逢坂。
「惚れた女」と山崎。本当にわかりやすい。
 僕は高畠氏に向き直った。「『空を』かと思ったんですが、『空と』なんですね」
「そう」
「確かに、彼の足元には水がある」逢坂が言う。「水に足を取られながら空に溶け込む心象風景、それならこの空は記憶ですね。彼はもう画面から出ていってしまいそうな風情だ、水の影は彼の歩いてきた時間を示している。これまでも、おそらくこれからも彼は空と歩き続けるんでしょう」
「ふむ」と高畠氏は逢坂の顔をまじまじと見た。
「君はなかなかいい眼をしている。医者より評論家の方が向いてるんじゃないかね」
 僕と山崎は笑った。
「気にするな逢坂、ジジイの寝言だ」
 師をジジイと呼ぶ山崎に驚いたが、高畠氏は「山崎君の口の悪いのはいつもの事だ。それだけ私を慕ってるんだよ」と笑っている。山崎は「そういう事になってるから」と軽口で返した。僕は話を戻した。
「それならこれは『左回りのリトル』とも同じ物を描いていると言えるんじゃないでしょうか?『空と歩く』では過去から続いて継続する、『左回りのリトル』では遡って、描き出される記憶とそれへの、郷愁、渇望、でも」
「時は戻せない」逢坂が言葉を継いだ。
「だから懐かしむのも、望む気持ちも強くなる」と山崎。「こうして表現されるほどに強く」
 誰かが次の言葉を発するのを全員が待った。沈黙を破って高畠氏が「空木は幸せな画家だ」と言った。そして「戻ろう」と母屋に目を遣った。




 夕飯は本当に上寿司になった。僕らが帰ろうとするのを高畠氏は引き留め、出前をとった。寿司をつまむ間も空木秀二の話は続いた。僕と逢坂がそれぞれ初めて彼の絵を見に行った時の事や、山崎の部屋での『水からの飛翔』に対する逢坂の熱弁、空の部屋で『左回りのリトル』見た時の話などを高畠氏はにこにこと聞いていた。
「こうやって、新しい世代が私たちの通った跡をたどって先へ進んでくれるんだね」
 逢坂が湯呑みをトン、と置いた。僕も、山崎も、微笑む高畠氏を見つめた。
 確信が胸に広がる。少女の駆ける螺旋が僕らの目の前で、ぐんぐんと、ものすごいスピードで鮮やかに回りだしたようだった。
「野宮、今日はおまえに、俺の宝物を見せびらかそうと思って持って来たんだ」
 山崎は鞄から少し厚い紙片を取り出して寄越した。僕はそれを見て尋ねた。
「こういうの、何て言うんだっけ」
「球体関節人形」
 それはちょうど葉書大のケント紙に、色鉛筆で精緻に描かれた球体関節人形の絵だった。裸で、髪もない。バレエのような危うげなバランスのポーズ。片脚がなくて立てないのだろう。だらりと下げた右腕も肘から先がない。腰を横に曲げ、今にも倒れそうだ。それを支えているのが頭上に挙げた左手を握る、失われていた右手だった。全体にピンクのトーン。背景はグラデーションのみで描かれ、それは暖かな空気が人形を優しく包み込んでいるようだった。
「タイトルは『ECHO』だ」と山崎は言った。
 指先が紙の裏側に何かを探り当てた。切手?とひっくり返す。

  埼玉県上尾市××
    山崎隆之様

   ありがとう。
      空木梢子

「空ちゃんは俺の名前なんて忘れてたみたいだけどさ。空ちゃんの絵を見て、あの住所と名前を書くノート、あれに書いたんだよ。丸々一ページ、俺」
「ああ、あれもすごかったね」と逢坂も笑った。
「その時の気持ちを書いたんだ。俺、空ちゃんのこの絵に救われた。倒れそうな人形を支えるのは、失くしたと思ってた自分の手、って、空ちゃんも迷いながら描いてるのがわかった。俺と同じだと思った。だから俺も絶対に絵をやるって。そうしたらそれを見た空ちゃんが絵に切手を貼って送ってくれた。俺が持ってていいんだ、って思ったら泣けた。それからずっと、空木梢子は俺の目標だったんだ」
 僕の手から絵を受け取ると山崎は目を閉じた。思い出しているのだろう、その頃から今も続く父親との対立や、空の絵に励まされてがむしゃらに駆けてきた日々。
 僕は居ても立ってもいられなくなって、「すみません、これで失礼します」とコートを手に立ち上がった。
「空ちゃんの所へ行くんだろう、俺も行く」
「山崎君、君には私の助手としての仕事があるだろう」
「まだ先の事じゃないですか」
「今から仕込んでも遅いくらいだ。いつも言ってるくせに、老い先短いジジイって」
「僕は高畠先生の絵を見せてもらいたいな」
「おまえら、人の恋路を邪魔する奴は馬に引かれて丑の刻参りなんだぞ!」
「違うって」と突っ込んだのは高畠氏だった。




 電車を乗り継いで、ホームも道も走って空の部屋を目指した。この前の彼女もこんな感じだったのかな、と思うと笑えてきた。チャイムを鳴らして扉が開くまでの間ももどかしかった。
 空は僕を見ると、扉を開きかけのまま困惑した。「ここでいい」と僕は言った。
「『空と歩く』を見て来た。そして空木秀二のメッセージを受け取ってきた。『左回りのリトル』、戻せない時を遡って駆ける可能性、僕らは時を超えられるんだ、あらゆるものの狭間にこだまするものたちと出会って、いつまでも胸の底に漂うものたちと一緒に。過去も未来も自在に飛べる。たとえあの絵が未完成でも」
 一気にまくしたてる僕に、空は目を丸くしている。
「思うだけで動き出すタイムマシンだよ、この右回りの世界に隠された」
「……」
 僕は考えをまとめようと、言葉を一つ一つ拾うように、ゆっくりと続けた。
「絶望の予感。時は右回りで戻せない。言ったよね、世界に満ちる何者かが苦しみに耐えてこだまを伝えるって。その悲しげな姿の理由もきっとそれだけど、そこから、過去の思いが返すこだまはどっちへ行くだろう?そしてそのこだまはもう、ずっと前からきみの中で響いていたんだ」
「私?」
「山崎め、あんな隠し玉があったなんて」
「山崎君が?」
「こっちの事」くやしいから言わない。けれど笑いがもれてしまう。
 山崎もそうだった。空の描いた絵を見ては、何度も何度も、自分の手で自分を立ち上がらせて来たんだ。
「空は、お母さんじゃない誰かを思っているお父さんが嫌いだった?」
「…ううん。そう、やっぱり、好きだった」
 空はやわらかく微笑んだ。
「『空と歩く』、彼は記憶の枷も連れて未来へ行くってそう決めていたんだ。きみを『空』と呼んだように悲しみも慈しんで。そして『左回りのリトル』のように」
「うん」と空は僕の言葉を遮った。「わかる。見える。野宮君の周りに」
 それは僕には見えないが、空の微笑が嬉しかった。言い尽くせないものがこだまする。
「それもきみはとっくに知ってた筈だ。これが空木秀二だって言った」
「うん。それが空木秀二だって、きっと知ってた…」
「ほら、もう左回りだよ。未来が過去に既にあったのを、今見つけたんだから」
「不思議」
「うん」
 顔を見合わせて笑った。それじゃ、と背を向けると空が小声で言った。
「ありがとう」
「…ありがとう」僕はゆっくり振り返った。
「違うよ」
「合ってるよ」
「こだまじゃなくて」
「こだまじゃないよ」僕は両手をポケットに入れて背筋を伸ばした。
「空は時間をくるくる回して、僕に見えない僕を見せてくれたから。今と、過去と、未来と。それがわかったから、もう彼女と重ねたりしないよ」
「うん」
「でも、やっぱりこだまなのかな」
「どっち?」
「こだまだよ。近づきたいもの」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
 まだ地下鉄は走っていたが、僕は部屋まで歩いて帰った。
 僕と、空と。
 山崎と。
 美久と。
 河野と。
 逢坂と。
 そして、空木秀二と。
 ずっと一緒に歩きたかった。『空と歩く』のように。

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