左回りのリトル-9

 駅の方から美久が歩いて来るのが見えて、僕は立ち止まって待った。雑踏の中を、ずっと遠くに見ていた彼女が今、近づく。僕に気づいた。視線を外して歩く彼女を呼び止めた。
「本、ありがとう。役に立った」
「そう、よかった」と顔をあげて答えた。
「磁石だったのかな」
「…きっと」
 こんな時、空ならまた額に手を当てて考え込んでしまうのだろう。磁石はあの雑誌と空木秀二の絵、僕と美久。互いの磁力で回りながら、触れたり離れたりして、やっと僕らはそれぞれに方角を示した。
「じゃあ、また」
 僕らはすれ違って歩き出した。
 世界の隙間を漂うきみが浮かぶ水面を、僕は滑るように漕ぎだした。きみが指し示す方角へ、水の尾を引いて、時を自由に航る。
 僕は立ち止まって空を振り仰いだ。雲の隙間から差す日差しの暖かさに春の訪れを感じて目を細めると、何か見えそうな気がした。空に聞いてみよう。もしも彼女が怯えたら、その時はつかまえて目隠しすればいい。旅はまだ長いのだから。




 定例の店長会議から戻った店長は御機嫌だった。出る時はあんなにむっとしていたのに。丸山さんが「どうでしたか?」と訊いた。
「いやそれが、おもしろいの何のってさ。あの企画の本多、あいつがうちの悪口言い触らしてたらしいんだ、あそこはろくなモンがいねえってさ」
「あら、彼は私が視界に入ってなかったのかしら」
「僕も」
 すみません、と空は恐縮している。
「それが、新宿店のバイトにT美の子がいてさ、山崎とは直接知り合いじゃないらしいんだけど、名前は知ってたんだな。『あの山崎隆之が、うちのバイトだったんですか』とこうだ」
「あの?」と丸山さん。
「そう、本多も『あの?』と訊いたらしい」
「嫌だわ」
「そしたらその子が言うには『山崎隆之って言ったらT美じゃその才能と特異なキャラクターで超有名人ですよ。何せ山崎君は、あの高畠深介をジジイ呼ばわりできる唯一の学生なんだから』って言われて、本多の奴まっつぁおになったそうだ」
 店長は「これには俺も驚いた」と腕組みした。
 山崎が高名な高畠深介の愛弟子と知って、本社の人間は騒然となったらしい。そこでやっと人事部が、高畠氏が空を双月堂に紹介した時、雇うならこの店にまわしてやってほしいと口添えした理由に気づいたのだ。ここに山崎がいたから。
 高畠氏の影響力は大きい。山崎を解雇した事で、双月堂への信用をなくされたらどうなるか。まして原因は彼が大事にしている親友の娘が絡んでいる。空が拒否した彼女の絵の販売企画は高畠氏も反対するだろう。中止にするしかない。また、T美大は大口の顧客でもある。営業部も慌てふためいた。
「あいつまさか」
 丸山さんと店長も愕然としている。
「こうなるの全部わかってて、名前覚えてけって言ったのか?」
 山崎。
 やっぱり奴にはかなわない。僕が「すごいな、あいつ」と、びっくり眼の空に笑いかけた時、棚の間を窮屈そうに入ってきた長身の男が「お疲れさんです」と片手を挙げた。
 噂をすれば影だ。山崎が現れて店長は「うわっ」と言った。「集まっちゃって、何の話ですか」と訊く山崎に、店長は本社での様子を話して聞かせた。
「どうなんだ、本当のところ」
「え?まさか、カッとなってて全然考えなかった。あの野郎が帰ってからだよ、気づいたのは。高畠サンだよ。俺の性格知ってて、こんな手まで打ってたとは、って、やられたと思った。だから素直にクビになったんだけどね。高畠サンに『クビになりました』って言ったら、『知ってる、空から聞いた』って、そんだけだよ。そう、『それより』って言いやがった、『それよりも、空が私のせいだって、初めて泣きついてきて、嬉しかったなあ』ってデレデレしやがって、あのジジイ」
「空ちゃんの事、本当の娘みたいに思ってるのね」
 空は照れくさそうに笑った。
「高畠さんは山崎君の事も、息子みたいに思って信用してる」
「……」
 山崎はむくれたまま、頭を掻いた。
「人事は山崎を呼び戻したいらしいぞ。連絡取れないって嘆いてた」
「嫌ですよ。この店は好きだけど、高畠深介の名前で戻るなんて。それに、もうバイト決めちゃったし」
「どこ?」
「そこ」
 山崎は向かいの書店を指さした。
 一瞬の間を置いて、大笑いした。客が何事かと覗いていく。
「向こうの店長があの時一部始終見ててわかってくれてたし、顔見知りだから安心して雇えるって。ここの営業も話のわかる人で助かった」
 店長が山崎を小突いた。「心配させやがって」
「また毎日会えるよ、ハニー。もう泣かさないからね」
 以前のように山崎が空を抱きしめた。
 空は、困惑と、素直な喜びとが入り交じった笑顔で山崎を見上げた。僕が言った。
「気安く触るな」
「抜け駆けしたくせに」
 時がスライドする。ゆるやかな足取りからステップ、そう、階段を駆けて、繰り返したどるような錯覚の螺旋の中で、僕らは今、確かに一段を軽々と飛んだ。
「まぶしいよ」
 空が目を細めた。

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ここまで読んでくれたあなたへ、心からありがとう。 Feb. 17, 1998 佐倉蒼葉