ピンポーン、と呼び鈴が繰り返し鳴っていて、僕は目を覚ました。いつのまに寝ていたんだろう……窓の外も部屋の中も暗い。もそもそとソファから起き上がり、インタホンの画面を見ると、鎌田さんだった。僕が玄関に出ると、「ちゃんと食ってるかい?」と、手にしたスーパーのレジ袋を見せた。とりあえずあがって、と迎えた。
「…陽ちゃん、目が腫れてるな。泣いたのか」
「え?…いや、寝起きなだけだよ」
「隠さなくていい。死神の仕事のせいか?」
と言われてびっくりした。
 レジ袋をダイニングのテーブルに置いて、向かい合って座る。「幕の内とカツ丼、どっちがいい」と訊かれ、「じゃあ、幕の内で」と弁当を受け取った。
「鎌田さん、知ってたの?親父が死神だった事」
「ああ。一人じゃ苦労の多い仕事だからな。親父さんが俺に陽一を頼むって、この事だったんだよ。親父さんとはコンビで死神の仕事やってたんだ。今風に言うと『バディ』ってのか?ハハ」
「じゃあ、鎌田さんも霊が見えるの?」割り箸をパチンと割った。
「いや、俺にゃ見えねえ。神様のお告げも親父さんにしか来なかった。俺はちょっと手伝っただけだよ。そういうのはバディって言わねえか。親父さん、たまに仕事の後に泣いてたなあ。今の陽ちゃんみたいにな」
 あの親父が───意外だった。
 僕にはそんな一面をかけらも見せなかった……
「死神ったって人間だ。できる事とできねえ事があらあな。よく言ってたよ、死神なんて無力だってな。魂を天界に送るしかできねえんだって。でもな」
 鎌田さんは箸の先で宙を指した。
「この世で迷ってる魂もいっぱいいる。その中で魂を天界に送ってやれる、成仏させる、なかなかできる事じゃねえよ。そんな親父さんは、根っから優しいんだって、優しくなきゃ死神は務まらねえんだって、俺は思ってた。だからよう、陽ちゃんが泣いてたって驚きゃしねえよ。親父さんに似たんだな」
「……」
「おまえさんは優しい子だ。おしめしてる頃から知ってんだ。ハハ。立派な死神になれるよ」
「そうかな」と、僕は天界に送る筈だった佳純を助けてしまった事を話した。
「そうかい。佳純ちゃんが死亡予定者だったのかい……」
 鎌田さんはカツを噛んで黙り込んだ。僕も黙って柴漬けを噛んでいた。鎌田さんは頬杖を突いて、
「陽ちゃんは、それで良かったと思ってるんだろ?」
「うん」
「じゃあ胸張ってろ。何もかもが天界の思惑通りにいかないのが人間の世界なんだって、わからせてやれよ。それはな、生きてる人間にしかできない事なんだよ」
 生きている人間にしか───
 先刻別れたばかりのカオルを思い出した。夢を持って生きていたカオル。僕よりずっと、将来を考えていたんだ。生きていれば夢を叶えていただろう。それだって生きているからできる事だった。その魂を、天界に送るしかできなかった僕。
「…ごめん、鎌田さん。俺…まだ泣けてくるよ…」
 箸を置いて顔を両手で覆った。
「泣きたい時は泣いていい。それも人間だからよ」と静かな声がした。




 鎌田さんが帰った後───死神の仕事で困った事があったら頼ってくれと言われた後───シャワーで風呂を済ませてさっぱりした。何気なく見たスマホに佳純からメッセージが届いていた。『お夕飯食べた?』
『遅くなってごめん、風呂入ってた。食べたよ』と送ると、すぐに
『何食べた?』
『鎌田さんが持ってきた幕の内弁当』
 笑う猫のスタンプが返って来た。
 次いで『FaceTimeで話せない?』と一言。OKと送ってFaceTimeを起動し、佳純を呼び出した。佳純は「こんばんは」と軽く手を振った。僕も手を振り返す。小さな画面の中の笑顔に癒される。
 何を話そう、と互いに思っている沈黙。
 佳純は戸惑いの表情だったが、ちょっとムッとした顔で「今日、全然話せなかった」と視線を逸らした。
「陽一くん、あんなに噂になってるんだもん」
「僕だけじゃないでしょ」と小さく笑いが洩れた。
「だから話しかけにくくて…友部くんもいたし…」
「それを言ったら僕だって、飯綱さんがいて話しかけられなかったよ」
「話しかけようとしてくれたの?」
と、佳純の顔がぱあっと明るくなった。思ってる事、全部顔に出るんだな、と可笑しかった。かと思うと、またムッと唇を尖らせた。
「だったら話しかけろよな。…選管委員に行くまでのちょっとの時間しかなかったし…ちょっとだって…話したかったんだよ」
 僕が「ごめん」と言うと、「謝る事じゃねえよ」上目遣いで言われた。
「あ、」と佳純が口元に手を添えて何かに気づいたように言った。僕が「何?」と訊くと、
「ごめん…言葉遣い…。和歌子に言われたの。それじゃ八神くんに嫌われるって…」
「大丈夫だよ」フッと笑いが洩れた。「知ってて好きになったんだから」
「……」
 むしろ「クソバカ野郎」と泣いていた佳純が可愛かったのだと、それは言わなかった。
 暫しの沈黙の後で、佳純がボソッと「…ありがと」と言った。
「飯綱さんは僕らが付き合ってるって知ってるの?」
「うん…黙ってようと思ったんだけど…噂のせいで、事故の話になったら、あっさり見抜かれちゃった」
「ははっ、そうか」
 勘が良さそうだもんな、飯綱。
 佳純とは対照的に背が高く、ちょっときつい印象のつり目で、神秘的な雰囲気の子だ。佳純の親友なら、見抜いて当然、といったところか。
「あの…明日から夏休み終わりまで、バイト休みなの。教えてる子が、宿題ためちゃってて…それで、よかったら、あの…」
「あー…。明日はバイトの面接があって…採用になればの話だけど、暫く忙しくなると思うんだ」
「バイト?この時期から?」
「うん。生活費稼がなきゃ」
「あ…ごめん…」
 佳純の表情が暗くなったので、僕は「いやいや」と手を振った。
「だから、明日なら面接の後に時間が空くから…ちょっとだけど、会おうよ」
「…うん」と答える佳純は天使の微笑みだった。
 この顔にも僕は弱いんだ、と苦笑した。




 その夜、夢を見た。
 白い雲を敷いたような、眩しい場所で、カオルが手を振っている。
「八神、私、ここから見てるよ」
 ───そこは幸せな所かい?
「うん。詳しく言っちゃダメなんだけど、私、どうしても八神に伝えたくて」
 ───なんだい?
「生まれ変わったらまた会えるって。ちゃんと会える所に生まれ変われるって。だから待っててね」
 ───うん。待ってるよ。
 僕は手を大きく振った。カオルの笑顔が光に包まれ、見えなくなった。




 幸せな心地で目が覚めた。その余韻に浸りながらトイレのドアを開けると、ふわりと紙が一枚、落ちて来た。
『次のおまえの担当死亡者が決まった。柳宗一郎、七十六歳。区内の老人ホーム、ふるさとの園に住んでいる。死亡予定は明日、午後七時十分。それまでに本人と接触しておけ。死因は肺炎だから、おまえでも助けられない。死を受け入れる覚悟をしておけ』
 死を受け入れる覚悟───僕はその場で凍りついた。また一枚、ひらりと落ちてくる。
『これは助言だ。鎌田に相談しろ。本来ならこんなサービスしないぞ』
「恩着せがましいな…」と僕は頭を掻いた。
 明日……『本人との接触』を急いだ方が良さそうだった。今日は佳純と会う約束をしてるのに……
 とりあえず鎌田さんに電話しよう。まだ出社前の筈だ。僕はスマホを手に、パジャマのままリビングのカーテンを開けた。
 プルル、とコール音の三つ目で鎌田さんが「どうしたい陽ちゃん」と出た。僕は手短にお告げを話した。
「ふうん、老人ホームか。俺の出番のようだな」と言う鎌田さんの声の明るさに救われる思いがした。「わかった、昼に帰るから、ふるさとの園の近くで落ち合おう。ファミレスでいいか。───バイトの面接があるんだろ?急がなくていいからな」
 また連絡する、と電話が切れた。
 今朝もトーストで朝食。食パン一斤って、一人だとなかなか減らないんだな……妙な寂しさがこみ上げた。面接の時間まで、僕は掃除と洗濯を済ませ、アイロンをかけたシャツに着替えた。戸締りを指差し確認して、自転車を漕ぎ出した。
 履歴書を買ったコンビニで、面接は簡単に済んだ。明日からでも入れるかと訊かれ、「明日はちょっと…明後日からでいいですか」とお願いした。明日は死神の仕事が入っている、そう思うだけで胸が詰まった。
 次は佳純だ。僕は自転車を飛ばして佳純の家に向かった。途中、スマホが鳴って、僕は路肩に自転車を停め、乗ったまま電話に出た。鎌田さんだ。ふるさとの園が見えるファミレスにいると言う。僕は「ちょっとだけ待って、すぐ行くから」と頼んだ。ふるさとの園が佳純の家の先にあるのが救いだった。
 天ヶ瀬家は想像以上に大きかった。古い板塀に屋根が付いている。大きな門の向こうに立派な松が見えた。僕はゴクリと息を呑んで、思い切って呼び鈴を鳴らした。「どちら様ですか?」と言う声が佳純のものだったので「八神」と答えると「はい、待って」と通話が切れた。少しの間を置いて木の門が開き、佳純が笑顔で「陽一くん」と呼んだ。
「どうしたの?約束の時間より早く」
「ごめん、急用ができたんだ」
と言うと、佳純の表情が曇った。僕は佳純の手を引っ張り、頭を引き寄せて、額に軽くキスをして「よし、やる気チャージした」と笑ってみせた。
「…もう、バカ!」
 佳純が真っ赤な顔で目を潤ませた。
「じゃ、行ってくる」
「…いってらっしゃい…」
 僕はまた自転車のスピードを上げて、鎌田さんの待つファミレスへと急いだ。




 ファミレスに着くと、鎌田さんが「陽ちゃん、こっち」と呼んだ。テーブルの上にはパフェの空きグラスがあった。僕はアイスコーヒーを頼んで「ごめん鎌田さん、待たせちゃって」と謝った。
「いいってことよ。相手が施設に入ってるとなると、陽ちゃん一人じゃ接触が難しいからな。俺がボケ老人の役でもやろうと思ったが、ほら、向かいの庭が見えるか?」と僕の背後を指差した。振り返ると数人の老人たちがゲートボールに興じていた。
「みんな元気なもんだ。これなら、俺でもすんなり入れそうだけど、一応、俺のカミさんを入所させる下見って事にする。陽ちゃんは世話役の孫になってくれ」
「わかった」
 自転車を飛ばしてきたので喉が渇いていた。僕がアイスコーヒーを飲み干すと、鎌田さんが「じゃあ、行くぞ」と立ち上がった。
 ふるさとの園。
 人生の最期を迎えるのにぴったりな名前だった。薄桃色の看板の前を通り過ぎて、入り口の前に立つと自動ドアがシュンと開き、涼しい風が流れてきた。鎌田さんはまっすぐ受付に向かい、「見学の予約をした鎌田です」と名乗った。予約までしてあったのか、と、鎌田さんの手回しの良さに、慣れてるんだなと思った。
「では、ご案内します」
と担当の人が奥から出て来た。「まずこちらが自由にご歓談いただけるロビーでございまして…」と説明しながら施設内を案内された。二階から上には個室が並んでいて、空いている一室を見せられた。空調、大型テレビ、清潔なベッド、テーブルセットなど完備され、一人暮らしの老人の部屋が豪華になった、みたいな感じがした。
「ちょっと自由に見て構わないかい」
「それでしたら入居者様のご迷惑にならないよう、一階だけでお願いします」
「ん、わかりました」
と、案内人が離れると、鎌田さんが小声で「神様に訊いてくれ。誰が柳さんか」と言った。僕はちょっと待って、とトイレに入り、「便所紙」と呼んだ。
「柳さんってどこにいるの」
『集会室で一人で将棋を指しているのが柳宗一郎だ』
「ありがとう」
 鎌田さんの所に戻り、先程も見せられた集会室に足を踏み入れた。おばあさんたちが楽しげにおしゃべりをしている。皆にこやかな中で、一人、本を片手に将棋を指す柳老人は厳しい顔をしていた。
 鎌田さんが話しかけた。
「一局、お手合わせ願えませんかな」
 柳さんはジロリと僕らを見て、「構いませんよ」と無表情に答えた。
 駒を並べて、鎌田さんと柳さんの対局が始まった。
「…見た事ない顔だな。新しく入ったのかね」
「カミさんを預けようと思ってましてね。今日は見学ですよ」
 パチリ、と駒を置くと「それで対局しようとは珍しいお人だな」と柳さん。鎌田さんが「無類の将棋好きでしてね」と言ってパチ、と次の手を打った。
「将棋仲間がいるのなら、俺もここに入ってもいいかもな」
「フン」と柳さんはやっと笑みを見せた。
 パチン、パチン、と駒を打つ音だけになった。二人とも将棋に熱中している。僕は何をすればいいのかな…と思いながら見ていると、鎌田さんが次の手を打とうと駒を手にしただけで、柳さんがニッと笑った。
「その手じゃ五手先で詰みだ。私の勝ちだよ」
「…参りました」
 鎌田さんが頭を下げると、柳さんはまたフンと笑った。
「少年、君もやってみるか?」
「いえ、僕は将棋は全然わからなくて」
「なんだ、じいさんの相手もしてやれないのか」と呆れた声で言い、「じいさん、教え込んでおくといい。老後の楽しみになるからな」とカラカラと笑った。
 その笑いは、厳しい老人という第一印象を塗り替えた。
 鎌田さんが尋ねた。
「いつもお一人で将棋を指しておられるのですか」
「ああ」という声が少し沈んで聞こえた。
「見ての通りの独り身だよ。もう二十年も前に息子とその家族を事故で亡くしてね。家内も先に逝ってしまった。このままじゃ孤独死するだけだって、遠い親戚にここに入れられて、誰も来やしない」
と、不意に僕を見て「じいさんを大事にするんだぞ。私みたいにならないようにな。見たところ、じいさんはまだ若い。人生百年の時代だ。孤独な時間を長くさせるなよ」と言う目が寂しげだった。
 ああ、この人は……孤独なんだ───
 僕は「はい」と答える返事を噛みしめた。
「あの、もしよかったら、明日も来ていいですか」
「どうして?」
「僕と勝負してください。将棋、教わっておきますから」
 それを聞いた柳さんは目を丸くして、フッ、と吹いてカラカラ笑った。
「いいだろう。手加減はせんよ。じっくり教わって来い。待ってるから」
 ではこれで、と僕と鎌田さんは集会室を後にした。
「さすがだな陽ちゃん。明日ここに来る約束ができた」
「え?」
「え?って…ええっ?明日の為に言ったんじゃないのか?」
「…忘れてた…」
 明日、柳さんは亡くなるのだ。僕が迎えに来るんだった。
「柳さん、寂しそうだったから…何かしてあげたくて…」
「そうか、そうか」
と鎌田さんは僕の髪をクシャクシャと撫でた。
「よし、今日はこれからみっちり将棋を仕込んでやる。晩飯は弁当でいいか?」
「また?」
「俺に勝てるまでやるからな。柳のじいさんが待ってるんだから」
「───うん」
 待ってるから、と言った柳さんの笑顔は、この日見た中で一番、幸せそうな笑みだった。
 そうして僕と鎌田さんは家に戻り、将棋の特訓をする事になった。駒の動きから始めたので、対局も弁当を食べながらだ。
 初心者だから仕方ないとはいえ、夜の十一時までやっても鎌田さんに勝てなかった。一旦、風呂に入る間も、明日の柳さんとの対局をイメージしていたが、勝てるとは思えなかった。鎌田さんは泊まり込みで夜中の二時まで付き合ってくれた。さすがに眠気が襲ってきて、勝てないまま寝てしまった。
 朝起きると鎌田さんは「仕事へ行くから」と置き手紙を残していなくなっていた。悪かったな…と思いながら、今日は仕事だ、と両手で両頬をパチン、と叩いた。
 僕が柳さんの最後にしてやれる事を、全力でやるだけだ。昼食が済む頃に行けば、一局できるだろう……
 また朝食はトーストだった。佳純の塩サバサンドが食べたかった。