水滴の国

 それが重くなければ抱えられることはなかったろう。一吹きの息で飛び去るものだとか、ビルの窓からふわりと舞うものであれば、指先でつまめばよいのだから。




 その夜、小雨が降っていた。
 コンビニの袋を下げて私は歩いていた。昼には夏を思わせる日差を窓の外に見ていたのに、夕刻には風が雲を連れてきてあっけなく空気を冷やす。湿った匂いに充ちる頃、音もなく雨は降りだした。
 傘を持たずにいた私は袖口の雨粒を数えたり、湿った髪の先を口に含んで吸ったりしながら歩いていた。近道の公園に入ると、狂ったまま放置されている時計が律儀に明かりを灯している。時計と外灯の白い光は公園の隅と隅から放たれて、何もない空間を浮かび上がらせている。影に沈んだブランコが軋む音。
 誰?
 目を凝らすと、きみがブランコに座って私を見ている。キイ、と軽く揺らして鳴らす。私はきみに近づいた。
「何してるの」
「何も」
 きみは嘘をつかない。きみがこう答える時は、本当に何もしていないのだ。私を待っていたとか、どころかブランコに乗っていた訳でもない。きみがブランコに座っていたのは何の理由もなく、それがベンチであろうと、砂場の縁であろうと、あるいはあの円い光の真中であろうと、きみにはどうでもいいことだ。
「今、帰り?」
「うん。帰らないの?」
「まだ、しばらくは」
 私はきみの隣のブランコに腰掛けた。
 キイ、キイ、と私ときみのブランコが交互に軋む。
「帰らないの」きみが訊いた。
「まだ、しばらくは」私は答えた。
 手提げ袋から板チョコを取り出し半分に割って、片方きみに差し出した。きみは銀紙を剥がしてかじった。
 この瞬間から、私にとって6月の雨の夜が特殊なものになってしまったことを否めない。
 朝も真昼も夕方も、「あ、この匂い」……と、木々の緑と湿った土と空気の匂いが、からりとした風が私を惑わそうとしても、私の周囲で環を縮め、私を捕まえてしまう。
 それは拘束であり、その環は枷である。私は6月に従順にうなだれ、夜を待つ。約束通り雨が降り出すと、……少し書くのをためらわれるが……様々な症状を伴いながら、なんとも形容しがたい感覚が私を襲う。
 嗅覚、聴覚、触覚的刺激が、眠る人の夢に訴えることは知られている。これらの感覚が人の記憶の中からそれらに見合った記憶を引き出し、夢に多少の辻褄を合わせて表れる。もちろん目覚めている時も同様。この雨の緑と土との強い匂いは、私の記憶のきみに直結する。




 きみが嫌いだった。
 始めの頃は、きみとは学校で顔を合わすだけだった。授業を終えて、教室がにわかに騒がしくなり、きみと、席を前後する友人、その隣の私とで言葉を交わす。その時のきみは穏やかな笑みを浮かべ、相槌を打つか、頬杖をつき話し手の顔を見るかしていた。
 きみがそれらの話題に何等関心を示さないことに気づいたのは私だけではなかった。しかしそのことも彼らにはたいしたことではなかった。それはきみが、居るのか居ないのかとさえ感じさせないほど、静かに、そして確かにそこに居たのだ。
 それは不思議な存在感だった。目の前に並べられた言葉のすべてを受け入れながら、まるですべてを拒むように、きみの言葉は空中に霧散する。そんな気がして宙を見ていると、時々きみと目が合った。戸惑いが二人の間でぶつかる。胸に重くのしかかる不快感。
 以前この公園の近くで偶然出会ったことがある。
 あれ、この近くだったの? いや、駅の向こう。こっち側の本屋の方がたくさん置いてるから。ついでに散歩。越してきたのは最近なんだ。別に理由はないけど。
 きみはそんなどうでもいいような言葉を並べて曖昧な笑みを見せた。
 私はその笑顔が嫌いだった。
 ひとりになりたかったから。
 その言葉がなかったら、私は笑い返すことができなかったに違いない。




 きみは親指に付いたチョコレートを舌先で舐めた。残った銀紙を握り潰し、丁寧に丸めて球にすると掌に載せ指先で転がしていた。
「どうしてかな」
「何が」
「チョコレートがうまい」
「さあ」
「何にも食う気がしなかったのにな」
「おなか空いてたんでしょ」
「そうか」
 きみは軽くうんうんと頷いてブランコの鎖に左の頬を寄せた。伏せた睫毛の長さに驚く。
「困ったな」
「何が」
「きみが帰ってくれない」
「?」
「誘いたくなる」
「それはどうも」
 きみは私の答えにこちらを見ると小さく笑った。
「本気で言ったのにな。まあ、いいや」
 きみは煙草をくわえて火を点けた。踵で土を蹴り、ブランコを小さく揺らす。規則的なキイ、キイ、という音に呑み込まれてゆく。私たちは振子の時計の中に潜り込み、歯車になって噛み合ってゆく。歯は互いを微かに擦り減らし傷つけ合い、それでもギザギザの隙間を重ねるのだった。どちらかが外れるまで。
「風邪ひくよ」
「だろうね」
「まずいコーヒーでも飲む?」
「まずいの?」
「このところの雨で湿気ってるかも」
「飲むなら夜明けがいい」
「ばか」
 揺れるブランコで、私たちの視線が交じり合っては離れた。繰り返される一瞬に交わす孤独の熾火に互いの心が引火する。
 どちらからともなく手を伸ばした。
 それがとても重かったので、私は腕に力を込めて抱く他なかった。




 一緒に居るだけで他に何もない二人だった。
 およそ暮らしてゆけるとも思えないほど何もないきみの部屋の窓辺で、一応吊るされていたカーテンを弄んでいると、きみは向こうの壁に凭れて座り、脚を投げ出して黙り込む。テーブルがないのでカップも床に置く。ハンガーもないので着る物はすべて押入に放り込んである。
「動物みたいね」
「うん」
 口をきくのも面倒なようだった。
 約束もしない。互いになんとなく部屋を訪ね、寄り添って床に座り、足の爪が曲がっているとか、歯磨粉が辛いとか話しているだけ。額をつけてテレパシーごっこをしたり、それから唇を重ねて床に転がっても、ただそれだけのことだった。言葉もなく、ただ熱を奪い合い、疲れる頃には夜気に冷やされてゆく。きみと私は同じ夢を見た。このまま放熱を続け、冷たくなりたいと。
 きみは天井を見上げたまま言った。
「漫画で読んだと思うんだけど、洗面器に水を張って、顔つけて自殺しようとするのがあった。結局苦しくてぷはーって顔上げちゃうんだけど」
 私たちはひとしきり笑った後、目を合わせた。
「やってみようか」
 なんだかおもしろそうだった。きみは起き上がり、白い背中が暗い部屋で光った。
「あ、洗面器がない」
 また笑った。
 おもしろいというのは正確ではない。些細な滑稽さ、どうでもよいくだらなさ、みっともない私たち。ただし誰かが目をとめるようなことがあれば。自嘲の笑い。
 誰も気にとめない。誰も見ない。だから私たちはここには居ない。二人で居れば、思いきり不精でいられた。私たちは時間の許す限り、部屋でじっとうずくまっていた。
「考える人」
 ポーズをつける私。きみも丸めていた背を伸ばす。
「信楽焼」
「何、それ、狸の?」
「そう」
「ばか」
「九谷焼の徳利」
「伊万里の皿」
「使い捨ての紙皿だろう」
「使用済みティッシュのくせに」
 床に転がって膝を抱えて丸くなる。肩をすくめて、より小さくなろうとする。首が痛い。きみは仰向いて大の字になった。
「死体」
「何?」
 返事がない。起きあがって呼び続けると、きみは「死人に口なし」と言った。そうか、それがいちばん楽なんだ、と私も真似をした。「まばたきするなよ」きみが言った。私は死体なので答えなかった。
 まばたきを堪えてじっと天井を見ていると、少しずつ涙が滲んでくる。私たちは無力だ。こうしているとそれがよくわかる。学校で、街角で、誰かの隣で、それが今と何が違うというのだろう。
 ジリリリリリリリリリリリリ
 反射的に起きあがった。きみは部屋の隅に落ちていた目覚まし時計をつかむと壁に叩きつけた。時計から電池が転がり、時も死んだ。きみもまばたきをしないでいたのだろう、赤い目をこちらに向けた。音がない。水の中にいるようだ。
「おまえが嫌いだよ」
「知ってる」
 なぜなら私たちは同じ寂しさから生まれた双生児だから。互いの重さに堪えかねて力尽きる日が来ることもはじめから知っていた。それでも、この温い世界はとても心地良くて、ずっと居られるような気がしていたのだ。
 一滴の水の中から私たちは浮上する。




 その時まで、こんなふうに6月の毎日を、私は自分の、あるいはきみの部屋で過ごしていた。その後、きみの部屋を訪ねることはなかったし、きみも私の部屋に現れなかった。学校で挨拶を交わすことはあっても、もう笑顔は要らなかった。
 6月は重い枷、でもそれは糧でもあるから、外すことはできなかった。
 本屋を出ると、傘立てに私の傘はなかった。突然の雨だったから、誰かが失敬していったのだろう。
 私は何も持たずに歩いていた。
 あの時に手放してしまったから、もう私の手には何も残されていない。ただ重みに堪えた跡が微かに見えるだけだ。
 私の体は徐々に雨に侵されてゆく。どこかから雨漏りがしているのだろうか。どこまでも冷やされてゆく。
 額から頬から滴が流れ落ち、唇をなぞる。それを舐めて飲み下す。
「もう少し」
 ふいに呟く。もう少し、何が?
 もう少しで部屋に着く。もう少しここに居たい。
「何だろう」
 もう少しで終わる。もう少しで梅雨が明ける。もう少しここに居たい。もう少しで諦めよう。
 もう少しここに居よう。もう少しだけ考えよう。もう少し許してみよう。もう少しで終わりにしよう。
「もう少し」
 公園の時計は直されている。もう何か月になるだろう。時計の明かりの中を雨が落ちてゆく。我知らず掌を見る。両の掌から雨水は滴って地に還ってゆく。
 もう少し。
 力があったなら。
 私はもと来た道を引き返す。早足になり、駆け出して駅まで。踏切を渡る。
 誰にとっても私たちは居なかった。けれど触れた手は熱かった。きみは確かにそこに居た。
 私は、それが重いので、抱きしめるしかないと思った。満身の力で。それが小さく軽ければ、笑った拍子にどこかへ飛んでいってしまったろう。それはとても重かったので、いつまでも足元に落ちていた。私はそれを拾うことに決めた。もう終わった。もう判った。
 重いそれを、抱くほかに私は何も知らない。手首に痣。痛みを堪えて、水の中に飛び込んでゆく。
 雨を吸った私がきみにも重いことを祈る。

1993年筆/2017年修正加筆

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