橋の下の家-1

 月のない夜、私は家の者達が寝静まるのを待って床を抜け出した。昼のうちにこっそりと用意した荷物を背負い、物音を立てぬように家を出る。扉が閉まるかすかな音を、眠りの浅い誰かが耳にしたかもしれなかった。私は暫し扉の前で身動きもせず、家の中の気配に耳を澄ました。
 ………大丈夫のようだ。
 私はランプも提げずに歩き出した。これが夏ならば、生い茂る木々の葉に空は覆われ、私は無限の闇に呑まれていたことだろう。秋の風は色づいた葉を落として、丸裸にされた枝の影が深い夜空を罅のように走り、今にも割れて落ちそうな空に貼り付いた星のさざめきが私の行く手を照らしていた。
 小川沿いの小径を、流れに逆らい上ってゆく。辺りは虫の音に満ち、私は音の隙間の静寂をくぐって、ゆっくりと国境近くの丘を目指した。
 遠くに人影が見えた。あれは…と、考えるまでもなかった。
 彼女は私と同様にローブをまとい、星明かりに照らされた顔は一層青白く見えた。私に気づいて立ち止まる。私は彼女に歩み寄り、言葉を交わすことなく、並んで丘を登り始めた。
 丘の上では、既に来ていた黒髪の青年が老木の根元に座り込んでいた。彼はすべてにおいて享楽的で破滅的だ。細面にかけた眼鏡だけが興ざめするほど現実的で、私達はいつも、私達がここに在るということを思い知らされるのだった。




 私達は荷物を下ろし、脱いだローブを老木の枝に掛けて、スコップを手にした。
 黙々と、穴を掘る。
 丘を渡る風は冷たいというのに、私の額には汗が滲んできた。土は乾いて固く、掌も腕も背中も膝も、すぐに痛み始めた。深く息を吐いて手を止めた私に、彼が「西の森の方が良かった?土が湿ってやわらかい」と言って鼻で笑った。
「いいや」と私は答えた。この丘を選んだのは私である。
「確かに、」と彼は土を掘り返しながら続けた。
「向こうより寝心地は良さそうだ」
 私達は墓穴を掘っている。




 彼女は長いスカートの裾を自分の掘り返す土で汚しながら、「あなた方は何を持って来たの」と訊ねた。
「私は種を持って来たわ。どんな花が咲くのかしら。知らないけれど」
「何も持って来なかった。僕は何も要らない」
 二人は私を振り返った。
「私は…、きっと重労働でお腹が空くと思ったから、ラスクと、お茶を持ってきた…」
「そいつは」と彼が目を細めた。
「ああ、あなたは生きているんだね、まったく!」
 そう言いながら彼は身体を折ってクククと笑った。
「まあ、そう自分を恥じなくていいさ。ちょうどいい、疲れてきたところだ。一休みに、お茶でも飲もう」
 彼がスコップを放り出した。私たちは穴から上がって老木の下に座り、ラスクと水筒のお茶を分けた。




 あれは夏祭りの夜だった。
 息子夫婦は昨年生まれた孫を連れて、花火を見に行くと言って出かけた。私は独り残ることにした。妻がまだ存命ならば、彼女が私も一緒にと連れ出しただろうが、私に祭りの人混みの中へと足を向ける気力はなかった。私は酒をグラスに注いだ。酒はグラスに半分程しかなく、食料庫を探してみたが、酒はもう残っていなかった。
 私は酒を買いに行くことにした。祭りの夜である。呑みたい気分だった。しかし酒場の賑わいは耳障りだ。酒瓶を提げて、川沿いに街への道を下った。
 街の広場には出店のテントが並び、赤鼻の親父の酒屋も港へ続く街道の入口に店を出していた。私は≪やあ≫と彼に声を掛けた。親父も≪やあ≫と答えた。息子夫婦は、浜で打ち上げられる花火を港から見るため彼の店の前を通ったらしい。≪あんたが来たら、たくさんは売らないでくれと嫁さんに頼まれたぜ≫と親父は赤い鼻を鳴らして笑った。嫁は酒の残り少ないのを知っていたのだった。≪こっちは商売ですぜと言ったら、だから少なく頼むってさ≫
 親父が≪ほらよ≫と返した酒瓶の口から、半分程の酒が揺れるたぷんたぷんという音が聞こえた。
 街の賑わいが遠くなると、川の流れと酒瓶は、たぷんたぷんと音を交わして、何か会話しているようであった。遠く、背後でドンと大きな音が鳴った。海の上に花火が上がった。頭の上で、空が瞬く間に色を変える。
 ドン
 ドン、ドンドン
 次々と花火が打ち上げられる。そのたびに川の面は空を映して、赤や青や緑の光の粒を撒き散らしていた。
 ドン
 辺りが明るくなる。私は橋の上に人影があるのを見つけた。目を細めたその時、再び闇が降りた。
 ドン、ドン、ドン
 赤い光に照らされて、細い人影は橋の欄干に身を乗り出そうと手足を掛けているのがわかった。身投げだ、と私は咄嗟に思った。
 やめなさい
 私は大声で叫んだ。人影は私に気づいて、怯んだように動きを止めた。私は橋に向かって駆け出した。酒瓶が急に重くなったように感じられた。酒瓶を土手に放り出して、私は再び川へ飛び込もうとする影へと走った。
 やめろ、やめるんだ
 ドン、ドン、ドン、
 花火の音が私の声をかき消してしまう。
 だが花火は辺りを明るく照らし出した。石造りの跳ね橋の上から今にも飛び降りそうな───女だ。まだ若い。
 私は彼女の両脚を抱え込んで、欄干から引きずり下ろした。私たちは橋の上に倒れて転がった。
 いったい何を───
 それ以上は、息が切れて声にならなかった。
 いったい何を騒いでいるんだ
 誰かの声がした。どこから───と、私たちは周囲を見回したが、橋の上には誰の姿もなかった。
 おい、これはあなたのだろう
 その声は軽い笑いを含んだ、若い男のものだった。私はようやく立ち上がると、声の主を探して土手を見下ろした。
 ドン
 橋の下で私の酒瓶を手にしてこちらを見上げる眼鏡の青年が青白い閃光に浮かび上がった。
 君こそ───気がついていたなら、
 あなたが来るまで気づかなかった。それより、これは捨てたんですか?
 私の言葉を遮って、彼は酒瓶を振ってそう言い、口の端を上げた。笑ったらしかった。
 私は傍らで放心する彼女を立ち上がらせ、一緒に来なさいと言って、二人で土手を下りた。一人にしたら、また身投げを図るだろうと思ったからだ。歩く意思さえない彼女を伴って、夜露に濡れた斜面と、走って痛みだした膝で、私はふらつきながら彼の許へ歩み寄った。
 数年前から、少し動いただけで体のあちこちが激しく痛むようになった。わずかな稼ぎで買う貴重な酒だ。私には他に楽しみもない。彼から酒瓶を受け取ると、私はふいに自分が何をしているのかがわからなくなった。
 ドン、ドン、───
 花火の音が遠くなる。
 草の上に座り込む彼は、花火にも彼女にも、そして私にも無関心だった。
 立ち去るきっかけがないのだ。
 私は途方に暮れて彼を見た。彼は鼻先や頬に掛かる髪に顔を隠すかのように俯いていた。何処かを見る黒い瞳。眼鏡が重たげに見えるのは鼻梁の細さのせいだろう。この大陸の端の田舎町から出たことのなかった私は、黒い髪を見るのは初めてだった。
 私は彼の向かいに腰を下ろした。どうしました、と彼が尋ねた。
 年をとると、少し走っただけで膝が痛んでね
 それなら休んでいくといい。何もありませんが、どうぞ
 まるで自分の家のようだな
 今はそんな感じですよ。───君も座ったらどう
 彼は彼女に、空いた場所を勧めた。彼女は何も言わずそこに座った。
 ドン、ドン、ドン、
 花火は続いている。しかし、誰も空を見上げなかった。
 彼女は俯いて放心していた。編み込んだ栗色の髪がほつれて青ざめた顔に影を落とすのが場違いに美しい。なぜあんなことをしたのか、と尋ねられるものか思案に暮れた。彼はシャツのポケットから紙巻き煙草を取り出して、私の前に差し出した。
 お客人に勧められる物がこれしかない。ご婦人に何も差し上げられず恐縮です
 彼女は反応しなかった。私は煙草を一本受け取って、酒瓶を真ん中に置いた。
 招いてもらったのだから、土産ということにしよう。…君もどうだね。少し落ち着くと思うが…
 彼はそれを見て、目の前の草の葉をちぎると、くるりとひねって盃を作った。同じ物を三つ作るとそこへ酒を注ぎ、一つを手に取り草の葉の盃を空けた。
 今夜はお祭りだ。音楽でもいかがですか
 そう言うと彼はまた一枚の葉を取って、草笛を鳴らし始めた。
 花火と私たちとの間の距離の分だけ、悲哀の混じった異国の旋律だった。




 その後の数日を、私はあの祭りの夜の余韻に浸って過ごした。
 結局、彼女には何も尋ねることができなかった。彼にも同じであった。私もまた、何も尋ねられることはなかった。私達はただ、草の盃でゆっくりと酒を呑み、彼の吹く草笛の音に耳を傾けていた。冷たい川風が心地よくそよぎ、花火が終わり静寂が訪れる頃、落ち着きを取り戻した彼女が帰ると告げて、静かに立ち去った。私も辞することにして立ち上がり、彼に言った。
 君のおかげのようだ。ありがとう
 彼は目を見開いて私の顔を見つめた。暫しの間を置いて、彼はまた口の端を上げるだけの曖昧な笑みを見せた。
 何のお構いもしませんで
 本当に、まるでここが家のようだな
 ええ
 彼が目を細めて頷くので、私は何とも不思議な心地がした。
 畑仕事も行商も、殆どを息子夫婦に任せるようになった。生活の貧しさを思えば、せめて飲み代の分だけでもと私も畑に出るが、思うように体が動かない。私は自分がもう長くないことを知っている。晩に呑む酒だけが私の安らぎであった。
 だが、あの夜以来、独り呑む酒は味気なく感じられた。いつもと同じ赤鼻の親父の店の酒は、草の葉の青い香りを包んで、新鮮に感じられたのだった。
 酒瓶が空になった翌日、私は夜を待った。
 瓶を提げて家を出る。赤鼻の親父の店で酒を買い、戻りしなに橋の下へ下りると、そこには彼女が居た。
 主はお留守のようですわ
 そうか。…隣に、座ってもいいかね
 彼女が頷いたので、私は彼女の隣に腰を下ろした。
 あの時はお礼も言えず、気になっておりました。お名前も伺えなかったので、あれからここへ来てお待ちしてましたの
 彼女はありがとうございましたと静かに頭を下げた。私はよしてくれ、もう気にしなくていいと言って酒瓶を置いた。
 …帰らないのかね
 ええ、まだあの方にもお礼を言っておりませんし
 じゃあ、あれから彼はここには来ていないのか
 はい
 そうだろう。ここではない、本当の家が彼にもあるのだから。あるいは旅人だったのかもしれない。彼の髪の色や草笛の異国の曲を思い出して、私はそう考えていた。
 彼はもう、来ないんじゃないかね
 そうかもしれません。でも、もう少し待ってみます。…あなたはお帰りにならないのですか
 少し、つきあうとするよ
 たぷんたぷんという川の流れの音を、ただ聞いているだけで、酔心地になるようだった。静けさと、水の匂い、草と土の匂いに私は酔った。これだ。これがあの家にはないものだったのだ。
 カサ、カサ、と草を踏み締める足音に、私達は振り返った。
 彼は眼鏡の奥の目を見開いて私たちを見つめていたが、その目を細めると口の端を上げて───笑った。
 いらっしゃい
 おじゃましてるよ、と私は答え、彼女は祭りの夜の礼を述べた。彼は酒瓶に目を留めて、また草の盃を作り始めた。そして草の皿を敷き、そこにビスケットを二枚並べた。
 まさかまたいらっしゃるとは思わなかったもので
 彼女は君にお礼を言いたくて毎日来ていたそうだよ
 ふうん
 彼は無関心にそう答えた。あるいは、わかっていたのかもしれなかった。
 …君はここへよく来るのかね
 と、私は尋ねた。彼は、偶にと答えた。酒を一口啜る。草の匂いが喉の奥までしみるようだった。
 子供がまったく無意味に言う悪口によくある…
 彼はふっと笑って話し始めた。
 おまえは捨て子だったんだ、というのがあるでしょう。僕もよく兄に言われたものだった。≪おまえは橋の下で拾われたんだ≫って
 ばかばかしい話だが、と彼は川面に目を遣った。
 しかし橋の下で拾ったという設定がなぜこんなにも浸透しているのかと考えてみたら、橋の下という場所が子供を捨てるのに適した場所だという結論に達した。物心つかない幼い子供が橋の下でどうなるか。運良く誰かに拾われるか、過って川に落ちるか、そのどちらかしかないんだ
 彼は楽しげに話しながら盃に酒を注ぎ、それをつるりと飲み干した。
 だから、僕は偶にここへ戻ってくる
 ……まさか、君は
 ここに捨てられていたって?まさか
 彼はハ、と短く笑った。
 僕はね、人間とは皆、橋の下に捨てられた子供のようなものだと思っている。拾われるのも川に落ちるのも運命だとするなら、生きることは運命に見放されたということだ。そこにあるのは常に、これかと思えばそれ、それかと思えばあれの、嘘の連続と紙のように薄っぺらい現実だ。この世の大抵のものは、ジョークで出来ているんだ。いくらでもごまかしがきく
 そう言って、彼は目を伏せ、盃の葉をきゅっと噛みしめて───微かに笑った。
 ここからは世界がよく見える
 彼の声は水音と混じり合い、遠く近く、ゆらゆらと聞こえていた。私は、悪酔いしているのかもしれなかった。