それから十日程、私は床に臥していた。夜露に濡れて呑んでいたのが災いしたのだろう。身体中がぎしぎしと軋むように痛んだ。寝たり起きたりを繰り返しているうちに、私はこのまま、ある朝突然、二度と起き上がれなくなるのではないかと思った。
まるでこれまでの生活を取り上げられるように───
彼の言葉が、ふいに現実味を帯びて私の耳に戻ってきた。
≪───生きることは運命に見放されたということだ───これかと思えばそれ、それかと思えばあれの、嘘の連続と紙のように薄っぺらい現実───≫
そうだ……紙を裏返すように、いつも現実はこの手の先でくるりと翻る。だが、人はそれを……運命と呼んできたのではなかったか。
まるで質の悪い冗談だ……
≪この世の大抵のものは、ジョークで出来ているんだ≫
ああ、
私は叫び出しそうになって目を開けた。
幾度となく、そんなことを繰り返して、ようやく家の中を動けるようになった時に、また思ったものであった。
ああ、やはり、これも冗談だったのだと。
私は臥している間の、己の悲愴な様の滑稽さや自我の脆さに、これが彼の言う≪橋の下に捨てられた≫ということなのだと痛感した。痛感───全身の痛みとして感じた、生の実感でもあった。
そう、生とは、今にも深い川に落ちそうな危うい場所に立っているということであった。次々と翻る現実に目を眩ませられながら、漸う立ち、ああ大丈夫だったと胸を撫で下ろし、今見ているものこそが現実なのだと己に言い聞かせていると、次の風が吹いてくる。
これをジョークと言わずして何と言おう。
酒瓶は嫁がどこかにしまい込んでいた。どこにあるのかと尋ねたが、≪もう少し回復するまで控えた方が良い≫と言って教えてはくれなかった。
そうして一月程が経ち、私はようやく外出を許された。瓶を手に提げて歩きながら、あの橋の下を見下ろした。
そこには誰もいなかった。
当然だろう───彼とて、あんな場所で暮らしている筈はない。自殺を思いとどまった彼女も、もうあの場所へ足を運ぶ理由もない筈だ。私は葉先を黄色に移し始めた土手の草はらを見渡して、もうあの青い香りの酒を呑むこともないのだろうと思うと、それが残念だった。
赤鼻の親父は私の顔を見るなり、≪くたばったかと思ってた≫と言って、折れた前歯を見せて笑った。≪まだ迎えは来ないようだよ≫≪あんたに逝かれちゃ、客が一人減っちまうがね≫折れた歯の隙間からシシシと笑いを洩らし、親父は≪嫁さんにゃ内緒にしときな≫と、酒を少し多めに瓶に注いだ。
昇り始めた月を道の向こうに見ながら戻る。橋まで来ると、私は土手を下りた。誰も居なくてもいい。これが最後かもしれぬ。私は瓶を傍らに置くと、乾いた草を摘み取って、彼の手つきを思い出しながら、盃の形にくるりと丸めてみた。
元の形に戻ろうとする葉を手で押さえて酒を注いだ。底に出来た隙間から、酒の滴がぽたぽたと落ちた。私は慌てて口を盃の方へと寄せて、ずず、と啜った。手を濡らした滴を舐めていると、カサ、カサ、と乾いた足音が近づいて来て、私は顔を上げた。
…やあ。どうも上手くいかんよ
彼は戸惑ったように見開いた目を私に向けていたが、それを聞いて目を伏せ、……笑った。
コツがあるんですよ
彼は私の向かいに座り、器用にあの盃を作って寄越した。
もう、具合はいいんですか
ああ。…知っていたのか?私が臥せていたこと
年寄りが姿を見せなくなったら、臥せてるか死んだかのどちらかしかない
そう言って彼はフッと笑った。
彼の言うことは、実に明解だった。
私は既にこの異国の青年が気に入っていた。彼は我々が運命と名付けることで理解していたものを、たった一言で言い表したのだった。
草陰の虫達が鳴いていた。夏の終わり頃の生命力のある鳴き声ではなく、静かに、川風に乗せて去り行く季節を送るような、そんな音色だった。私は体の冷えないうちに、家へ戻ることにした。乾いた葉の盃で呑んだ酒は、たった一口ではあったが、また違った味がした。私は、また来ると言った。彼はただ、そうですかと答えた。
以来私は足繁く橋の下へと通った。
酒を少しずつ小瓶に移して持って行った。長居をせぬための工夫は私の身を案ずる息子夫婦への配慮でもあったが、酒瓶に残る酒を覗いて≪また次がある≫と思うことが楽しくもあった。
時たま留守にすることもあったが橋の下の家の主は大抵私より先に来ていた。決して愛想が良いとは言えないが、これが彼流の歓待の表れなのであろうと、私が来るより先に出来ていた盃を見つけた時には嬉しくなった。
私は彼に、何処に住んでいるのかと尋ねることはしなかった。昼間は何をしているのか。仕事は何なのか。そうした質問を退ける雰囲気が彼にはあった。いや、それを訊いてしまえば、ここはただの古い橋の下に過ぎなくなる、酒を呑みに来る理由がなくなってしまう。私は、尋ねたくなかったのだった。
しかし彼自身について興味はあった。半月程過ぎたある夜、私は彼に、郷里は何処なのかねと尋ねた。
そんなものはない、と彼は答えた。
そんなものがあったら、僕はここには居ない
彼は俯いて、指先で枯葉を弄んでいたが、顔を上げて私に尋ねた。
あなたはここで生まれたんですか
ああ、そうだ。父の畑を継いで、ずっとここで暮らしてきた。今は息子が畑を継いで、あとは迎えを待つばかりだよ
迎えね…
彼は、誰の、と言うと草の上に倒れてクククと笑った。
誰が僕を迎えるって?神とか運命とかそんなものは所詮、後から人が名付けるものだ。ああ、ばからしい───だけどね
彼はむくりと起き上がって背を丸め、上目遣いに私を見た。
死はただ、死だ。しかしこれから死にゆく者に安らぎを約束するのが、そうした名前だ。あなたよっぽど、死が怖いんだな
一息にそう言うと彼は口の端だけで笑った。私は、こんな若者にそう言われて、何か言い返さずにはいられない気持ちになった。
……君は、怖くないと言うのか
怖いさ
ふいに虫の音が大きく聞こえた。
張り詰めた静寂の中で、私達は互いに身動き出来ずに見つめ合った。
眠れぬ夜が続いた。
あの後、私は言葉を失ったまま立ち上がり、家に戻った。それから暫く、あの橋の下へ行く気にはなれなかった。
朝の冷え込みは体に厳しかった。畑に出ても何もしないに等しい。嫁は私を気遣ってか、孫を私に任せ、家に居るようにと言った。孫の世話で一日が終わる。眠れずに起き出してこっそりと啜る酒は、味がしなかった。
ずっとこうして生きてゆくのか───こんなふうに。
思うように動かない重い体、味のない酒───
なぜだ。なぜ、もう私には何もないんだ。
答えは簡単だった。私は、老いたのだ。
この地に生まれて、畑で働く父を見て育った。成長した私は父について畑に出た。土を返し、種子を撒き苗を植え、虫を除き、収穫する。春には春の、秋には秋の野菜を街に卸し、この家に戻って来た。この家と街を繋ぐ、あの川沿いの道を、辿って来た日々。
あの道しか、私にはなかった。私の人生にあったのは、ただ一本の道だった。
だから、働けなくなった私にはもう、この家しかないのだ───
息子夫婦が畑に出る間、孫を見る。歩き始めたばかりの孫が、椅子に腰掛けた私の膝に掴まって立ち上がる。私は孫を抱き上げようと腕を伸ばした。
───もう何もない人生を生きるのだ。死ぬまで。
だが、それはいつ訪れるのか。こんなふうに、もはや何も変わりようのない日々を───
孫は日に日に育ち、重くなってゆく。何もかもがこれからだ。全てが不思議に満ち、知りたくて、欲しくて、小さな手を伸ばしている。孫の小さな手が私に伸びて、袖を掴んだ。強く引っ張って、私を引き寄せようとしている。孫にとっては、私もこの世の謎の一つなのだろう。
彼の姿が目に浮かんだ。
私の人生の、あの道の途中、橋の下に突然現れた人物。これも運命と名付けることができるとするなら、運命に見放されて死期を待つ私に、その時をもたらすのは彼なのか───
孫は懸命に手を伸ばして、私の体をよじ登ろうとしていた。抱いて欲しいのだ。私は孫を抱えて、胸の方へと持ち上げようとした。
手に力が入らない───
孫は私の腕からするりと抜け落ちた。
≪お父さん、お父さん≫
≪どうしたの、お父さん≫
孫の激しい泣き声に、畑から戻った嫁に呼ばれて我に返った。嫁は床に転げた孫を抱き上げた。≪何があったの、こんな、こんな……≫見ると、孫の額が切れて血が溢れ出していた。嫁は動転して叫んだ。
≪こんな怪我をさせて放っておくなんて、どういうつもりなの!≫
───何をしたのだ、私は…
いや、そんなつもりではなかった。だが……
その夜、私は酒を持たずに家を出て、あの橋の下へ向かった。
橋の下に人影が見えて、私はたまらない気持ちになった。
ここに来れば何かが変わる。
変わる筈だ。きっと───
近づくにつれ、その人影が彼のものではないことに気が付いた。
彼女だった。
私の足音に振り返った彼女は、夏の夜から比べて更に線が細くなっていた。彼女は弱々しく微笑んで、またお酒を買いに行かれるのですかと尋ねた。
いいや。君も、彼に会いに来たのかい
いいえ。でも、今日、街で彼を見かけたの。郵便配達をしてるのね
それは知らなかったと私が言うと、彼女は草の上にしゃがみ込んだ。私も彼女の隣に座った。彼女は膝を抱えて、目を伏せた。
…それで、彼の言ったことを思い出して、ここに足が向いてしまったの。本当に、ここからは世界がよく見えるのね。いいえ、世界は姿を隠しているけど、本当はこんな場所なんだわ
カサ、カサ、と彼の足音がゆっくり近づいた。だが私達は顔を上げなかった。わかりきっていることを確かめる必要はないからだ。彼は私達の傍らに立ち、黙って見下ろしている。その視線を感じるだけで、私達には充分だった。
ずっと、待っていたの。今日こそ手紙が届くんじゃないかって
彼が緊張した気配が感じ取れた。彼女は続けた。
だけど、来なかった。きっともう来ないわ。何通も手紙を出したけれど、ずっと返事は来なかった…。あの人は約束したわ。きっと迎えに来るって。だから、信じて待ってた。遠く離れて、信じる他に何も出来ないんだもの
彼女の声が震えた。
…夏に、知り合いがあの人の街へ出かけると言うから、様子を見てくれるように頼んだの。元気そうだったって。それならなぜ、私に答えてくれないの?考えても考えても、わからなかった。…ううん、本当はわかっていた。わかっていて、それでも、私には信じる他に何の手だてもないのよ。だから何も言ってくれないんだわ。私が信じているから、あの人は自分の手で終わらせることができなくて、私を橋の下に捨てたの。私が川に落ちるところを見ないで済むように逃げ出したのよ。…だけど
彼女は顔を上げて彼を見た。深い湖のような色を湛えたその大きな目から、涙がぽろりと落ちた。
こんなふうに信じられなくなるのなら、あの人の手で川に突き落として欲しかった
私は、祭りの夜に彼女が身を投げようとした理由がわかって、しかし彼女に掛けられる言葉など何もなかった。以前なら、もう忘れてしまいなさいとでも言ったのだろうが、今の私には何も言えなかった。
彼女は信じるものを失った。私もまた、何も持たぬ身だ。
私も顔を上げて、彼を見た。彼は真顔で私たちを見下ろしていた。
…もう、終わらせて。でないと、信じてしまうの
僕は君の恋人じゃない
そんなことはわかっている!
彼の冷たい言葉に、私は吐き出すように叫んだ。彼は目を見開いて───驚いたのだろう───私に顔を向けた。私は、割れた酒瓶からこぼれた酒のように言葉を吐いた。
彼女はいつ落ちるとも知れぬ身に怯えて、それでも信じていたんじゃないか。私だってそうだ。病んで働くこともできず、孫に怪我を───いや、
私は掌で額を押さえ、首を振った。冷静になれ。
孫の怪我は、落ちた時に、古くなってめくれた床板で切れたものだった。深くはないが、赤子であることを思えばなお痛々しかった。後々まで傷跡も残るだろう。取り返しのつかないことをした、私に孫を抱く力もないために。
…何を為すこともなく、死ぬまでただ生きるだけだ。働くことも、孫を抱くこともできぬこんな身で、あの家に居られない。他に居場所もない。それならもう終わりにして欲しいんだ
彼は静かに、深く溜息を吐いた。
…そうだな。僕らはそれぞれに、終わりを望んでいる。しかし運命は僕らを見放して、僕らは力尽きる日までただ川の流れを見つめているしかないのかと思っていた。だが…
私達は顔を上げて彼の次の言葉を待った。彼は、ようやくいつものあの笑みを見せた。
運命はやってくるものとは限らない。人が名付けてしまえばそれが運命だ。どうだろう?この中の誰かが、この三人の運命になる、というのは
……どういう…意味かね
僕らの恐れている、あの結末───川に落ちるのは怖ろしいが、しかしそれは運命の名の許に安らぎとなる。そうだったね。君は恋人を信じる心に終わりを、あなたは死を待つ日々の恐怖に終わりを。僕は───いや、どうでもいいことだが
ふいに彼は目を逸らして川の面を見た。彼の動きに、眼鏡の縁が月明かりを反射して小さく光った。
人は運命に従うものらしい。本当のところ、運命に従ったと考えるのに過ぎないのだが。僕らもそうしようじゃないか。面白そうだ
そう言って彼は目を細め、楽しそうに頷いた。
この中の誰かが、この三人の運命になる。