続・橋の下の家 -3

 遠くに並ぶ家々の屋根の黒い影が、橙の空を背負い始める頃だった。
「あの時も、こんな空の色だったな」と彼は西の空を見た。
「空も、街も、人も…赤く燃えていた。───あなた方は見た事もないだろうが───ここから西に海を渡った大陸の国々で戦があったのは覚えてるだろう。たった五年前までの事だ」
 西の大陸で戦争があったのは知っている。五年前まで……多くの犠牲者を出した事くらいは、新聞で知っていた。
 だがそれは───遠い国の出来事だった。
「敵国の民というだけで、罪のない人々が敵として殺されていた。僕の兄も最前線へと送られて、消息を絶ったままだ。僕も徴兵されて、銃を持たされた。一度簡単な演習をしただけで戦地へと向かった。兵士の誰も言葉にはしなかったが、望まない事だった筈だ」
 彼が煙草の煙の向こうに居るように、話はフィルターをかけられているような気がした。そう、まるで実感がない。
「僕らは司令のままに動かされる駒だった。敵国の兵士もそうだ。拠点のある町は片端から爆薬を仕掛け火を放ち、燃え盛る炎は空を焼き尽くす程だった。だから僕は夕焼けが嫌いになった」
 彼はふうと息を吐くと、煙草を手近な石に押し付け、火を消して吸い殻をそこに置いた。
「そんな折、僕の故郷が襲われたと知らせがあった。視察の名目で町に戻ると、そこは焼け野原だった。瓦礫になった教会や学校には遺体が並べられていた。両親もいたよ。黒い姿で」
 重い言葉を淡々と語る彼から目が離せなかった。彼女が息を呑んだ気配がした。
「あの時感じたのは憎しみより───いや、それはいい。僕は郷里を失った」
 ≪そんなものはない≫
 老人に郷里は何処かと尋ねられて答えたという彼の言葉が思い出された。
「僕は町に火を放つ仲間とその周囲を遠くから見張る役をしていた。僕自身が火をつけたことはないが……同じ事だ。炎が町を呑み込んでいる最中、僕は不意に後ろから脚を撃たれた。歩けずに民家の壁まで這った。振り返ると敵兵が僕を見下ろし、銃を構えていた。その人はこう言った。『…許してくれ』と。撃たれると思った僕は咄嗟に銃を取り、目を瞑って引き金を引いた」
 彼は唇をぎゅっと噛んだ。暫しの沈黙───私に何か言える筈もなかった。彼がまた深く呼吸し、続きを語り始めた。
「覚えているよ。額を撃ち抜かれて炎の中に倒れていったその人を。忘れてはいけないと思っている。郷里を奪ったのも両親を殺したのも下層の兵士達じゃない。偉そうに命令を下すだけで手を汚さない奴らだ。だがあの兵士を撃ったのは僕だ。僕は人の命を奪った。時々思う、あの時に彼を許して撃たれれば良かったのかと」
「そんな事ないわ。仕方のない事だったのよ…」
 彼女の声も震えていた。
「そういう事だ」と彼は俯いた。「僕は手を汚した人間だ。関わらない方がいい。だから来るなと言ったんだ」
 私と彼女は言葉を失って……頭の中では考えていた。それは時代のせいだったのだと言えば良いのか?慰めが通用するとも思えなかった。
「そして同時に撃った彼の弾は逸れて、今度は肩を撃たれて、仲間に助けられて野戦病院に送られた」
 彼は何が可笑しいのかフッと笑いを漏らした。
 ───可笑しいのではないだろう。私の想像だが、自分を嘲ったのだと思った。
「毎日、誰かが運び込まれて来る。そして毎日誰かが死んでゆく───。神にすがる者も居れば自棄になって暴れる者も居た。屍は郷里が無事な者は返され、無縁の者───僕みたいな者は何処かの教会の墓地に運ばれたと聞いている。僕に出来る事は何もなかった。ただ死にゆく者をはたから見ているだけ───僕の傷が癒える頃、唐突に……いや、そんな気がしただけだが、戦は終わった。敵国がこちらの中枢都市を壊滅し軍が機能しなくなったんだ。僕らは敗戦国の者として敵国の牢獄に一時置かれていた。そうして手を汚さなかった偉い奴らが───敵国の一方的な圧力によってだが───協定を結び、僕らを放り出したという訳だ。行き場のない僕は、海を渡って誰も戦争を知らない場所に住もうと旅をして、この町に辿り着いた。…便宜上『敵国』と言ったが敵だとは思っていない。親の仇ではあるが、僕を撃った男と同じ気持ちだったろうと……躊躇しながらだったと思う。───そういう時代だったと言えば救われるとも思わない」
 淡々と語る。
 ≪本当ならもうない命でした≫
 私は彼女の言葉に自分を重ねていたが、本当に命がなかったかもしれないのは彼の方だった。戦火の中で撃たれ、銃口を向けられて、それは何という恐怖だったろう。咄嗟に───相手とほぼ同時に撃ち合ったのも致し方のない事だった。だが彼は、自分を責め続けているのか───それとも語りのように淡々と受け入れているのか。
 私は彼にぶつけてやろうと思っていたものが、ただの感傷に過ぎないと判って、沈黙せざるを得なかった。彼女はそれでも食い下がろうとした。
「おじさまは良くて、なぜ私は駄目なの」
「君には時間がある。未来という時間が。あの人にはそれが残り少なかったからだよ。僕と呑むのが楽しいなら呑んでやろうと思っただけだ。それに、」
と彼は鋭い視線で彼女を射抜いた。
「あの人が救った命だ。僕の傍よりもっと相応しい居場所がある筈だ」
「おじさまが救ってくれた命だから、」と彼女は声を上げた。「おじさまが一番気に掛けていたあなたの傍にいて、あなたの為になりたいの…」語尾が萎んだ。
 彼は小さく溜息を吐いた。
「…僕が人殺しでも?」
 最後のカードだ、と私は思った。
 彼女が自分を愛していると気づいて遠ざけるのは、彼もまた彼女を彼なりに愛しているという事ではないか。
「悪いのはあなたじゃない…。戦争のせいよ…」
 やっと出た言葉なのだろう。彼女は目に涙を溜めて、彼を見つめ返した。彼は「戦争のせい、か」と言って苦笑した。今度は何が可笑しいのか判らなかった。
「僕が生まれたのは少数民族の国でね。独自の文化に誇りを持っていた。そして金の鉱脈があって、国はとても豊かだった。敵となった国は金鉱脈が欲しかっただけだ。ついでに国ごと支配しようとしたのは、僕らの民族を蔑視していたからだ。ばかばかしい。あれほどの命を奪ってまで手に入れたかったのか」
と彼が言うので、戦争そのものを嘲ったのだと判った。そうして、彼はぽつりと小声で言った。
「夜な夜な酒を持ってここへやって来ていたあの人の純朴さに…僕は救われたのかもしれない…」
 不意に彼がパンと手を打って「これで話は終わりだ」と目を伏せた。
「君達が帰らないと言うなら僕が帰るよ。さっきも言ったが、ここでは僕が異端の邪魔者だからね」
と彼は立ち上がった。待ってくれ、と引き止めたのは私だった。
 ここは誰をも受け入れてくれると、そう言ったのは君じゃないか、と。
 彼はフッと笑って、「思い違いだったようだ」と言って私達に背を向け、土手を登り始めた。その背中に、かけるべき言葉は見つからなかった。




 その夜、私は町で買った紙をテーブルに広げた。もう何も書くことなどないと思っていたが、気がつけば私は言葉を綴り始めていた。この町で初めて知った闇の深さと死を覚悟した崖の上で出会った彼の事を───
 私が捨てようとした命の重みと、≪本当ならもうない命≫を生きる彼女と彼の生き様の違いを。
 そう、命は───人生は一つだが、生き方なら幾つもあるのだと実感した事を書いていた。もう何もかもやり尽くして、あとは死ぬだけと思っていた私の人生に、新たな風が水面を渡って冷たく吹いて来た事を……
 まるで初めての事のように、私に『生きる』という選択肢が与えられていた。そうだ、私は幾度も───生死を考えながら、この十年を書く事に費やして来たのではないか。そして物語の終いはいつも、己の人生を生きていく、というものではなかったか。
 それは書き手としての私の人生を投影したようなものだった。
 そうして───彼の告白まで書いて、筆が止まった。
 何を書けば誰も皆、救われるのだろう。
 私はこの町に滞在する予定を延ばした。元々、死ぬつもりだったのをやめただけだが、暫くこの町に逗留して書く事に専念しようと思った。
 いっその事、この町に引っ越してここで生きようかとも思ったくらいだ。
 私の人生の続きを与えられたこの町で───
 だが筆が止まって以降、全く書けない事に苛立ち始めていた。彼と会わなければ書けないと思い、日々夕刻にはあの橋の下を訪れたが、彼に会う事はなかった。彼女とも会えなかった。二人とも、もうこの橋の下に来ないのか、と思いながら通っていた。
 橋の下は独りになった私を受け入れてくれていた。
 静かな流れの音の中で、私は物語の続きを考え、どれも腑に落ちず、気づけばひと月が過ぎていた。私は自分の家───本来の住まいに帰る事にした。この町に移住するにせよしないにせよ、一度は帰らなければならなかった。
 夜行列車で帰郷するその日、発車の時間までを橋の下で潰す事にした。傍らには大きな旅行鞄を置き、岩に腰掛け川面を見ていた。西の空が───燃えている。彼が「夕焼けが嫌いになった」と言っていたのを思い出した。
 この美しい空が、彼には苦痛なのだ。その事が胸をひりつかせた。
 不意に「おや」という声と共に、サクサクと草を踏んで歩く足音がした。───彼だった。薄い笑みを浮かべて近づき、私の横に並んで立った。彼は私の鞄に目を留め、「お帰りですか」と尋ねた。私は、ああ、とだけ答えた。
 ───これから物語の終わりが始まる。
 書けなかった事が書ける、と期待して心臓が早鐘を打った。
「奇遇ですね。僕も今夜の列車で旅に出ます」
 え?と彼を振り仰いだ。同時に彼が私から視線を逸らした。
 どこか…旅行でも…?と尋ねる声が上手く出なかった。
「ええ。とりあえず東に向かおうと思ってます。…行く宛ですか?さあ、どうでしょうね」
 また他人事のように言う。彼は、もうここには戻らないつもりなのだと直感した。
 彼女はどうなるのだろう。さりげなく訊くには何と言えばいいものか……
 ───ここは、どうなるのですか
「ただの橋の下に戻るだけですよ。けれど……そうだな、僕はね、人は皆、橋の下に捨てられた子供のようなものだと思っている。僕は彼女をここに置いて逃げ出す卑怯者だ。けれど彼女にはここから離れて生きるという選択権がある。それを選んで欲しいから───僕はここを離れるんです」
 それを聞いて、私は、彼女とここで生きるという選択肢はないのかと尋ねた。
 彼は暫し考えていたようだった。やっと口にした答えは、
「彼女は清らかだ。汚れた手をした僕は相応しくない」
 一生、罪を負って生きるつもりなのですか、と問うと、彼は沈黙した。救いにはならないと思うが、戦は君の罪ではなかろう、と続けた。
「確かに君は人の命を奪ったのだろう。だがそれは戦の中で自分の命を守る為だったじゃないか。それは罪じゃない。自分の命を救うのは、時に自分だ。自分しかない時すらある。君の命があったからこそ……幸せだった老人もいたのだろう。君の生は決して、否定されるものではない筈だ」
「……」
 彼は険しい目で私を見た。その瞳に光が揺らいで見えた。
「逆もまた真なりだ。他人にしか救えない命もある。医師が病人を治すように……そうだ、僕が崖から落ちそうで落ちなかった、そう言えば判るか。僕を正気に戻して崖から引き返させたのは君だ。君にそのつもりがなかったとしてもだ」
 彼は無言で───硬直したかのように動かず聞いていた。
「…この橋の下は君の居場所だ。邪魔してすまなかった」
 言いたい事を全て言って、私は立ち上がり彼を真正面から見据えた。
 真顔で私を見ていた彼が、フッと小さく笑った。
「本当にここはお節介焼きが集まるんだな。爺さんの置き土産のようだ」
 そう言うとさも可笑しいと言うように彼は体を折ってクククと笑った。はあ、と大きく息を吐いて彼は大きな荷物に手を遣ってトンと一つ叩いた。
「荷造りが無駄になってしまった」
 それを聞いて───私は彼を救えたような、そして彼によって救われたのだという気持ちになった。
 彼が微笑んだ。いつものような皮肉さを感じさせない、穏やかな笑顔だった。
「またお会いしましょう」
 ああ、と頷いて、私は荷物を担いで駅への道に向かった。




 以上が、私がこの世の果てを目指して辿り着いた町での出来事である。
 あれから───
 この記録が本になったら、またあの町を訪ねようと思っていた。今度はただの旅行者として。あの町に住まう事も考えたが、私が作家として生きていくには都会の方が都合が良かった。都会から汽車で丸一日の、遠い田舎である。
 その小さな町に、美しい跳ね橋があり、その下には───
 安らぎの場所がある。
 まるで自分の家のように───そう、訪ねるのではなく帰るのだ。
 そこには自ずと、孤独な者が集まる。そして『尚生きる』、その事を見出すのだ。
 そしてやはり、自分の墓はあの町の墓地にしようと決めた。どんな形であれ、将来を決めた心には、生きる力が湧いてくる。私は作家として描き続けようと思った。
 生きるという孤独を抱えた者たちが集まるように、いつか繋がり合うように、私は『人間』を描くのだ。
 生き様、死に様、いろいろあれど、真理はただ一つ、「人は生まれたからには生き、そしていつしか死を迎える。それは誰にも平等に与えられた、限りはあるが自由であり、生命の営みは死期を迎えるまでは、どんな時にも変わらず続いてゆくものである」という事だ。
 あの崖の突端に立たなければ、この思いは得られなかった。
 そう、人は───皆、危うい場所に立ち、生と死の狭間でゆらゆらと揺れながら、生へと手を伸ばし生きようとするのだ。
 分け隔てなく。
 私は、彼らとの再会を楽しみにこの記録を書き上げた。思い出すのは辛くもあったが、もう迷いはなかった。
 最後に言わせて欲しい。

  親愛なる友へ  感謝を込めて