部屋の明かりを消さずに眠る。
以前は明かりを消して、映画を観るのが好きだった。映画館のようにポップコーンとコーラを用意したり、床に寝転がって観たり。けれど今は蛍光灯のオレンジの豆電球だけでは怖い程暗く感じられる。
一旦ベッドに入った私は思い立って起き出し、バッグの中のファイルから諒介の手紙を取り出した。簡単な挨拶からいきなり研修指導の話題に入る。小さい文字で便箋に二枚。ぱらりとめくって三枚目。
───あれから周囲に変化が起きたりしていないようで、ひとまず安心しました。あまり思い詰めないよう、なるべく気楽に構えて過ごすこと。
インストラクターの件も、市川さんはあれでいて(失敬)慎重な人ですから、君に任せる事については充分考慮の上だと思います。余計な事は考えないこと。
それから、念のために、給湯室へは決して一人で行かないこと。
必ず入力室の誰かと一緒に行くように。───
ごろりと寝転がって何度も読み返した。
相変わらずだ、と苦笑した。諒介自身の事は書いてない。新しい仕事の事や近況などは一言も触れていなかった。昨年の残暑見舞いがやけに貴重なものに感じられる。
私は起き上がり、便箋二枚をファイルに戻して、ベッドの上によじ登った。枕の上、壁のコルクボードを見る。
諒介の残暑見舞い。
昨年暮れに佐々木さんから貰ったロンドンのタワーブリッジのカード。
正月明けに届いた、旅先からのカードは里美から。ニューカレドニアの海。
昨年夏に帰省した時に買った富士山の写真のカード。
私は三枚目の便箋をコルクボードにピンで留めて、布団に鼻までもぐって目を閉じた。
空は深く澄んだ青い色をしていた。星が見えている。
桜の花の淡い色が空に映えている。暖かな風がふわっと吹くと、花びらがわずかに散ってひらひらと舞った。
富士山が見える。
濃紺の影。白い冠雪にも薄青い影を纏っている。
それが何かに似ていると考えた。
諒介だと思い至った。先月東京に来た時の、紺のコートと白いセーターだ。
私の目の前には畑が広がっていて、そこかしこの民家に見覚えがあると思った。
見回すと向こうに医療品会社の工場が見え、すると私の後ろには、と振り返った。
私の家があった。そうだ、私は帰ってきたのだ。
古い木戸を開けて門をくぐった。飛び石を踏んでゆっくり歩く。庭を覗くと、父の盆栽はまた増えたらしい。ふふ、と笑った。母の好きなハーブの鉢にも白い花が咲いている。玄関脇に兄のバイクがあった。今日は早く帰ったのかな、おかしいな、と思った。空を見上げて月を探すが、目に付くのは柿の木の枝ばかりだ。玄関の扉を開けようとすると鍵が掛かっていた。私はポケットを探ろうとして、ポケットがないのに気が付いた。
パジャマを着ている。素足だ。
「あれ?これって夢なの?」
思わず声に出した。
すーっと目の前が真っ白になった。
ぼやけて見えていた景色がだんだんとはっきりしてきた。私の部屋の鏡台やテレビ。私はベッドの中に居た。だるい、と思う毎朝の儀式を今日も果たしてもう一度目を閉じた。
せっかく家に帰ったのに。せっかく富士に逢えたのに。
もう一回、夢の続き。
鼻がツーンとして、目がじんじんした。目を開けると、涙が横に流れた。
いい夢。変な夢。いい夢。変な夢。
私は頭の中で交互に繰り返した。どちらなのか判らなかった。
きっと諒介の手紙が紺のコートの富士山でインストラクターが恥ずかしくて家に帰りたかったんだ。
思考がぐちゃぐちゃだ。
私はむくっと起き出して、まっすぐバスルームに向かった。ぼんやりと歯を磨きながらシャワーの栓を捻った。
ザーッ
パジャマを脱ぐのを忘れていた。頭からお湯を被って、ストライプのパジャマが体にひっついた。
前にもこんな事があったような気がする。何だっけ、何が、
『何があった』
鋭い声だった。
私は目を見開いた。息を呑んで、くわえていた歯ブラシがぽろっと落ちた。「ああ、」声と一緒に口から歯磨粉の泡を洩らす。それをシャワーの湯が洗い流した。私は体を壁にぶつけて、確かなものを探して座り込んだ。
ザーッ
私は湯の流れる床を這ってバスルームを飛び出した。キッチンの床に私の這ったあとが濡れて光る。どこか掴まる所、溶けない所、
どこ、
椅子の脚を掴むとガタッと揺れた。
どこ、
『よし』
床と壁。
私は玄関の前まで這ってそこの床を確かめ、横の壁を左の掌でバンと叩いた。
「…よし」
『大丈夫だ』
「大丈夫だ」
私は壁にひっついた。右手の甲と右頬をくっつけた。「ううううっ」という自分の泣き声に驚いた。涙がぼろぼろと溢れて、私は何で泣いているのだろう、と思った。
『何?』
紺のコートの袖が富士山だ。
『ここからは遠い』
ここは東京だ。
『帰る所があるのはいい』
帰りたい。静岡に帰りたい。ここは怖い。
涙が止まらなかった。
『由加もメモしておけ』
早めに出勤した。退職する松岡さんが「よかったら使って」と譲ってくれたノートには、彼女がそれまでに仕事を教えてきて気づいた事などが数年分も記録されていて、どうしたら分かり易く教えられるかなど、日記形式で綴られていた。
『帰る所があるのはいい』
同じメモを掌に、諒介は大阪で働いている。
私も仕事を頑張ろうと思った。
コピーを取りながら、またしても泣きそうな目をこすっていると「おはようございます」と浜崎さんが入ってきた。私は「おはようございます」と笑顔を返した。
「浜崎さん、本読むの好き?」
「本ですか?少し…ですけど…何ですか?」
「どんなの好きかなあ」
「軽くて読みやすいの」
「あ、私も」
ふふ、と一緒に笑ったところで佐々木さんが入ってきて「うわお」と万歳した。
「朝から激しいね、佐々木さん」
「だって低血圧の泉ちゃんがもう来てんだもん。当番の私より早く」と言って、私がコピー機の電源を切るのを見た。「気合い入ってますな、師匠」
私はうんと頷いて、自分のデスクのペン皿を取った。太巻きペンの数が増えたので、ペン立てからペン皿に替えた。当番が掃除をするのだからデスクで作業すると邪魔になる。私は入力室を出て休憩所へ行く事にした。
休憩所で塗り絵をする。通りかかった市川チーフに「おはようございます」と声を掛けるとこちらへやって来て塗り絵を見て驚いた。「そういう事は就業時間にやっていいんだよ」と笑う。
「朝イチで渡したかったから…。そうだったのか、チッ」
「アハハ、泉ちゃんはクソ真面目だからねえ。ま、私が見込んだだけの事はあるわな。頑張ってね」
キーボードの絵に色を塗る。キーの指位置。人差し指がピンク色、中指が水色、薬指が黄色で小指が黄緑色。親指は赤。これは浜崎さん用。慎重にゆっくり塗った。ずっと塗っていたら手が震えてきた。誰かが休憩所の前を通り過ぎ、バックして戻って「うおお」と言った。
「俺は今、奇跡を見とるんか。朝っぱらから由加が仕事を」
「悪かったわね」
皆、私をそんな目で見ていたのか。朝は大抵ぼーっとしているけど。
澤田さんは綿コートに鞄を抱えた出社スタイルのまま私の向かいの椅子に腰掛けた。私は色を塗り終えて、ペンを置いた。
「今朝ねえ」
「うん」
「実家に帰る夢見たんだ。富士山に桜が映えてきれいだった…」
「そーか。ええ夢見たんやな」
「うん」
目をこすると「また泣く」と笑われた。「内緒にしてね」と言うと澤田さんは微笑んで頷いた。
諒介には、と言わなかったが、多分判っただろう。
ミーティングの後で山口さんと浜崎さんの二人に私のデスクの所まで来てもらい、今日やってもらう事を説明した。
「…山口さんのやった分は後で私がチェックします。浜崎さんは今日もデモに合わせて打って、二人とも終わったら教えてくださいね。浜崎さんは昨日と同じで、夕方にどこまで進んだか見せてもらいますから」
よろしくお願いします、と三人で頭を下げた。二人が席に戻ると、佐々木さんが手にしたファイルの陰から小声で「師匠、様になってますねえ」と言った。
「松岡さんと諒介のおかげ」
「へえ。…和泉さん、元気してる?」
「…多分」
多分って何じゃそりゃ、とクスクス笑いで佐々木さんはまた手を動かし始めた。
あの手紙ではどうしているか判らない。判るのは私が心配をかけているという事だけだ。私は、二月に彼が東京へ来た折に見せたいつもと違う様子が気になった。そのすぐ後にはもういつもの調子で「まいったな」と言っていたけれど。
私は佐々木さんとは反対の隣、少し離れたデスクの浜崎さんの手元を見た。
パシャ、パシャ、パシャ、パシャ、パシャ、パシャ
両手がキーの上に浮く。デモの声の合間の待機中。彼女の顔をちらりと見ると真剣そのものだ。可愛いな、と思う。その向こうの山口さんの様子を見に立ち上がった。
タタタタタ、とかなり慣れた手つきだ。要領さえ覚えればすぐに仕事に入れるだろう。山口さんの顔もちらりと見る。美人の真顔は鋭い感じ。呑み込みが早いのは真面目だからだろう、と思った。私はそのまま通り過ぎ、バッチを取って自分の席に戻って仕事を始めた。
時計の針が四時半を差す。私はまず山口さんに声を掛けて、デスクの横に立って背を丸めた。松岡さんのノートからコピーした表に書き込んだ結果を見せる。
「これと、これ。覚え違いね。あとはミスがなかったので、この二つだけ覚えてください。覚え間違えると手に癖がついちゃうから…」
「はい」
「それから、明日から仕事、まだみんなとは違う仕事だけど、やってみましょう」
そう言うと、山口さんはニコッとして「はい」と頷いた。
次に浜崎さんの席にまわって彼女の横に自分の椅子を引き寄せた。「それじゃ、この絵、隠しちゃいます」とキーボードの絵を取って膝の上に伏せた。
「はい」
「半分貸してね」と私と浜崎さんとでイヤホンを分け合い、デモの音を聞きながら彼女にタイプしてもらった。私はモニタを見ている。
「はい、お疲れさまでした。浜崎さん、休憩の時にもやってたね」
私は彼女が昼食の後にもデスクに着いていたのを思い出して言った。
「熱心だから覚えるの早いけど、休憩はちゃんととってください。目とか背中とか、慣れないとすぐまいっちゃうよ」
「はい」
私はキーボードの絵を彼女の原稿台に戻した。五時のブザーが鳴る。いいタイミングだ。新人の二人がマシンの電源を落とし、デスクの上を片づけて休憩室のロッカーに向かう。お先に失礼します、と言うのへ、皆でお疲れさまでしたと答えた。
「ああ、緊張した」
私が自分のデスクに突っ伏すと佐々木さんが「お見事」と拍手した。
「泉ちゃんは結構外面が頑丈だから」
「上がり性ゆえの無表情仮面」
皆、言いたい放題だ。そういえば澤田さんにも「厚手の猫をかぶって」と言われた。
帰る支度をして開発部を覗く。通路と部を隔てる低いロッカーに両腕を載せて寄り掛かる。古田さんが「何してんの」と言うので「澤田さん待ってる」と答えた。澤田さんが奥の席から「もうすぐやから待っとれ」とこちらも見ずに言った。
「おやおや、どこへ行くのかな?」
「本屋」
「へえ?何で」
「新人さんの入力の練習用のテキストにいい本を探すの。澤田さんは詳しいから」
「ふうん」と言って古田さんは振り返り、ニッコリ笑った。目が一本線になる。
「古田さんは大阪の本社に居た事ある?」
「ないよ」
「…そう」
「ごめんねえ、僕は和泉の過去を知らなくてフフフ」
私は驚いて「何で判っちゃうの」と訊いた。
「泉ちゃんが本社の話を持ち出すなんてそれしか考えられないもん。…入社した時の研修で僕が大阪に行った時だから八年?九年?まあ、そのくらい前に一緒に研修受けてはいるけれど、人数も居たし、その時は和泉を知らなかったよ。澤田も。…で、その数年後に」
フーンと古田さんは椅子の背凭れに寄り掛かって伸びをした。
「…その数年後に?」
「フフフ、一度、ほら今回みたいに合同のプロジェクトがあった訳ですよ。それで僕は和泉と一緒に仕事をしたんだよ。泉ちゃんも知ってる通り、奴は照れ屋さんですから、仕事以外の事は喋らなかったなあ」
「…それで?」
「だから、他に知らないの。ごめんねえ」
「うん。別にいいけど…」
「何かあったのかしら。訊いてもいい?」
「だめ」
「うーん、手強いな。澤田も苦労するねえ」
すみません、と思わず頭を下げてしまう。
その判らなさに、私自身どうしようもないのだ。自分の周りに不思議な事が起こる特異体質。知られたくない、気持ちの悪い物がまとわりついている自分。諒介は恐れずに居てくれるけど、他の人は判らない。
「終わったァ」と澤田さんが嬉し泣きの真似をした。「あーあ、とっとと帰ろ」と立ち上がって私にニコッと笑った。