「…夜明けが近いな。急ごう」
彼は立ち上がり、老木の枝に手を掛けた。私は疲れ果て、もはや動く気力はなかった。彼はペン程の細い枝を三本選んで手折った。枯れ枝はポキリと乾いた音を立てて折れた。再び彼は私たちの前に胡座を掻き、折った枝の端をナイフで斜めに切って長さを揃えた。そしてナイフを傍らに置いて、懐からペンを取り出した。枝の切り口に印をつけながら、彼は笑い顔で……言った。
「一人、一本ずつ籤を引く。直線の印は川の流れだ。落ちる者。十字の印は墓。墓守として拾われる。そして、印のないものが」
籤の印を私達に向けて、彼は厳かに宣言した。
「僕らの運命を定める者だ」
この中の誰かが、この三人の運命になる。
あの夜、私達が取り決めたのは、次のようなものだった。
一人は、川に落ちる。運命によって流れに突き落とされ、運命に見放された生に終止符を打つ。
一人は、運命に拾われる。すべてを失った生に、役目を与える。この場合、他の二人の名誉を守るという仕事である。
最後の一人は、この三人の運命となる。
一人に死を、一人に生の意味をもたらし、自らが運命となることで、また大いなる運命に拾われる。
そうして私達はこの丘に墓穴を掘り、いよいよその時を迎えた。
静かだ。
何の物音もしない。風もなく、冷えた空気の中で、私達は熱を帯びた手を伸ばした。彼の握る枝の一つを選ぶ。彼女と私がそれぞれ枝を掴んだのを見て、彼は「では、引いてください」と掠れた声で言った。
彼の手から、枝を抜き取った。
先端の印を見る。
何も───なかった。
私が、この三人の、運命───
「僕が墓守だ」
その声に、私は彼女を見た。彼女は私を見て、穏やかに微笑んだ。
彼は傍らのナイフを拾って私に差し出した。私が躊躇していると、彼は顎を上げて私を見下ろすように視線を投げた。
「これこそ天の配剤と呼ぶに値するじゃないか。あなたこそ僕らの運命に相応しい」
そう言われて、私は……これが私を拾い上げる大いなる運命の導きかと眩暈を覚えながら、彼の手からナイフを受け取った。
私と彼女は向かい合わせに立ち、彼は私達を見守るように少し離れて立った。
「苦しまないように。心臓を一突きだ」
彼はそう言って唇を噛みしめた───笑うことなく。
彼女は目を閉じた。背筋を伸ばし、じっとして、自分の胸の上に運命の刃が振り下ろされるのを待っている。
手が───震えた。
彼女の青ざめた頬の上で、長い睫毛の影がかすかに震えていた。
「……できない。私には、できない」
彼女がゆっくりと目を開けた。深い色の瞳が、私を憐れむように揺れた。
「私が君の運命だなどと……命を奪うことなど、許される筈がない。そうとも…、誰にもそんな権利はないじゃないか…」
「誰が許さないと言うんだ?」彼が笑った。「これは僕らが決めたことだった筈だ」
「いいのよ。今の私は、死んでいるのと同じだもの。…あの人の居ない人生に何の意味もない。それで生きてどうするというの」
「ほら、僕らが許しているんだ。運命に従うと。さあ運命よ」
「やめてくれ!」
私は彼に駆け寄った。
「運命だなんて呼ばないでくれ!私はそんなものじゃない…。どうしても、我々に運命が必要だと言うのなら、私を殺してくれ!私は年寄りだ、先も短い、それこそ…今死ぬのも同じだ。君達はまだ若いじゃないか、この中で死ぬなら私が」
「あなたは罪の意識から逃れたいだけだ!」
彼の鋭い語気に、私は動けなくなった。
「あなたは家から逃れてここへ来た。そしてここからも逃げようとする…。あなたが墓守をやるといい。同じ罪を背負うのでも、手を下すよりは気が楽だろう」
彼は力の抜けた私の手からナイフを抜き取って、私の目をまっすぐに見た。
笑ってはいなかった。
「それが罪を負うことでもかまわない。僕は、生きている」
ゆっくりと彼女に歩み寄る彼の背中を、ぼんやりと見ていた。彼は彼女の前に立ち、静かに尋ねた。
「僕は今、生きていると感じている。君はどう」
「……」
彼女は、無言だった。
私は恐怖にふらつきながら、彼に近づいて行った。止めなければ、彼を止めなければ……
「やめろ、その人に…手を出さないでくれ。お願いだ」
彼のわずかな動きに、眼鏡が星明かりを映して、一瞬、彼の横顔に光が走った。
「…本当に、あなたは僕の運命だったんだな」
彼が何を言ったのか、理解するより先に彼はナイフを持つ手を振り上げた。
「やめてくれ!」
私は彼の手を掴もうと必死で手を伸ばした。彼は自分の胸へとナイフを振り下ろした。指先が彼の手に───
「やめろ───ッ!」
「いやあああ───!」
彼女の悲鳴が辺りにこだました。倒れた彼の胸に刺さったナイフは、空から落ちた銀の月のようだった。
私の爪先で蒲公英が揺れていた。目の前を流れる川は高く昇り始めた太陽の光を受けてきらきらと輝き、橋の影はなお深く見えた。
冬を越えて、私は再びここに居た。
まだ───迎えは来ないらしい。
疲れた膝をさすっていると、彼女が土手をゆっくりと下りて来た。
「今日は具合がよろしいようね」
「ああ、このところ暖かくなったからかね。ここに来るのも久しぶりだ…。髪を、切ったんだね」
「ええ。このところ暖かくなったからかしら」
私の横に座り、そう答えて彼女は微笑んだ。軽く俯くと、顎の辺りで揃えた毛先がふわりと揺れて美しい。
あれから彼女は、時折私の家を訪ねるようになった。臥せていた私の話し相手になり、孫を可愛がり、息子夫婦の作った野菜を買って帰る。私を「おじさま」と呼んで懐いた。私もまた娘が出来たようで、彼女の来訪を待ちわびるようになっていた。
「何か、あったんじゃないのかね」と尋ねると、彼女はクスッと笑った。
「何もないわ。けれど、それでいいの。…あの人は…」
と、ふいに目を伏せた彼女は寂しげに見えたが、
「もう私を思い出すこともないのでしょうけど、それはあの人が幸せに暮らしているってことだと、思えるようになったの。……きっと、春のせいね」
「ああ、そうかい…」
私たちは笑みを交わした。穏やかな日差しの暖かさが辺りに満ちてゆく。
「あの夜、彼が言ったことを思い出したわ。≪僕は今、生きていると感じている≫と言って、私はどうだと尋ねたでしょう。あの時、答えられなかった。……だって、私も生きていると感じていたんだもの。あの人が居なくなって、私は自分が生きているのかどうかもわからなくなっていた…。けれど彼に尋ねられたあの瞬間、私は生きている実感をひしと感じたわ。だから答えられなかった。自分の言ったことが間違っていたんだもの」
「彼は…、なぜ、私を運命だと言ってあんなことをしたのかな…」
「さあ、私にはわからないわ。……そうね、でも」
と彼女は蒲公英を摘んで、指先で茎をくるくると回した。太陽を映したような黄色い花は私達の間で回った。
「おじさまが彼を、自分に何か運命をもたらす者だと感じたように、きっと同じことを彼もおじさまに感じていたのね。夜毎、お酒を持って自分を訪ねて来る人なんて、これまでなかったんだと思うわ」
私は、彼が私を橋の下に見つけた時の目を見開いた驚きの表情や、その後には私より先に来て葉の盃を作って待っていたことなどを思い出した。
「…彼は、生きていると感じていると言った。そう感じさせたのはおじさまだった。だから、おじさまを≪僕の運命だ≫と言ったんじゃないかしら…。だからきっと、私も、おじさまも、刺せなかった」
私は足元の葉を一枚取って、盃の形に丸めてみた。若い葉は手の中ですぐに元の形に戻ってしまう。私の手元を覗き込んで、彼女が笑った。
「葉がまだ小さいんじゃないかしら」
「いや、大きさじゃないんだが……。やはり、難しいな」
「これは彼にしか出来ない仕事ね」
私は葉を丸めることを諦めて、「そうかもしれん」と答えた。
カサ、カサ、と近づいた足音が、止まった。
私と彼女は顔を見合わせて、……笑った。
ゆっくりと振り返る。
眼鏡の奥の目を見開いて、彼がそこに立っていた。
あの夜、彼がナイフを自らの胸に突き立てようとした時、私の伸ばした手がわずかに触れて、ナイフの先は急所を外れた。まだ息があった彼を、私達はすぐに医者の許へ運び込み、彼は一命を取り留めたのだった。
そうして私達は、彼の傷が癒えるのを、ずっと待っていたのだ。
私は手にした葉を彼に見せて言った。
「やっぱり、上手くいかんよ」
彼は困惑の笑みを浮かべて俯き、眼鏡を外して深い溜息を吐いた。そして、顔を上げて───
微笑んだ。穏やかに。
彼は黒髪を掻き上げて、あの調子で言った。
「…まったく、これは何の冗談なんだ?」
私たちは立ち上がり、彼に歩み寄った。手を伸ばして言う。
「おかえり」
まるで家族のように。