天使とレプリカ/3

 目が覚めて、隣に誰かが眠っているので驚いた。
 可愛い女の子の安らかな寝顔だ。僕はそれを観察して、昨夜、というより今朝方ノハラを泊めてやった事を思い出し、詐欺だ、と呟いた。
 僕が起き出してキッチンの冷蔵庫を開ける音を聞きつけたのだろう、シオが部屋の戸を開けて「おはよう」と笑顔を見せた。
 僕はコーヒーを二杯いれ、ノハラに声をかけてから椅子に座った。クラッカーにチーズを塗る。「おはよう」とボサボサになった髪を掻きながら、ノハラは寝ぼけ眼でテーブルについた。おはよう、と言っても太陽はもう高い位置にある。ノハラがテレビを点けると昼のニュースをやっていた。カップを手にした彼の目が画面に釘付けになり、欠伸したままの開いた口から「あ、」と声をもらした。
 白いビルが映るその下の方に『ハンズ・アンド・ハーツ社』の文字。「警備員一人が全治一ヶ月の怪我」と聞こえて、ノハラが急いでテレビのボリュームを上げた。
「…研究室の防犯カメラに映っていた元社員の小宮山ノハラ二十五歳を、窃盗及び傷害容疑で」
 ノハラの顔写真が映し出された。
「あちーっ」
「ゲホッ、ガホガホッ、ゴホッゴホッ」
 ノハラがカップを取り落としコーヒーを膝にぶちまけ、僕はクラッカーを喉に詰まらせむせかえった。シオは出番を察知したもののどちらを先にしてよいのかと僕らの間で目だけを左右に動かした。
「シオ、本城君に水を汲んで」
「シオ、ノハラに水をかけろ」
「私は自分でできる。マスターを優先して」
「シオ。マスターの指示を優先だ」
 じっとしていたシオはノハラの腕をグイと引っ張った。細いくせに強い力だ。ノハラは引きずられるように立ち上がった。僕は座ったままグラスに水を汲みながら、あの腕に昨夜ノハラは殴られたのか、と気の毒になった。グラスを持ったまま様子を見について行く。バスルームで、シオはシャワーの水を出してノハラのジーンズの脚にかけた。
「つめてェ」
「我慢して」
 真顔のシオを見てノハラはふっと微笑んだ。バスタブの縁に腰掛けて嬉しそうに「うん」と言い、ちらりと僕を見た。
「やんなっちゃうな。何もあんな写りの悪い写真を使う事ないじゃない」
「そういう問題じゃないだろう」
「確かにそうだ」とノハラは頷き「着替えなきゃ」
「そうじゃなくて」
 ハハハ、と彼は笑った。
「研究室って事はデータでも盗まれたかな。あのセキュリティでどうやって盗めってんだろう。HAHも形振り構わなくなってきたな」
「元社員だから可能って事なんだろう」
「盗むも何も、あそこにあるデータはもともと我々のオツムから出してやったもんだっちゅーの。どうせコミヤマへの手土産とか、そんな事を言うつもりなんだろ」
 くだらない、とノハラは唇を尖らせた。
 しかし警察沙汰にまで発展しているのだ。くだらないでは済まないだろう。僕は睨みをきかせて訊いた。
「何で、こんな事になるまで追われてんの」
「いやァ、去年辞める時、既に脅されてたんですがァ」
 ノハラは頭の後ろに手をやってヘラッと笑い、ふっと寂しげに見える苦笑で俯いた。
「シオ、もういいよ。ありがとう。私の鞄を取って来て」
 言われた通りにシオは水を止め、バスルームから離れた。
「私はHAHを辞めるには内情を知り過ぎた。そして、小宮山の人間だった。…それ以上は知らない方がいい」
 シオが鞄を持ってバスルームに戻った。彼はそれを受け取って「着替えたらお暇するよ」とドアを閉めようとした。僕はドアを押さえて、
「待て、こんな昼間から外を歩いたら目立つじゃないか」
「一刻も早く離れた方がいい。本城君達も巻き込んでしまう」
「だめだ」
 僕がそう言い切ると、昨夜質量を増したように見えたノハラは頼りなく眉を下げ、小さな身体はふっと吹いたら飛んでしまいそうに見えた。これが女の子なら抱きしめてしまうところだ、と思って、ふと思いつきを口にした。
「ノハラ、変装しろ」
「変装?」と彼は目を丸くした。
「…本城君の服を借りても大差ないな…。本城君、シークレットブーツ持ってる?」
「僕が持ってる訳はないだろう」
「そうだよね。それだけ背が高いんだから…」
「バカな事を言ってる場合か?女装だよ、女装」
「女装?」今度は口をあんぐりと開けた。ずる、と眼鏡がずり落ちた。
「自分を私と言うのもボロが出にくくていい。その顔、そのチビ、女装向けだ」
 ノハラはがっくりとうなだれた。
「それじゃ本城君、女物の服を貸して」
「僕が持ってる訳はないだろう!」
「妙案だったのにな…」
 クククと笑って彼は頭を掻いた。鞄を開けて厚い封筒を取り出す。「下ろしておいて良かった」現金だった。逃走費用を残して僕に寄越すと「シオと買い物に行けば怪しまれない。シオにも可愛い服を買ってやって」と笑った。
「金持ちだったんだな…」
「節約の賜だ。夢が一つ消えてしまった」
 そういえばノハラは「やりたい事がある」と言っていたのだった。夢って、と訊ねると彼は「日本脱出」と答えた。
 脱出。
 彼は様々なものから逃げたいのだな、と思った。
 シオは人間がたくさん居る場所に出て、何もかもが珍しいように辺りを見回しながら歩いた。考えてみればメモリーに残っていないというだけの話だったが、昼間に誰かと外を歩くということ自体が僕にとっても何年振りかの出来事で、HAHアンドロイドのユーザー達もこんな時間を求めているのだろうかと考えた。
 誰かが側にいる時間。
 シオには服に対する好みというものがなかった。僕は店員に勧められるままに何着も試着させた。ノハラとは背の高さも同じくらいだ。奴も着るのか、うーむ、などと思いながらシオに似合うと思った物を次々と買って、僕らは両手にたくさんの手提げ袋をぶら下げて部屋に戻った。服に金をつぎ込んでしまったので、シオの靴はスニーカーのままだ。
「ノハラ、ファッションショーしよう」
 返事がない。トイレのドアをノックし、バスルームを覗いた。僕の部屋にもシオの部屋にも居なかった。荷物を詰め込んだ鞄もなかった。
「あの野郎」
 ノハラは消えた。




 夕方になった。僕はシオに「もし誰かが訪ねて来ても、ノハラ以外の人間には絶対に扉を開けるな。居留守を使って誰も居ないと思わせろ」と言い聞かせてバイトに出た。彼の足跡を辿って警察が来るかもしれなかった。その警察がHAHとつるんでいるなら安心できる人間は居ない。ノハラは僕らを追い払って急いで逃げ出したのかもしれなかったが、連れ去られたという事も有り得た。そうなるとHAHがノハラの口から機密が漏れたと懸念して僕らを狙って来る可能性もあった。
 店長はHAHの盗難事件のニュースに首を傾げていた。
「真面目な子なのにね」
 その通りだ。
 彼はHAHで何を知ったのか、シオを大切に扱いながら退社するにいたったHAHの新たな方向性、なぜコミヤマのアンドロイド製造に関わりたくないのか、そういう肝心な事───それがおそらくもっとも危険な事───に関しては一言も話していなかった。
 客が居なくなり、僕はレジカウンターの内側にぺたんと尻をつけて座り込み、隠れて商品の新聞を読んだ。それによると、ノハラの言う通りHAHの研究室からディスクが数枚盗まれたとの事だった。事件の起きたその時間、僕はまだ店に居た。彼が何時頃に僕の部屋に来たのか訊けば良かった、と思いながら読み進む。
 セキュリティシステムが作動し、犯人は駆けつけた警備員を鈍器で殴って逃走。警備員は頭部に全治一ヶ月の怪我、とニュースで伝えられた通りの記述しかなかった。店長が僕の様子を監視カメラで見ていた。店に出て来て「何をやってる」と渋い顔だ。
「本城、気持ちは判るけど今は仕事中だよ。気持ちを切り替えろ」
「…すみません」
「俺も小宮山が泥棒するなんて信じられないよ」
「しても何のメリットもありませんよ。奴はコミヤマに戻る気もないんですから」
「そうなのか?」店長は僕から取り上げた新聞をきれいに畳んだ。
「小宮山製作所って俺も知らなかったんだけどさ、シャトルの部品とかも作ってんのな。精密部品なら有名だけど」
「シャトル」
 昨夜のキリエのコールを思い出した。モニタに映った宙港を見て、ノハラは「HAHの関係者」と言っていた。ステイションに行ったのか?
「何の彼の言って、ワイドショーは宣伝になってコミヤマには有り難いんじゃないのか?いや、息子が容疑者じゃまずいけどさ。今日一日で俺はコミヤマに詳しくなった」
 それはHAHも同じだけど、と店長は笑った。床を拭いていたバイトの学生もそれを聞いていたのか、モップを片づけながら言う。
「て事は、コミヤマの作ったシャトルに乗ってHAHのアンドロイドが月へ行ってるんですね。何か因果な話」
 僕はHAHのホームページで見たニュースに『月面生活時代への対応へ』という見出しの記事があった、と二人に話した。添えられた映像は、建設中のムーンベースでシオとは全く違う男性型のアンドロイドが作業するところだった。
「『基地』だもんな。最初に入るのは各国の軍だろう」
「人が住めるようになるにはまだ時間がかかりますね」
 ノハラが「問題は用途だ」と言ったのを思い出した。




 真夜中を過ぎて部屋に戻った。ドアにそっと鍵を差し、音を立てないよう静かに開ける。映画のワンシーンのような緊張、ドアの向こうで誰か身構える気配がした。
「…シロウ?」
 シオの声だ。僕はホッとしながらもゆっくりとドアを開けた。
 シオは買ったばかりの白いワンピースに着替えていた。「何もなかった?」と訊ねると彼女は頷いて「ノハラが戻ってる」と小声で言った。僕は慌てて部屋に飛び込み、「このバカ」と怒鳴りそうになるのを堪えた。彼はキッチンの隅で膝を抱え、何も言わずに皮肉な笑みを浮かべた。僕とシオは彼を挟むように座り込んで壁に寄り掛かった。
「どこへ行ってたんだ」
「…調べ物がしたくて母校に行った。私と似たような外見の人間に紛れて」 とノハラは眼鏡を外してレンズをクロスで拭いながらフンと鼻で笑った。
「HAHとコミヤマに侵入しちゃったりして」
「危ないじゃないか!」
 危ないと聞いてシオは目を見開き、ノハラの腕を掴んだ。彼はシオに微笑みかけた。
「大丈夫だよシオ。コンピュータに侵入しただけだから」
「ゲッ」
「私にかかればその程度の事はちょろいちょろい」ノハラは楽しげに目を細めた。「こちらも手段を選ばないと言ったでしょう」
「それで何を調べたんだ」
「たいした事じゃないよ」
「嵐が過ぎるまでと言ったね…」
 僕はノハラの顔を覗き込んだ。彼は「嵐」と聞いて真顔になった。
「嵐って何」
「明日の午後、コミヤマの社長に母が正式に就任する。その際にコミヤマがアンドロイド市場に参入すると公式発表する予定。問題はそのアンドロイドの用途で、HAHが表向きクリーンに保っていたイメージを覆すものなんだ。…去年、アメリカの要人のSPに初めてアンドロイドが採用されたのは覚えてる?」
 僕は去年の、ほんの数日騒がれた、その要人が中国を訪れた時のニュースの映像を思い浮かべた。
「ああ。確か試験的に…武器を持たない平和的SPって…」
「SPに平和的もクソもあるか」ノハラはクッと笑った。「その時は倫理的問題でアンドロイドは武器を装備せずに済んだ。腕力だけで充分だからね。結局人間のSPと組んだけれど、アンドロイドの社会的立場が確立されてもいないのに…」
 ノハラは眼鏡をかけて真っ直ぐ床を見下ろした。
「警備や警護アンドロイドが市場に登場する。HAHもこれまで手がけてきてはいたもののそれを表に出せなかったが、コミヤマの参入でマーケットを拡大しなければならなくなる。武器を持たないだって?その腕が武器でないと言い切れるのか」
 語尾が震えて小さい悲鳴のようだった。
「そんな事のために作ったんじゃない…」
「がっかりしないで、ノハラ」
 俯いていたノハラがゆっくりと頭を上げ、「シオ」と呟くと額をシオの肩に載せた。顔を隠したノハラに僕は小声で質問を続けた。
「それだけなのか」
 ノハラの肩がぴくりと動いた。
「その警護アンドロイドは、いずれ仕様を変えてムーンベースへ行くんじゃないのか」
 彼は答えなかった。
「嵐は通り過ぎるのか?嵐の時代が来るんじゃないのか」
「私程度の技術者はたくさん居る。私一人がコミヤマに行かなくても同じだ。コミヤマが私にこだわるのは他に理由がある…。HAHがコミヤマの発表前に私をつかまえようとするのは、発表を遅らせて新分野のパイオニアのイメージを保ちたいんだ」
 不意にノハラはフッフッと笑い出した。
「くだらない。がっかりしてしまうよ、シオ…」
「元気を出して、ノハラ」
 ノハラはシオの肩に額をつけたまま首を横に振った。フッ、フッ、と笑っているのかと思ったら泣いていた。僕が「ノハラ」と呼びかけた時、コツコツ、とドアを叩く音がした。
 深夜の二時の手前だ。
 ノハラが顔を上げた。険しい表情でドアの方を窺い、ずれた眼鏡を直した。シオがノハラの両肩をつかまえた。
「僕が出よう」
「だめだ、私が行く」
「シオ、ノハラを押さえてて」
 シオはノハラの身体を壁に押し付けてかばうように彼に身を寄せた。
「どいて、シオ」
「シロウの指示が優先」
 僕はドアにチェーンを掛けながら「はい」と答えた。
「本城シロウさん?警察の者です」
 そう言われたら開けない訳にはいかない。僕はチェーンを掛けたままドアを細く開けた。狐のような顔の男と、ゴリラのように大きな男の二人がそこに居た。狐が警察手帳を見せた。
「アルバイト先で小宮山ノハラと一緒ですね。小宮山には傷害の容疑がかかっているのはご存知で?」
「ええ。でも小宮山はそんな事をするような人物ではありませんよ」
 狐は僕の言葉を無視した。「行方不明なんだが、行き先に心当たりは」
「ありません」
「話し声がしていたようだが、こんな時間に」
「店に行ったのなら、僕のバイトの時間くらい聞いたでしょう。さっき帰って来たんですよ」
「話し声がしたと言っている」
「女の子の居るところでやめて欲しいな、そういう話は」
「女の子か」と二人は顔を見合わせた。「ちょっと中に入れてもらえないかね」
「そんな権利ないでしょ」
「その女の子にも話が聞きたい」
 シオの顔を見れば納得するかもしれなかったが、彼女が上手く言い逃れられるとはとても思えなかった。
「…ベッドの中ですよ。野暮はやめてください」
 不意にゴリラがドアに手を掛けた。フン、という声とともにドアを力強く引っ張った。チェーンの掛け金が弾け飛んだ。
「シオ!手を放せ!」
 僕の指示とともに自由になったノハラが鞄を掴んでベランダに向かう。柵を越えて目の前の木に飛び移った。
「居たぞ、小宮山だ!」
 僕は自慢の長い脚を前に出した。狐とゴリラが転んだ隙に「シオ、来い!」と叫びながら自分もベランダに向かう。僕が先に外の木に移り、シオの腰を抱えて塀を飛び越えた。足の裏からじーんと頭まで痺れた。二階で良かった、一階でも三階でもこうはいかなかったろう。僕はシオの手を取った。人間の皮膚の感触と変わらない。僕らは外灯の光が届かない闇に消えそうなノハラの背中を追って走った。
 ノハラは身軽ではあったが体力はなかった。まもなく息を切らしてスピードを落とした彼に追いついた。
「…ごめ…」彼は頭を下げて、ハア、ハアと呼吸の合間に言った。「…私が…戻らな…れば…」
 塀に寄り掛かった彼は赤い顔を僕らに向けた。
「…どうしても、言っておきたい、事があった」
「後でいい。とにかくどこかに隠れよう」
「いや、ここで」と彼は鞄をシオに渡した。
「…私の望みは、アンドロイドを傷つけたくなかった。暴力に使って欲しくなかった。多くの技術者がそうである事をユーザーに理解して欲しい。どこかで、皆にそう言って」
「何で過去形なんだよ」
「頼むよ」
 ノハラは表情を歪めた。笑ったつもりらしく、フフ、と言った。
 足音が近づいて来た。
「逃げて。理由もなく捕まらないで。私の言葉を伝えて」
 そう言って彼は足音の方に飛び出し、外灯の明かりの下で一旦立ち止まった。「居たぞ」という声を確かめると走り出して向こうの角を曲がった。狐とゴリラはこちらに目もくれずに彼の後を追って闇に姿を消した。