愛のうた-2

 智彦と由加はベランダの窓辺に座り込んでビールを飲みながら、宇宙艇の点検をするフルタミーノを見ていた。宇宙艇はプランターに激突した縁の部分が破損していた。プチトマトとハーブを植えたプランターは全壊だ。土があったのが幸いして、宇宙艇の方の被害はたいしたことはなさそうで、フルタミーノは「すぐに直りそうですよ」と笑った。
 やがて、フルタミーノが内部の点検を済ませてコックピットから出てくるなり「おかしいなあ」と呟いた。
「おかしいて、何が?」
「コックピットのコンピュータには異状は見られなかった」
「ほんならええやん」
「それじゃ突然操舵不能になった原因が分からなくなる」
「操舵…不能?」
「そう。出発前にも当然点検はしているし、事故が起きるまでは問題なく航行していたんだ。それが当然、誰かに強い力でひっぱられるみたいにね、ここへ落ちてきちゃった」
「誰かに…?」
 由加の声が小さく震えた。
    まさか……
「…智」
「ん、どした?」
「…酔っ払っちゃったみたい。気持ち悪い…」
「そか。もう寝とけ」
「…うん。おやすみ…」
 ふらりと立ち上がる由加に、マッキーが「おやすみなさい、由加さん」と声をかけた。智彦の傍らに並べたタオルを布団にして、マーナーカとイーサムはぐっすりと眠っている。由加は彼らに弱々しい笑みを返して寝室へ入り、後ろ手に扉を閉めた。心臓が早鐘を打っていた。
    思い当たる事はいくつかある……
 このところ、疲れやすくて体がだるい。食欲もなく、時々吐き気がする。前にもこんな事があった。…そう、同じように体調を崩していて   
 由加の秘密。
 それは身の周りに不思議な出来事を起こしてしまう『特異体質』だ。その怪奇さを智彦にも打ち明ける事は出来ないままだった。
 宇宙艇の墜落の原因は、もしかして   私…?
 由加は着替えもせずにワンピースのまま、ベッドにもぐり込んだ。
 どうしよう。治ったと思っていたのに、また……
 どうしよう。どうしよう。
 頭の上まで毛布を引き上げて、ぎゅっと目を閉じた。まぶたの裏に、一人の男の姿が浮かんで消えた。
 玄関のチャイムが鳴った。智彦がインタホンを取って「はい」と応じた。
「夜分にすみません。あの、こちらにフルタ…さんがお見えになってませんか」
「あ、はい、ちょっとお待ちを…」
 智彦は玄関のドアを開けて相手の姿を認めると、硬直した。



 五分後、智彦は電話をかけていた。彼はマンション前の通りから自分の部屋のベランダを見上げた。そこからは銀のどら焼きは見えない。プルル、プルル、と二回の呼び出し音に続いて、事務的な男の声が淡々と応えた。
「和泉です。只今留守にしております。ご用の方は発信音の後に…」
 智彦は、すかさず電話を切った。
    やっぱり。
 ぐったりと部屋に戻った智彦が見たものは、食卓に着く和泉諒介と、すっかり空になった茶碗や皿だった。
「ん、おいしかった。ごちそうさま」
 諒介は箸を置いて両手を合わせた。
 和泉諒介は智彦の元同僚であり、古田同様に優秀なプログラマーであり、いくら食べても太らない謎の胃腸の持ち主であり、今は大阪にいる筈の男である。その彼が今、ここにいるという事は   
「ああおかえり。人の顔を見るなり飛び出して行くから心配した」
「…心配でメシも喉を通らへんかったやろ…」
「うん。でも残すともったいないから」
 無表情で食器を片付ける諒介の背に「何でここにおるねん」と訊ねた。すると諒介はくるりと振り返り、真顔で答えた。
「申し遅れました。イヤソノ星のドクター・イズミです」
 和泉おまえ、ほんまにイヤソノ星人やったんか……
 愕然とする智彦の足元をフルタミーノがトタトタと駆け抜けた。
「あなたがイズミ博士!ご高名は存じております」
    な。なにィ!?
「いや、その…。こんな辺境の惑星を研究しているのは僕くらいのものだから…ね。変わり者って、有名みたいで」
 諒介   いや、イズミ博士は鼻のあたまを掻いて照れ笑いした。デニムのシャツにブラックジーンズという学者らしからぬ……異星人らしからぬ出で立ちも、地球に在住している為と思われた。学者はふいに真顔に戻ってフルタミーノを見下ろし、「たまたまこの近くにいたんで僕が来た。早速始めましょうか」と一つ頷いて、ベランダに向かう。こちらも見ずに「君、明かりをこっちに。それから工具箱」と指示した。智彦は部屋の隅のフロアライトをベランダに出した。イズミ博士は「よいしょっと」とどら焼き宇宙艇を持ち上げて、破損部分を明かりの下に向けて置くと、リビングの椅子を持ち出して座った。智彦から工具箱を受け取るとそれを膝に載せた。
 彼は工具箱から大型のカッターナイフを取り出し、その刃先を宇宙艇のどら皮に押し当て、すーっと引いた。
「…宇宙船がそんな簡単に切れるんかいな!」
「これが最先端の科学だ」
 どこがや、とは声にならなかった。イズミ博士はどら皮の欠損部分を切って剥がし、あんこの機械に目を凝らしている。
 宇宙には、地球人類の想像も及ばぬ謎があるのだ。多分。
 智彦は少し離れて彼を見た。黒縁眼鏡を掛けた細面、唇を噛んで物を見る真顔。
    ほんまに和泉そっくりや。
 宇宙艇の故障個所を検分する様は、諒介が仕事に集中する時の真剣な様子と同じだし、先程高名な学者と言われて照れた時の、鼻のあたまを掻くしぐさも「いやその」と言い淀む癖も……
 由加も驚くだろうと思いながら、智彦は寝室へ移った。暗い部屋の明かりを点けずにベッドに近付く。由加は毛布を頭の上まで掛け、背を丸めて寝ていた。酒に弱い由加は酔うとすぐに眠ってしまう。智彦はそっと毛布をずらして由加が眠っているのを確かめるとクスと笑った。
 イズミ博士と会わせない方が良いのかもしれない。
 あれから   諒介が由加に「もう待たなくていいから」と告げ、行き先も知らせずに引っ越してから二年になろうとしている。辛うじて智彦が仕事で数回顔を合わせる他は、むしろ互いに避けていた。交友関係が復活したのは結婚後暫く経ってからの事だ。
 無論、由加はこの二年、諒介と会っていない   
 智彦は由加の頬に軽く触れ、熱っぽいな、と思った。静かに戻ろうとしたその時、由加が小さく身じろぎして「うん」と声を洩らした。
「…諒介…」
    夢を見ているのか……
 眠る由加はわずかに眉根を寄せ、更に背中を丸めて小さくなった。
 その夢は、悲しいのか?由加   
 智彦はうなだれてリビングに戻った。明かりの眩しさに目が痛かった。



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