- 蕾 -

 翌日、私にとって、大事件が起こった。
 バレンタインのチョコレートを関谷さんに押し付けて逃げ帰った後は、自己嫌悪で一杯だった。職場の人達の前であんな事をして、迷惑をかけたに違いない。嫌われるかも───と思うと悲しかった。今朝は学校へ行く足が重く、休んでしまいたかった。母にうるさく追い立てられなければ、ずる休みをしていたかもしれない。
 昼休みに校庭の隅のベンチで、涼子とお弁当を食べながら、昨日の顛末を話した。
「告白したの?やったじゃん!」と興奮する涼子に、「やっちゃったよ…」とうなだれるしかなかった。お弁当も喉を通らない。
「絶対迷惑だったよ……関谷さん、困った顔してたもの」
「でも受け取ってくれたんでしょ?」
「関谷さん、優しいから。それだけだよ」
 空の方からゴーンと音がする。飛行機が高く、近くを飛んでいた。涙を堪えて目を上げると、飛行機雲が一筋、すうっと伸びてゆく。澄んだ青空───私の心とは裏腹に、良い天気で、暖かかった。
 青い色は関谷さんの『夜』や、絵の具で染まった指先を連想させて、それもまた切なかった。
「ごめん、私がけしかけたから」
「ううん。涼ちゃんのせいじゃないよ…私が」
 職場の人に嫉妬なんかして、勢いであんなことを言って。
「勢いで言っちゃっただけ…」
 夢の中で、≪もうこんな事はしないで≫と、和志さん───いや、一志さんか───に叱られたのを思い出した。縁さんも、こんな気持ちだったろうか。胸を締め付けられて毛布に包まり泣いた事も思い出した。
 あれは、夢。
 けれど本当にあった事のようなリアリティ。夢なのに───
 そうして私は午後の授業もぼんやりとしていた。早く帰って、何もかも忘れて眠りたい。だけどまた夢を見てしまいそうで……美術室に足が向いた。今日は誰もいない。下校する生徒の賑やかな声を窓の外に聞いていた。
 ボードをイーゼルに置いて、愕然とした。
 何も浮かんでこない。
 白い画面に目を凝らす。以前はこんな事をしなくても、風景が見えていた。心のままに筆を滑らせ、色を載せて行くだけ───それが出来ない───目に浮かぶのは、瞼を閉じて微睡む縁さんの顔だった。
 描けないと言った関谷さんも、こんな風だったのだろうか。
 ぎゅっと胸が潰れるようだと思ったその時、ガタンガタン、と戸が開いて「千鶴、」と涼子が開いた戸の隙間から慌てた顔をにゅっと出して呼んだ。
「ちょっと、こっち。早く」
「え?」
 涼子は部屋に飛び込んできて、私の手を掴むと「早く早く、こっち来て」と引っ張った。「あ、これも」と私の鞄とコートを抱える涼子に、何事かと思いながらストーブを消した。
 美術室のある第二校舎から第一校舎へと渡り廊下を走る。2階は職員室があるが、お構いなしに走る涼子につられた。
「こっち、ほら」と涼子が立ち止まり、窓ガラスに張り付く。ちょうど正門の前だ。私も窓から下を覗いて、驚きのあまり心臓が止まったかと思った。
 通りを挟んだ向こうの歩道で、ガードレールに凭れて立っているのは───関谷さんだった。
「図書室から見えてびっくりしたよ」と涼子。
「……」
 呆然とするしかなかった。関谷さんは、正門から出てくる女生徒達にチラチラと見られながら、困ったように目を逸らしている。
「…あ、やばい。松田に捕まる」
「え?」
 見ると風紀の松田先生が関谷さんに近づいて行った。そうだろう、女子校の前でずっと……ずっと待っていたのだろう。不審者と思われても仕方ない。涼子が私の肩をぐいと押した。
「早く行ってあげて!警察呼ぶかもよ」
「う、うん」
 涼子が突き出した鞄とコートを抱えて、私は走り出した。
 関谷さんが来てくれた───こんな時なのに喜んでいる自分がいる。
 ドキドキと心臓が弾んだ。いつもと違う、緊張。コートをはおりもせずに第二校舎に戻って靴を履き替え、正門へ急いだ。




 松田先生には「知り合いです、不審者じゃありません」と言うのがやっとだった。怪訝な顔で私達を見た先生は「それなら良いでしょう」と関谷さんをひと睨みして校舎に戻っていった。関谷さんは私を振り向いて、優しい苦笑いを見せた。かと思うと目を逸らされた。ちくん、と胸が痛んだ。けれど関谷さんが見たのは私の腕の中だった。
「コート、着た方がいいよ。風邪引くから」
「あ、はい…」
 そうして彼はやっと私の目を見てくれた。今度は私が目を逸らす番だった。昨日の今日で、何を言えばいいのだろう。額の辺りで声を聞く。「昨日、ちゃんとお礼言えなかったから」と言われて赤面するのがわかって、顔を上げられない。静かに「ありがとう」と優しい声がした。ゆっくりとコートの袖に手を通して、上目遣いに関谷さんを見た。彼はフッと微笑んで「うん」とだけ言った。どちらからともなく駅の方へと歩き出す。緩やかな下り坂。一緒にいることを噛みしめるようにゆっくり歩いた。それに歩調を合わせる関谷さん。
 関谷さんはいつも優しい───
 それがよそよそしくも思えた。けれどお礼を言いに来てくれたのだ、待っていてくれたのだ。嬉しい気持ちの方が強かった。泣きたいくらいに。
 こんな気持ちは初めてだった。けれど初めてではなかった。
 夢に見る和志さん───あるいは一志さん───に抱いていた、切なく苦しい思い。この上なく幸福で、悲しみで一杯で。
「………」
 何を言われたのかわからなかった。言葉がバラバラに分解されたみたいに。「千鶴ちゃん?」と尋ねられて、名前を呼ばれたのだとわかった。はい、と横を歩く関谷さんを振り返った。
「もし良かったらだけど…二人で話せないかな」
 え?と目を瞬くと、「その…二人だけで」と関谷さんは言った。
「え?」と今度は声が出た。関谷さんは「≪睡≫じゃなくて、…僕の部屋で」と言った。
「あ…、誤解しないでね。ちょっと≪睡≫では話しにくくて…それだけだから」
「あ、はい…」
 頷きながら、私の緊張はピークに達した。早鐘を打つ心臓。
 地下鉄駅の階段で、隣にいた関谷さんがすっと前に出た。
 ぽっ。
 胸にあの小さな灯のような花が開く。
 それは私の胸の闇の中でたった一つの希望のように見えた。
 希望───ちょっと違うかもしれない。
 私の前で階段を降りてゆく背中。さりげなく、確かな力で、私を恐怖から守ろうとしてくれている。それは希望と言うより、与えられた愛情のように思えた。
 ───嬉しくて泣きそう……
 この気持ちもまた、縁さんとシンクロした。
 切符売り場で2駅の所まで切符を買った。改札を抜けながら、二人で話したいことって何だろう……と考えた時、発車した電車の残した風が階段下から吹き上げて、何かが動き出す予感がした。




 関谷さんの部屋は、古くて小さなアパートにあった。二間の奥の部屋に絵を描く為の大机。こたつが部屋を狭く見せていた。台所にあるストーブに火をつけて、関谷さんは「散らかっててごめんね」と照れくさそうに言った。やかんを火にかける。手早くお茶の用意をする関谷さんの背を見ていたら、こちらを振り向いて「こたつにあたって」。私は「お邪魔します…」とコートを脱いだ。
 こたつを挟んで関谷さんと向かい合った。話って何ですか、と切り出すことが出来ない。緊張で心臓が痛かった。私は関谷さんの言葉を待った。
 長く感じられる沈黙───
 不意に関谷さんが「ごめん」と頭を下げた。
「え…?」と意外な言葉に驚いた。
「千鶴ちゃんの気持ちを考えてなかった。ごめん」
と言ってまた頭を下げる。昨日「好きです」と言ったことだ、とやっと気づいて、「そんな、関谷さんは悪くないです」と慌てた。
 茜さんに言った言葉が喉から出かかった。
 ≪私が一方的に憧れてるだけです≫
 それを言ったら拒絶されそうで怖かった。互いに見つめ合う───困惑の表情を見て、私はどんな顔をしているだろう、と思った。その思いを察したように「千鶴ちゃん」と優しい声で私を呼ぶ。きっと迷惑なんだ───そう思った時。
「前に≪睡≫で会った時に、僕に『描いてるんだ』って言って、笑ってくれたじゃない」
 記憶を手繰る。そういえば、そう言った時にみんなに笑われたのを思い出した。
「あの時、マスターが言ったよね。『いつもそんな顔で笑っていらっしゃい』って」
 そう言って関谷さんは腕を組んでこたつに寄りかかり、私の顔を覗き込んだ。ふ、と微笑む。
「僕もそう思った」
 ───え?
「あの時ね、なんて可愛い子なんだろうって思った。僕が絵を描くのを待っててくれる、喜んでくれる。そんな人、他にいないよ。…嬉しかった」
「………」
「あの時みたいに笑って欲しいって思ってる」
 そして「はは」と小さく笑って、湯呑みを手に取りお茶を啜った。
「だからそんな顔しないで」
 コトン。
 静かに置かれた湯呑み。
「気がついたんだ。『午睡』の彼女が美しいのは、関谷一志を愛しているからだって。それを錯覚していたんだね。まるで自分への愛情のように」
 錯覚───
「きっとあの絵を見た人は同じように錯覚するんだろうね。愛されていると…」
 ため息交じりの声だった。私は何も言えずに、関谷さんを見つめているだけだった。
「あの絵には深い愛がある。縁さんと関谷一志の。命を投げ打つほどの愛が」
 ふと、関谷さんの眼が曇った。それは悲しげに見えた。
 高いビルの屋上で、風になぶられて涙を落とした一志さんのような───
「…錯覚じゃないと思います」
 私は無意識に呟いていた。
「彼女は関谷さんを愛してます。≪かず≫の字が違っても…生まれ変わっても…」
「…え?」
「…あ」困惑の声に、我に返った。「すみません、何言ってるんだろ…」おかしくもなかったけれど、私はクスと笑いを漏らした。自嘲の笑いだった。
 私にはわかる。縁さんの気持ちが。何度も私に訴えかける夢の数々。
「ごめんなさい、おかしいですよね」と涙が滲んだ目を擦った。
「…もう一つ、話があったんだ」
「はい」
「千鶴ちゃん」
と彼は両手の指を組んで顎を乗せた。
「モデルになってくれないかな」
「…えっ?」
「君が僕を錯覚から現実に引き戻してくれた。君を描きたい」
 ≪生きている千鶴の方が強い想いを持ってる筈だよ≫
 涼子の言葉が頭を過ぎった。
 ───私の、思い。
 縁さんではなくて───
 私も気がついた。縁さんの恋に惑わされていたことに。
 今、生きているのは、私だ……
「あ、もちろんヌードじゃないからね。安心して」と関谷さんはふっと笑いを漏らした。「…いいかな」
 すぐに返事をするのは躊躇われた。自信もなかったし、急に縮まった関谷さんとの距離に戸惑った。「…本当に、私でいいんですか?」と尋ねた。
「君がいいんだ」
 そう言われてどきんとした。
「素直に心を見せてくれる、君が」

 ≪慣れてるモデルは心を見せてくれない≫

 どうしても夢の中の一志さんと重ねてしまう……だけど───
 勇気を振り絞った。
「…私でよければ…」
 知らず頭が下がった。「あ、いや、こちらこそ」と彼も頭を下げた。同時に顔を上げて見つめあい、思わずふっと二人で笑った。
 ぽっ。
 またひとつ、胸に花が開く。
 今度は暖かな、幸福の花が。
 それがたった一輪でもいいと思った。今の幸福が続くなら。
 今日は私に会うために休みを取ったらしかった。「早速だけど」と関谷さんはスケッチブックを手にして、こたつを挟んで座ったままの私を描き始めた。
 これが私の告白への返事なのだと───縁さんのように愛されるとか、望んではいない。ただ、私を描いてくれることだけで、こんなにも幸せなのかと思った。
 縁さん。
 私も和志さんに描いてもらっています。
 あなたもきっとこんな風に幸福だったんですね。
 思いが届かない寂しさも一時忘れるほどに。




 関谷さんは「動かないで」とは言わなかった。習作だからだろうか、お茶を飲んでいていいと言った。私はどんな顔をしていいのかわからず、たださらさらと聞こえる、鉛筆の走る音を聞いているうちに、なんだか胸がほかほかとしてきた。描くことに集中している関谷さんを見ているだけで嬉しくなった。
 夢の中でそうだったように───
 出来上がったのか、手を止めてスケッチブックを眺める関谷さんに「見せて」と近づいた。隣に並ぶ。肩も付くような近い距離。≪睡≫でも並んで座るけど、こんなに近づいたのは酔っ払って前後不覚になった時以来だった。
 鉛筆で描かれた私は、置いた湯呑みに手を添えて薄く微笑み、こちらを見ていた。
 驚いた。
 きれい……自分じゃないみたい。
 けれど肩で切りそろえた黒髪も、笑みをたたえた瞳も、唇の端のほくろも、私と同じだった。
「美化してません?」と言うと、「見えた通りに描いてるけどなあ」と彼は苦笑した。
 ───こんな風に、私は関谷さんの目に映っているのか。嬉しさと気恥ずかしさで私も苦笑いした。
「この絵、もらっていいですか?」
「ダメだよ、習作なんだから」
 そして「遅くなったから、もうお帰り。駅まで送るよ」とコートを取ってくれた。
 駅までの道々、これからのことを話した。私をモデルに描く日や時間など決めて、冗談交じりに話して。しばらくはいろんな私を描いてくれると言う。「きっと『午睡』に負けない、良い絵になるよ」と関谷さんは笑顔で言った。
 この人が言うのだから、間違いない。
 そんな確信があった。
 信じるものがあるということは、なんて幸福なんだろう。
 信じられる人がいるということは。
 胸の中で、繰り返し、その幸福を噛み締めた。───やっぱり、好きだ……この人が。
 今にも口からこぼれそうな言葉を呑み込んだ。困らせたくない……嫌われたくない……さっきまでの幸福が痛みに変わる瞬間を、これが恋なんだと思った。
 駅の改札前で「じゃあ、また」「はい、また」と軽くお辞儀して別れた。改札を通って振り返ると、関谷さんは私をまだ見ていた。小さく手を振っている。私も手を振った。
 本当は、もっとずっと側にいたい……
 改札から離れがたかった。関谷さんはまだ私を見ている。私を見てくれているうちに───背を向けられる前に───私は痛む胸を押さえてホームへの階段を降りた。

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