行く先は暗かった。後ろから光が差しているのが判って、振り返った。闇を長方形に切り取ったように、明るい窓のようなものがあった。よく見ると、六角屋の店内だ。───あそこからここに来たのか。ここは、空間の歪み───
 ぼそっとラジオの声。
「ミオさん、手を離さないでね。何があるか判らないから」
「あ、うん…」
 静かだ。私たちは足を止めて目を凝らした。闇に浮かび上がって来た白い弧。それはトンネルのように奥に続いていた。目が慣れると、闇は少し明るさを増して濃紺に見えた。一つ、一つと光の点が現れてくる。これは星だろう……ここは『北天』の中だろうか。
 この不可思議を受け入れられるのは、これまでにラジオから聞いていた話や自分の体験があったからと思われた。
 遠く、うっすらと、光が滲んで、地平線のようなものが浮かび上がった。
 その光を背に立っているのは、高瀬さんだった。ゆっくりと現れるシルエット。
「ラジオさん、ミオさん、何が見えますか?同じものが見えるとは限りません。ここから見える記憶の地平は、その名の如く、見る人の記憶を元に姿を変えて現れます。空木秀二の目には、北極星が見えたことでしょう。空を見上げてごらんなさい」
 私たちは空と思しき上の方を見た。
「赤い北極星…」
「うん」とラジオが同意した。「これは記憶に『北天』があるからかな」
「さあ、日が昇ります。足元に気をつけて───ここは空木が描いた、巨大な雪の結晶の塔の天辺です」
 足元に光が寄せてくる……波のように。
 そこから見えたのは───
 見渡す限りの街並みだった。
 東京…?
 ビル群の密集する所や小さな森が広がる所、東京タワーらしき塔。昇る朝日の光を受けて輝いている。
「……」ラジオが小さく溜息を吐いた。
「ラジにも見える?東京の街並みが」
「……」彼は答えなかった。
「あなた方は、記憶を共有しているんですね」と高瀬さんが地平線に目を向けた。「僕と美緒子がそうだったように」
 記憶を共有、と言われた瞬間、私とラジオの間に光の線が現れた。
 これは───繋がり?記憶の───
 光は滲んでひろがる。
 違う。
 光の線が、増えているんだ。二本、四本、八本……分裂してどんどん増えてゆく。
 光は今や私の体から無数に伸びていた。遠く、近く。私はさまざまなものたちと結ばれているのを感じた。向こうには私の部屋があり、誰かの家がある。間違いない、私はひとりではなかったんだ。
 この下、街路樹とも結ばれている。街灯とも。ビルの窓ガラスや壁とも。道路とも。
 土とも、水とも、空気とも……。
 そしてそれらも互いに結ばれている。
 判った。私たちは同じなんだ。
 そう理解した刹那、涙のせいではなく世界がかすんで見えた。
 いつか見た点描画のように、世界が砕け、しかし散り去ることはなかった。
 何かに似ている。そうだ、教科書で見た分子模型図に似ているんだ。
 全ての物質は原子で構成されている。私も、石ころも、はじまりは同じ場所にいた。
 「私」に組み立てられていた原子は震え、分解するような錯覚。「私」は大気に溶け込み、海に帰還し、土に染み渡り……「私」は「石崎海音」でありながら、この世界を構成する一つの原子だった。世界は隅々まで生命に満ち、欠けている一点すらないのだった。
 宇宙は巨大なひとつの生命なのか?
 この世に無数の生命が溢れ、感情を持ち、それぞれ別の個性で別の人生を歩みながら、それはひとつに帰するのだろうか。
 それは個も種も超えた、生命そのものの記憶だ。この世に発生していつか朽ち果て、新たに構成されまた生まれてくる、その繰り返しを、気の遠くなるような過去から、見果てぬ未来まで続けてゆくのだろう。星が亡び新しい星が生まれ、宇宙はそこに自らの生命を分け与えるのだろう。
「ラジオさん」
と、高瀬さんが呼んだ。「どうですか、この眺めは」
「……」
 ラジオは答えられないらしかった。繋いだ手を通じて、彼にも同じ思いが血液の流れに沿って行き渡り、「逢坂仁史」を構成する原子がうち震えているのを理解した。彼は泣いているのかも知れなかった。でもそこまでは見えない。私の視界は真白にぼやけて、実際もう何も見えてはいなかったから。
 徐々に視界が戻ると、もう私とあらゆるものを繋ぐ線は見えなくなっていた。暁光は消え、辺りは夜空になっていた───『北天』のように。
 ラジオがそっと手を離した。
「僕はラジオです。高瀬さんの想いを……言葉にしてもいいでしょうか」
「……」
「まるで天を手中にしたような眺めだ…」
 ポツリとそうラジオは言った。
「こんな景色を知ってしまって、人として現実を生きてゆくのはつらすぎる…。そして、これは『時と記憶の番人』が言ったことだが───」
 ラジオの横顔を見上げた。つうっと涙が一粒、落ちるのが判った。
「孤独を選び取るのがポラリスのさだめだと…他の星々と一緒に動くことのない北極星のように…それは、さだめなのだと」
 ポラリスのさだめ───
「高瀬さん。あなたは……自ら、賭けに負けたんですね」
「……」
「この世界の均衡を守る為に。そして、美緒子さんの為に」
「それしかなかったんだ…」
と高瀬さんは目を逸らした。
 ラジオは私とは違う景色を見ているらしかった。私は無数の線でありとあらゆるものと繋がっていたのに……、彼にはそれが見えてないのか、と思った。
「こんな景色を知ってしまったら、確かに現実を生きるのはつらいことかもしれません。けれど…いつか思い出した時には、この上なく幸福でしょうね。この世界の真理は…怖ろしいようでいて、優しいのだと僕は思います。苦しみと喜びは抱き合っているのだと。高瀬さん、あなたの『記憶の地平』のように、輝かしく新しく、そして懐かしい───人は、いや、あらゆる存在は、そのことに気付きながら自覚のないまま生きているのでしょう。そしていつか、全ての存在に等しく、全てを思い出すその時はやってくるのだと思います。だから……」
 ラジオはその後の言葉を選ぶように沈黙した。少しの間を置いて、ふっと彼が微笑んだのがわかった。
「今はそれさえ忘れてしまえば、これまでのように暮らしてゆける…」
 ラジオはジーンズのポケットから、あの小さな巾着袋……『お守り袋』を取り出して、口を開けた。何かを手のひらに載せて、すっと差し出して見せた。
「これは…水晶?」
「うん。おじいさんのくれたお守りだよ」
 それはいびつで透明な石だった。ラジオは「ごめんねミオさん」と言ったかと思うと、その石を口に入れた。
 ラジオの右手が私の左頬に当てられ、不意に唇が重なった。涙に濡れた柔らかな感触に続いて、何かつるりとした物───水晶の欠片が唇に触れた。私は身動き出来ずに、その感触をありありと感じていた。結晶が私に触れている、記憶を揺さぶられる───
 彼は唇を離して、間近に私の目を覗き込んだ。その瞳に宿る光は優しく揺れた。
「ミオさん、さよなら。大好きだったよ」
 彼はそう言って微笑み、くるりと背を向けて走り出した。
「待って!待って───」
 思い出せない。彼の名前を、思い出せない。
 走り去る後ろ姿を追うことも出来なかった。身体から力ががくんと抜けて、私は地面に膝をついた。その背中───見覚えがあるのに、顔が思い出せない。
「待って、待って、行かないで───」
 ≪いかないで、東さん……≫
 もう誰も置いていかないで。涙がどっと溢れた。
 大切な人なのに。それだけは判るのに。名前を呼べない。顔が判らない。その後ろ姿はどんどん遠くなり───結晶の形の先端で、彼は跳んだ。
 堕ちてゆく───危ない、と思って見ると、彼の足元から大きな水飛沫が立っていた。水面を滑るように堕ちてゆく。水飛沫は高く舞い、背中から翼が生えたようにも見えた。まるでイカロスの翼のようだった。あれはどこかで見た、何かに似ている……思い出せない───夜空に堕ちてゆく彼の姿は小さくなって闇に吸い込まれていった。
 少し離れたところで私を見ていた人影もすうっと消えた。辺りは暗闇に落ち、私は泣きながら───気が遠くなっていった。




 水中から顔を出したように、私の意識がふわっと浮かんだように───目を覚ました。
 私の左手を、両手に包んで握る人が居た。
 この人は───
「…あずまさん…?」
 やっと会えた。ずっと寂しかった……私は頬が緩むのを感じた。涙が滲んで、目尻から耳へと伝い落ちた。私はその手の確かな感触に安堵して、また眠りに落ちる感じがした。
「『ず』しか合ってねーじゃん」
「良いんですよ。意識が戻って良かった」
 伊野さんと誰かの声───聞きたかった、あの人の声だ……
 そのまま眠って、どれほど時間が経ったのか、判らない。ただ、次に目を覚ました時にも、その人は私の手を握ったままだった。
「和泉さん…」
「気がついた?」
「…あれ?ここは?」
「病院だよ」と答えたのは、伊野さんだった。和泉さんの後ろに立っていた。
 なぜ二人が一緒にいるのか判らなかった。
「このバカ、心配かけやがって…。何ストーブつけっ放しで寝てんだよ。危なく一酸化炭素中毒になるところだったんだぞ。和泉さんがおまえんちに来なかったら死んでたぞ」
 話によれば、私はストーブをつけたまま、こたつで寝入ったらしかった。偶然訪ねてきた和泉さんが倒れている私を発見したという。鍵を開けていたのが幸いした。その最中に伊野さんが私の携帯に電話をかけて、和泉さんがそれを取ったらしい。思わず「すんません…」と小声になった。
「でも何で和泉さんがうちに?」
「いや、それは、その…」と彼はぱっと両手を離した。「つまり…」と視線を泳がせていたが、また私の手を取り、こう言った。
「会いたかった」
 伊野さんはふっ、と笑って「まあ良かったよ。…さて、お邪魔虫は消えるか」とカバンを肩に掛けた。「あ、伊野さん、今度の撮影…」と言いかけると、「バカ。おまえは当分入院だ」と指を差された。また「すんません…」と言う声が萎んだ。




 入院中にいくつかの検査を受けた。それで判ったのだが、私はここ二年程の記憶が、ところどころ欠落しているらしかった。一酸化炭素中毒になりかけたのだ、後遺症かもしれないと診断された。例えば、和泉さんを知っているのに、いつどこで出会ったとかは覚えていない。「ネットで知り合ったんだよ」と和泉さんが教えてくれた。ああ、だから大阪の人と知り合いなんだ…と思った。他人事のようで、何かしっくり来なかったが、記憶の欠落した部分は、伊野さんと和泉さんが根気よく話に付き合ってくれて、教えてくれた。和泉さんとは電話でだけど───
「春になったら、東京に戻ろうと思ってる」
 和泉さんがそう言ったのは、私の退院の日だった。和泉さんは週末ごとに東京に来ていた。荷物をまとめているとそう言ったので、「何で?」と訊いたら、「その…言わせる気?」と言ってクスと笑った。もう部屋も探しているらしい。
「今度、菜摘さんにも会わせてね」
「うん」
「ちゃんとご挨拶しないと」
「そんな堅苦しく考えなくていいよ」
「ミオさんは…」と言って和泉さんはぷっと笑った。「もう少し堅く考えて」
「はあ?どういう意味?」
「さて、行こうか」と和泉さんはニッコリとごまかした。
 部屋に戻って、習慣的にパソコンを立ち上げた。未読メールがたまっている。『名称未設定』というフォルダがあったので開いてみた。こんなの作ったっけ?と思いながら、たくさんあるテキストファイルは何だろう、と開くと白紙だった。白紙のファイルがこんなにいっぱい……何だっけ、と考えても判らなかった。これも記憶にないな…と少し不安になった。
 システム手帳には伊野さんからのAIMの案内ハガキが挟まっていた。この後ろ姿は……長い髪を見ながら、これは私だな、と気がついた。隣に毛足の長いもふもふとした大型犬と一緒に座っている。こんな写真、撮ったっけ?と後に伊野さんに訊くと、「去年のAIMのだろ、これも覚えてないのか?」と言われた。
 ───可愛い犬だな。後ろ姿だけど。ピンと立った耳、ふさふさの尻尾。
 そうか、あれから一年になるのか。
 覚えていないけれど……
 医師にも周りの人たちにも、「焦らず、ゆっくり思い出しましょう」と言われている。いつか思い出すだろう。
 いつか───思い出す?
 何だろう、じわっと涙が出そうなこの感覚は。
 思い出せそうで思い出せない。でも、いつか全てを思い出す。今判らないことは、これから私が解き明かしてゆくまっさらのパズルなのだから。
 東京駅まで和泉さんを見送りに行った。新幹線のホームで、発車の時刻を待つ。不意に肩を抱き寄せられた。
「春になったら、一緒に暮らす?」
「え?」
「考えといて」
 発車のメロディーと共に列車のデッキに乗った和泉さんは、笑顔で手を振った。手を振り返しながら、心があたたまるのを感じた。
 ───もう、ひとりじゃない。
 それは和泉さんだけではない気がした。人と人とは、きっとどこかで繋がっているんだ。判らなくても、どこかで、誰かと。
 それは何と優しく、心地好いのだろう。
 温かい涙が、ひとしずくこぼれた。人は、嬉しくても泣けるんだ。
 ありがとう。それを教えてくれた人々。
 東さん。お父さん、お母さん。
 そして───
 誰かが他にいるような気がしたのは、多くの出会いを重ねて来たからだろうか。
 それが誰なのかも思い出せなかった。それでも、愛しさは生まれるものなのだと、胸いっぱいに広がるぬくもりに浸って、走り去る列車を見送った。





2018.7.30/2018.8.7/2022.3.22修正加筆