あたらしいひなたであいましょう

 プールの底から太陽を見る。
 誰かが上げる飛沫や水面の揺らめきが光のかたちを崩し、蝶のように飛んでいる。横切る人の青い影が無数の泡の尾を残してゆく。
 私は浮力に逆らいきれなくなり、まもなく水面に顔を出した。思いがけない眩しさに目をこすった。
 水の中とは明らかに違う世界の鮮やかさは、不意に私を悲しくさせる。
 色とりどりの水着やはしゃぐ声が、まるで太陽でさえ、あのパラソルやプールサイドのバーガーショップのように用意されたものに思わせてしまう。私は飴玉のように呪詛を舌の上で転がして、ようやく見つけた友人に先に帰ると告げた。
 本当は水の中にいたいのに。だけどここじゃない。いつまでも溶けない言葉の飴が舌を切る。
 夏休みは始まったばかりなのに、私はもう絶望していた。
 行きたい場所はどこにもなかった。誘ってくれる友人にはありがたいと思うけれども、少なくとも今、夏はどこも私を憂鬱にさせた。プールでそれを再確認しなければならなくなったのは、たまらなかった。
 濡れた水着とタオルを放り込んだバッグを手に、埃臭い道を早足で歩く。新しいバッグは透明のビニールで、ワンポイントのひまわりのプリントが夏を楽しみにする少女の象徴のようで、私は敢えてこのバッグを選んだ。他人の目に私もこんなふうに映ると思って。そんな子供じみた企みのくだらなさにひとりで赤面した。気が付くと駅まで駆け出していた。


 切符を買ってから、思い直して改札に背を向けた。まだ濡れている髪から塩素の匂いが漂う。シャンプーより清潔な気がして一瞬トリップする。
 全身ひんやりする。
 水の匂いに包まれる。
 水の感触に包まれる。
 瞬間に弾ける至福の時だった。これ以上の悦びを私は知らない。夏は多くの悲しさのために大きな救いを用意している。
 その悦びの天辺からまっさかさまに突き落とされた。
 背中の衝撃のすぐ後で私の視界に入ったのは、汚らしい床と、私にぶつかってつまづいた人だった。私はその顔を知っていた。
「悪い、今急いでるんだ」
 彼は片手を拝むように挙げてすぐに走り去った。「待てー!」という声に振り返ると若い男が必死の形相で彼を追っている。私の横をすり抜ける時、男のシャツが花模様なのに気が付いた。気持ちの悪い男だ。服装は気障に固めているのに顔だけすっかり崩れている。そんな男に追いかけられる彼に同情した。
 膝の擦り傷に砂が着いていた。バッグからタオルを取り出す。水着をタオルで包んでいたことを忘れていた。青いチェックの水着と、櫛や手鏡が床にバラバラと落ちた。慌てて拾い上げて胸に抱えると走り出した。


 駅から少し歩いた公園の水飲場へ行くことにした。そこで傷を洗えばいい。
 公園の入口で花柄の男とすれ違った。彼はどうしたろう。ぐるりと見渡すと、名前を呼ばれた。水飲場に寄り掛かって座り込んで、手を振っている。私は彼に歩み寄った。
「心配して来てくれたのー?」
「あんたのせいで怪我したのよ」
 私はワンピースの裾を持ち上げて蛇口から注ぐ水に膝をつけた。彼はその様子を楽しそうに見ながら「悪い」と言った。
「何ニヤニヤしてんのよ」
「キレーな脚だと思って」
 彼はいつもこうだ。確か、そうだったと思う。教室でも大抵、笑い顔でいたように思う。少なくとも私は、彼の表情を他に知らない。人をくったような顔は以前から嫌いだった。
「ばかじゃないの」私はタオルで膝をふきながら言った。
「うーん。やっぱりそう見えるのか」
「見える」
 ふと私を見上げる彼が真顔になった。それで、彼の口の端のあざに血が滲んでいるのに気づいた。
「ここ」と私は自分の口の端を指さした。「さっきの人?」
 彼は親指で血を拭うとそれを舐めた。そのまま爪を咬んで少し考えていたが、急に顔をくしゃっとさせて笑った。
「惚れた女が悪かった」
「何?」
「でもその女も悪いんだぜ。あーんな男がいるの隠してんだもん」
「それで、殴られるようなことした訳?」
「だって俺本気だったもん」
 私は頬が紅潮するのがわかった。
「ばかじゃないの」
私はまたそう言った。
「やってることもばかだし、他人に簡単にそんな話するのもばかだし、ダブルバカね」
「そのうえ殴られ蹴られで全身ボッコボコだ。トリプルバカか」
 彼はそう言いながらTシャツの前をまくった。腹に大きなあざができていた。私は男の子の裸を間近で見たことがなかったので耳まで赤くなった。それに気づいた彼は「悪い」と腹をしまった。
「腹減らない?」
「全然」
「俺は減った」
「それで」
「何でもいいから買ってきてくれる」
彼はポケットから千円札を出した。
「どうして私が」
「痛くて動けない」
笑う彼の眉がふと下がった。それでも口もとは笑みのままだ。
「…今食べたら吐くんじゃないの」
「そうか」彼は目を閉じた。
「じゃ私帰るから」
「またな」
 また会うって?冗談じゃない。そう思ってから夏休み明けのことだと気が付いた。


 改札に向かって歩きながらポケットの切符に指が触れると、帰る気が失せる。結局のところ私は家に居たくないのだ。
 いつからか母は変わってしまった。私の顔を見るとヒステリックに怒鳴らずにはいられない。父もそんな母に閉口して最近は帰らない日が増えた。父の宿泊先に母の病気の原因があることくらい私だって知っている。
 デパートに入って本屋とCDショップで時間を潰した。ふと目の高さの肩に振り向く。ヘッドフォンで試聴する少年。
 痛くて動けないと言っていたが、まだあの場所にいるのだろうか。ディスプレイされたジャケットの様々な色の隙間に赤紫がちらついた。彼の腹部の大きなあざの色は、そこに溜まり始めた熱の高さの色だった。雑貨や洋服を触りながら、いらいらして何も買わずに外に出た。夏の昼は長すぎる。太陽はまだ沈みきれずに、まっすぐ視界に割り込んでくる。
 通りに面した店でいくつかのパンと牛乳を買った。家に帰るよりマシだと思って公園に引き返した。
 彼は同じ場所にいた。近づくと眠っていた。私は隣に彼と同じように脚を伸ばして座り、あんぱんを食べた。牛乳のパックにストローを差していると彼が目を覚ました。
「どうしたの」
「もう食べられるでしょ」
 寝ぼけているんだろうか、呆然とした顔でサンドイッチを受け取った。私はプレーンマフィンの紙をはがしながら言った。
「本当にあきれたばかね」
「うん」言いながら口の中のサンドイッチを飲み下す。
「だって俺、失恋したから。今ちょっと恐いものなし」
「ふーん」
 食べることに全力を注いでいると、頭はふっと軽くなるらしい。言葉がするっと出てくる。
「本気って本当だったんだ」
「うん」
 彼があっさりそう言い切るのも食べている時だからなんだろう。私もそれを抵抗なく受け入れていた。本気の恋というものは私は知らないけれど。
 彼は次にやきそばパンに手を伸ばした。牛乳はひとつしかないので真ん中に置いた。更に彼はミルクドーナツを手にして、ふと私を振り向いた。
「半分、食べる?」
「うん」
 半分に割ったドーナツを受け取る時に目が合った。「ふふ」と彼が笑う。
「何?」
「うーん?さて、何でしょう」と言うとまた「ふふ」と笑った。
 もしかして、嬉しいんだろうか。パンのひとつやふたつで(3つだけど)。
「悪いね」
「何が」
「なんか、つきあわせちゃって」
「別に、ひまだし」
「どうもです」と彼が頭を下げた。
 なぜだろう、本気で惚れてたとかそんな不愉快な言葉を私はわざわざ聞きに戻ったのだ。怪我人を放り出してきた罪悪感などは始めからなかったし、ただ興味があったというのとは少し違う気がする。空腹の猫のような懐こさには、いくら食べても満腹にならない胃を感じさせた…まるで私のように。
 薄暗がりの公園でパンを食べていると、昼の鮮やかな光景の裏側にこんないたわりの空が広がっているとわかった。木の間を渡ってきた風が水の錯覚を呼び起こす。水が頬や肩をひやりとつかむと、私は昼の熱から解放される。長いこと忘れていた眠る前の祈り…明日を望む心…一瞬の静寂。あの瞬間が私は好きだった。
 始めはちょっとしたことで怒られた。それから少しずつ、母の声が甲高いものになっていった。母はいつも青白い顔をしていて、父の言動に怯えていた。父が帰らないと母は私を何かにつけて叱り、激しく責めた後で泣いて詫びるのだった。夜毎の胸のひりひりした痛みに慣れてゆくにつれ、私は祈るのをやめた。
 暮れてゆく空の向こうから明日がやってこようとしているのがわかると、私はそんなことを思い出した。
 そんな場所は人を呼ぶらしく、少しずつカップルが増えてきた。彼らは他人の目に映らないように静かに行き過ぎ、夜へと潜ってゆく。ぼんやりと彼らを眺めていて、「あれ?」と思った。
「今の見た?ふたりとも女子トイレに入ってったの」
「見た」彼は平然と答えた。「わかる?」
ばかにされてるのかと思った。どうせ私は彼とは違う。すべて物語と想像の世界の出来事だ。「わかるわよ、それくらい」うわずりそうな声を抑えた。
 彼は最後の一口を飲み込んで立ち上がった。
「来いよ」
 私はバッグを手に、彼の後に続いた。
 足音を忍ばせて女子便所に入った。一番奥の扉だけ閉まっている。声はしないが、人の気配はある。彼は人差指を口にあててニッと笑った。洗面台の上の予備ロールをふたつ、私に寄こした。彼は器用に三つ持って、ロールの端を紙テープのように握った。私も真似をした。
 かすかに息遣いが聞こえてくる。声を堪えているのだろう。時折ドアがドン、と鳴った。女が僅かに声を漏らす。
 私は音を立てないように生唾を呑んだ。ほとんどのぞきのような行為、攻撃の前の緊張と期待、興奮で心臓の音がすぐ横の彼に聞こえるかと思った。狭い個室での性交はどのような姿態で行うのか、想像が興奮をたかぶらせた。
 こんな間に合わせの、汚らしい場所で交じろうなんて、彼らの間に本当に愛情があるとは思えない。私はペンキのくすんだドアを睨みながら父を思い出していた。父も女とこうするのだ。隣で彼が深い溜息をついた。
 荒い息づかいに交じって女の声が高まっていった。いよいよだ。私たちは身構えた。そこは洋式便器だったらしい、おそらく便器の蓋が鳴る音がカタカタと響いてくる。カタカタという音が激しくなってきた。
 彼が肘で私を小突いた。私たちは一斉にトイレットペーパーを投げ込んだ。


 便所のカップルは突如降ってきた白い物に悲鳴を上げた。男の方が驚いたのか、「ヒャッ」と情けない声がした。
 彼らがすぐに追ってこれる筈もなかったが、全速力で走った。バス通りを渡り、歓楽街の裏を抜けて駅の反対側まで走り続けた。灰色のオフィスビルの通用口の前で私がへたり込むと、彼も植え込みに背を寄せて座り込んだ。
 喉も胸も痛くて喋れない。ポリエステルのワンピースが貼り付いて火照った体を急速に冷やしてゆく。荒い息をついた彼が笑い出した。
「…く、くだらねぇ」
「ばかみたい」
私も笑いを吐き出した。それから私たちは狂ったように笑い続けた。
「ほんと、よくそんなくだらないこと思いつくわね」
「自分だってのってたくせに」
「あの声きいた?」
「すっげえ間抜けな声」
「ばかばっかり」
「どいつもこいつもみんなばかだ」
 そんな言葉を飽きるまで繰り返して笑った。肩をぶつけあい舗道に脚を投げ出して、息が整う頃、彼が額を私の肩に載せた。
 温い水がひとすじ、私の腕を流れ落ちていった。
 夜空の雲がネオンサインを反射して瞬くのを見上げていた。彼の悲しみがどれほどのものか私には量ることができない。だけど本物の恋なんて言ったって、そんなものわからないじゃないか。父だって少し前までは母を愛していたのかもしれないが、今は違うじゃないか。母もおまえがいなければと私を罵るじゃないか。
「みんな揃ってばかばっかり」
私が呟くと彼は顔を上げた。
「あんたを騙して遊んでおいて、男に殴らせて捨てるような女のために泣くことないじゃない。その女も花柄男もあんたもみんなくだらない」
「彼女を悪く言うな!」
彼は濡れた頬もそのままに叫んだ。だが俯いて小さな声になった。
「俺には、やさしくてきれいな人だったんだ」
「だからばかだって言ってんのよ。好きだの嫌いだのみんな自分の都合ばっかり。好きで結婚して子供作って、冷めてみたら子供がいるから別れられないだの、おまえがいるからお父さんは自由になれずに可哀想だの、勝手なことばっかり」
「……」
「人の気持ちなんてその時その時で都合良く変わるようにできてんのよ。信じる方がばかよ」
 彼はひどく傷ついたような顔でしばらく私を見つめた。やがてゆっくりと立ち上がると、私を見下ろして言った。
「おまえには一生わかんねーよ」
「なによ、わからなくて結構よ」私も立ち上がって睨み返した。「そんなもの」
 そう言った途端に涙が溢れた。あんなものが私にわかる筈もない。父が、母が、家が簡単に壊れていった。団地の一戸の四角い家で、私はいつも無重力を感じていた。私はどんどん悲しくなってくる自分に驚きながら、わんわん泣いた。
 気が付くと彼が私を抱き寄せて背中をゆっくり、ポン、ポン、と叩いていた。この感じには覚えがある。小さい頃、私が泣くと母はいつもこうした。
「なんか立場が逆のような気もするが」
と、私が泣き止むのを待って彼の声がした。目を上げると彼の力無い笑顔が間近にあった。
「そうだねえ」とガラガラの声で答えると、彼は目を伏せて呟いた。
「みんなばかだなあ」
「ほんとだねえ」
 私たちはきっととても寂しかったのだろう。賑わい始めた夜の街の喧噪も、私たちのところまでは届かなかった。


 一週間後、彼から手紙が届いた。あんまりきれいな文字だったので、差出人の名を見て驚いた。考えてみれば去年の入学式、彼は新入生代表で挨拶をしていた。つまり首席入学である。ばかな奴だと思っていたのでまた驚いた。
 思い返すと私を苛立たせた彼の笑みは、素直さ故のものだった。真剣に恋をして、深く傷つくような奴だったのだ。あのにこにこ顔を思い出して、「結構いい奴なんだ」と呟いた。
 彼の手紙を読みながら「やっぱりばかだコイツ」と笑った。そうしながら、私にはわかったことがある。
「おまえには一生わからない」と言われて私は悔しかった。今になって彼の手紙が私の目隠しをするりと解いて、私は再び太陽を見る。鮮やかに照らし出された世界は見つめていると目が痛む。今また初めて見る景色がひろがっている。
 手紙を机の上に置いて時計を見た。すぐに出た方がいいだろう。私は電話台のひきだしを探って鍵を取り出した。
 今朝から母はいない。昨夜遅くに帰宅した父が私の部屋で泣いた。母さんを病院に連れて行こうと思う、と言った。私は父の左腕に包帯を巻きながら頷くこともできなかった。母は訳のわからないことを叫びながら包丁を振り回し、止めようとした父の血を見た瞬間から虚ろになってしまった。思い出すと涙が出そうだ。
 これからも私にはわからないことだらけだ。でもひとつ、わかったことがあるから何とかなると思う。そう思って、祈る。


拝啓
 先日はたいへんお世話いたしました。なんてね。元気ですか。
 僕は今、函館にいます。アルバイトした金がたまったので、夏休みは沖縄にでも行こうと計画していたのですが、予定外の失恋のおかげで北海道に変更になりました。感傷旅行といえばやはり北ですからね。
 函館はとてもいい所です。夜景を見ていたら涙が出てしまいました。やはりあれはひとりで見るものではありません。とりあえず感傷旅行の醍醐味は堪能したので、次はやけ食いをすることにしました。
 奮発して『いくらだらけ丼』というのを食べました。丼ごはんの上にイクラがびっちりとのっかっているやつで、イクラの山の厚みにいたく感動しました。それでも安い。「どこが奮発だ」と言われそうですが、『いくら丼』よりは贅沢な品です。もっと奮発すると『ウニだらけ丼』というものがあったのですが、これはさすがに贅沢過ぎるのでやめました。
 その食堂のすごいところは、床にイクラがポロポロと落ちているところで、さすが北海道の人は心が広いと思いました。
 きみが言っていた人の気持ちの移り変わりについて、僕も少し考えています。僕は弱いのかもしれませんが、信じられるものがあってほしいと望んでいますし、信じられるものがあった方が、僕という人間は強くなれるような気がします。
 それでも移ってゆくものがあることは仕方ないけど、それに対する気持ちをいかに持つかは、これからおいおい考えてゆこうと思います。
 ともかく、きみには結構みっともないところを見られてしまって、新学期が恐いこのごろです。
 それでは、二学期に教室で。
                         敬具
追伸
 そういえば、あの時きみにはパンをごちそうになりっぱなしでした。
 お土産にフィッシャーマンズワーフの『市場弁当』というのを買って帰ります。ごはんより具のカニとイクラの方が厚く、蓋が閉まらないという気前のいい代物です。木曜日の昼頃そちらに着くので、あの公園で会いましょう。




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